おかしくて狂っていて何だか笑える。
探偵が怪盗を傷つける。
怪盗は黙ってこちらを見ている。
「……反撃しねーのか?」
こそ泥さん。
「動けねーんだよ」
片手で腹を押さえた彼が、ぐったりとシャッターに寄りかかる。
眠る街、閉じたシャッターばかりが並ぶ。人影は見えない。
「そもそもオメーのせいだろうが、分かってんのか」
そうだ。ここまで追い詰めてボール射出ベルトからサッカーボールを出して、怪盗にぶつけたのは俺だった。
しかし彼には武器がある。動けなくとも胸元から取り出して撃てばいい。あの、いつものトランプ銃を。
「何もしないんじゃ捕まえてくれって言ってるようなもんだぜ?」
一度だけ、トランプが俺の腕を掠ってから、キッドはその武器を使わなくなった。少なくとも俺には、向けない。どうやら彼の中では、探偵も傷つけてはならないカテゴリーに分類されているらしい。
敵である探偵すら傷つけることが出来ない、優しすぎる怪盗の“特別”になりたかった。平等な優しさを与えられることが不快で、それならばいっそ、逆のことを、と。
――なぁ、キッド
俺のことだけ傷つけてくれないか。
怪盗は、ゆっくりと口を開いた。
「……反撃、してほしいの?」
あどけなく、ドキリとするような声だった。
それでいてこちらを追い詰める。
モノクルごしの瞳に澱んだ心を見透かされてしまうと思った。
――あぁ、その通りだよ。
口の中で呟いて睨み返す。
――早く
俺を
傷つけてみせろよ。
ずん、と怪盗が距離を詰めた。あまりの至近距離に麻酔銃を構えることすら忘れる。頭突きでもするつもりなのかと検討外れに違いないことを考える。
見下ろされると体格の違いに思わず怯んでしまうのだが、彼は膝をついて目線を合わせた。
止まらない。
更に顔を寄せる。
顔の輪郭がぼやけたと思ったら、視界に広がるのはやわらかい髪で、いつのまにシルクハットをとったのか、記憶を手繰り寄せても、答えはない。
思考は空回って固まってしまう。
とうとう彼の唇が首筋に触れた。
「これで満足だろ」
生暖かい息がかかる。
「名探偵」
囁くように告げて離れるのかと思いきや、彼はこの首に歯を立てた。
「……っ…!?」
首筋に走る、鋭い痛み。
まさかこそ泥の正体は吸血鬼だったとでもいうのだろうか。
バカバカしい。
「っやめろ!何の真似だ!」
我に返ってその顔を必死に引きはがした。
「おー、肌白いから目立つな」
歯形。
検分するようになぞる指先。
震える。
「おまえ、なんで…こんなことしたんだ?」
怪盗は意味深に笑うだけで答えない。
質問を変える。
「…誰にでもすんのかよ?」
熱の上った顔で問う。
「はぁ!?」
素っ頓狂な声が返ってくる。
その後、疲労の滲んだ溜め息。
「肉食動物じゃあるまいし」
ボールの命中した腹を庇いつつ、よっこらせ、と立ち上がって。
「……名探偵だけに決まってんだろ」
振り向かずに告げて怪盗は、夜闇へと消えていってしまった。
痛みと些細な傷と欲しかった言葉、その全てを曖昧に放り投げて。
――なんなんだよ。
もう、答えは返らない。
そして、まるで熱に浮かされたかのようにフラフラと居候先へ帰り着いた矢先、俺は鏡の前で頭を抱える羽目になる。
「っていうかどうすんだよ、この首…!」
確かに目立つことこの上なかった。
END
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