「よし、できた」


名無しは書き終えた任務の報告書を目の前にかかげて嬉しそうに笑った。後は事務所に提出すれば大丈夫だ。と、銀色のアタッシュケースに報告書の紙を一枚入れて部屋を出た。何故アタッシュケースに報告書を入れて持ち歩いてるのかというと、彼女の『不幸』のせいである。せっかく時間をかけて書いた報告書が風に飛ばされて紛失したり、鞄ごと水溜りに落ちて見るも無残な状態になってしまうことが多々あった。少し前まで鍵が付いたアタッシュケースを使用していたが、見事鍵を紛失させ報告書が取り出せなくなり、なくなく虎杖に腕力でこじ開けてもらった時にアタッシュケースが壊れたため、暗証番号タイプのアタッシュケースを五条が新しく名無しのために購入してプレゼントした。前に使っていたものは結構な重量があったが五条がプレゼントしたものは軽量・丈夫・防水のため名無しは大変気に入っている。


「いい天気〜」


外に出ると青空が広がっており最高のお散歩日和だ。と、名無しはるんるん気分で事務所がある建物に向かって歩き始めた。
午前中に任務があり少し早めの昼食を1年生4人で食べた後、「買い物に行きたい」と言った釘崎に名無しは一緒に行こう。と誘われ二つ返事でOKを出した瞬間、名無しのモンペ。否、教育係である伏黒に「ダメだ」と却下された。今日の任務の報告書の作成担当者は名無しのため、伏黒はいつも作成に時間がかかり夜遅くまで終わらない名無しのことを心配しての判断だったが、釘崎と一緒に買い物に行けない名無しには悲しい顔をされ、釘崎には「モンペ!」と罵られ、散々な目にあっていた。その後、名残惜しそうに街に手を伸ばす名無しの首根っこを掴み伏黒が強制的に高専に連れ帰り、虎杖は釘崎の荷物持ちとして同行することになった。


「期間限定の羊羹食べたかったです・・・・」


基本的に名無しは服や靴などのファッションアイテムに全く興味を持っていない。化粧も新年会等の大事な行事の時にするぐらいで普段は全くしていないため化粧品にも興味がない。スキンケアに関してもできれば洗顔だけで終わらせたい。と考える人間のためスキンケア用品にも興味がない。そんな名無しが釘崎と一緒に買い物にでかける目的は全て食べ物だ。釘崎は美味しい不味いに関わらず流行のものはとりあえず食べてみるタイプなため、野薔薇がピックアップするお店は全て、ずっと閉鎖的な田舎町で暮らしていた名無しの好奇心をくすぐるものばかりだった。たまにオフの五条と甘いものを食べに行くこともあるが、五条はどちらかというと王道のスイーツの方が好みなため、その時の流行のものを食べに行くなら釘崎の方が適任なのだ。そして、名無しが今日釘崎と買い物に行きたかった理由は、さっきまでいた街にある老舗の和菓子店で期間限定で販売されている羊羹だった。


「一言、買いに行きたいって言えばよかったかな」


そうすればもしかしたら伏黒は少しだけなら。と言ってくれたかもしれない。と名無しはちょっとだけ後悔していた。


「あれ?」


人目に触れないように山奥の森の中に建物が建てられている高専の敷地は自然に溢れており、ところかしこに木が生えているのはもちろん、わき道は綺麗な芝生が生い茂っていた。事務所に向かって歩いていると、芝生の上に見慣れた男が倒れているのが見え名無しは慌てて近づいた。


「ふ、伏黒さん!大丈夫ですか?!」


小走りで駆け寄った名無しが倒れている伏黒の顔を覗き込むように地面に両膝を付けて顔を近づけると、そこには、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てながら眠っている伏黒の顔があった。てっきり意識を失って倒れたのかと思っていた名無しは、ほっと安堵のため息をついた。オフの日は誰かに遊びに誘われた時以外もっぱら部屋に引きこもって読書をしている伏黒がこんな所で昼寝をしているだなんて珍しい。と、名無しは気持ちよさそうに眠り続けている伏黒の顔を見つめた。6月の初夏だというのに日焼けをしていない白い肌や長いまつげをじっと観察していたが、ふと、横になって寝ている伏黒の手が視界に入った名無しは自分の手をそっと近づけた。


「触ったら起こしちゃうかな」


そう思いながらも掌を上にして広がっている左手が気になって仕方がない名無しは、どうか起きませんように。と願いながらその手に自分の手を重ねた。伏黒の手は男の子特有の少し骨ばった手で体は細身なのに指は意外とがっしりしている。何度もその手に握られこの身を助けてもらっている名無しは改めてじっくり触るとこんな感じなのか。と思っていた。


「えへへ。『玉犬』!・・・なんちゃって」


ベタベタ触っても伏黒が起きないのをいいことに少し調子に乗った名無しは伏黒の左手の親指の付け根を握るように手を掴み、伏黒が玉犬を召喚する時のマネをした。


「懐かしいなぁ」


昔、任務で伏黒とタワーマンションに出た呪霊を祓いに行った時のことを名無しは思い出していた。あの時は任務の前にたまたま伏黒が玉犬の影絵を教えてくれていたから咄嗟に2人の手で影絵を作ることができた。また召喚できたりしないかなぁ。と思いながらも無理なことがわかってるため手を離そうとした瞬間。


「わんっ!」
「えっ!」


影からぬるっと姿を現した玉犬【白】の姿を見て名無しは目を見開いて驚いた。


「もしかして、私にも十種影法術が・・・・」
「んなわけねぇだろ」
「ひゃあ!」


玉犬が召喚されたのを見て自分にも十種影法術が使えるのでは。と夢を見ていた名無しの手は重ねていた伏黒の手に強く握られそのまま体ごと引っ張られた。中腰の体制だった名無しは引っ張られる勢いに抵抗できずそのまま伏黒の体の上に倒れてしまい「何してんだよ」と、呆れた顔をした伏黒と目が合った。


「ふ、伏黒さん、起きてらっしゃったんですか?!」
「当たり前だろ。意識がなかったら式神出せねぇよ」
「そ、そうですよね。す、すみません、つい、出来心で!」


名無しがすぐに謝罪の言葉を口にすると、伏黒は「別に怒ってねぇよ」と言った後、自分の上に乗っている名無しをどかせる様子はなかった。腕を引っ張った時に名無しの体を守るために腰から背中に回した腕がそのまま置かれているため、自分から体を移動させることができない名無しは伏黒と顔を合わせるために持ち上げた自分の顔をどうしていいかわからず、そっと伏黒の胸の上に顔を置いた。すると、伏黒の胸板に顔を乗せた名無しは自分の鼻に入ってきた匂いをかいで思わず「ふふっ」と笑った。


「何笑ってんだよ」
「えへへ。伏黒さんからお日様の匂いがします」
「っ!」
「伏黒さん、一体いつからここで寝てらっしゃったんですか?」


名無しは陽を浴びて少し暖かくなった伏黒の体に顔を埋めて、すーっと息を吸うとぽかぽかと暖かい太陽のにおいがした。なんて幸せな匂いなのだろう。と、そのまま目を閉じていると、頭上から「おい」という伏黒の声が聞えてきた。なんだろう?と思い、名無しが顔を上げると、少し赤くなった顔を手の甲で隠した伏黒が「それやめろ」と言った。


「す、すみません!」


そんな少し照れた伏黒の顔を見て、すぐに、やってはいけないことをした!と察した名無しは慌てて伏黒の上から自分の体をどかせ、そのままの勢いで土下座をした。


「不快な気持ちにさせてしまい申し訳ございません!」


土下座の体制のまま再度謝罪を口にすると、いつの間にか立ち上がっていた伏黒は地面におでこをつけている名無しの頭をぽんぽんっ。と軽く触った。


「不快な気持ちにはなってねぇから、なんつーか・・・・むず痒かっただけだ」
「?」


まだ少し赤いままの顔を背けながら言った伏黒の言葉を聞いて、むず痒い?と頭にハテナを浮かべながら首を傾げた名無しの腕を伏黒は掴んで立ち上がらせた。


「報告書書けたのか?」
「は、はい!」
「まだ出してねぇんだろ。さっさと行くぞ」
「はい!」


地面に落ちているアタッシュケースをさりげなく持ち、そのまま名無しの腕を掴んで歩き始めた伏黒の手は、伏黒よりも歩くスピードが遅い名無しの動きに合わせて自然と腕から手へと移動していった。名無しが、このまま伏黒の手を握ってもいいのだろうか。と迷い指に力を入れられずにいると、するっ。と、伏黒の手から名無しの手が抜けそうになった。


「っ!」


しかし、その瞬間、伏黒は名無しの手を強く握り直した。
その光景を見ていた名無しは、たたっ。と小走りで伏黒の隣に並び、笑顔を浮かべながら伏黒の手を強く握り返した。


「伏黒さん、そろそろ玉犬以外の影絵も教えてくれませんか?」
「やだ」
「え、まだダメですか?!」


伏黒の返答を聞いて、がくっと頭を下げて落ち込む名無しを見て、ふっと笑った伏黒は「気が向いたらな」と言って軽く微笑んだ顔を名無しに見せた。


「ほんとですか?!」
「あぁ」
「約束ですよ?」
「気が向いたら。だからな」


詰め寄るように少し顔を近づけた名無しから少し視線を外して伏黒がそっぽ向いていると、前から「伏黒〜!名無し〜!」と2人の名前を呼ぶ虎杖の声が聞えてきた。


「あ、虎杖さん、野薔薇さんおかえりなさい」


たくさんの紙袋を両腕に抱えて前から手を振りながら元気に歩いてくる虎杖と、そんな虎杖とは違い疲れた表情で紙袋を1つだけ肩にかけている釘崎に、名無しは手を振りながら、おかえり。と、口にした。


「今日もたくさんいい出会いがあったんですね」
「あ〜も〜。釘崎、片っ端から全部店入んだもん。その度に俺が持つ荷物どんどん増えてくし」
「はぁ?荷物持ちとして連れて行ったんだからアンタが持つのは当然でしょ」
「にしたってこれは多くね?」
「これでも少ないほうよ!」
「まぁまぁ」
「名無したちはどこ行くの?」


突然言い合いを始めた2人に名無しが繋がっていない方の手をひらひらと動かすと、伏黒と名無しに視線を向けた虎杖が明らかにどこかへ行こうとしていた2人に質問した。


「これから報告書出しに行く」


名無しの代わりに質問に答えた伏黒の言葉を聞いて、虎杖は「おっ!名無し、報告書ありがとな!いつもよりすっげぇはえーじゃん!」と名無しを褒めた。それに対して名無しが「えへへ」と照れたように笑っていると「アンタたち相変わらずね」と、釘崎が伏黒と名無しの繋がった手を見ながら言った。出会ったばかりの頃は手を繋いでいる伏黒と名無しを見て虎杖も釘崎も“あれか”“つまりあれか”となっていたが、全くもってそんなことはなく、ただ単に名無しの不幸体質による事故防止と、気になることがあるとすぐにふらっとその場からいなくなってしまう名無しにリード代わりで行っているだけだ。と伏黒に言われ、虎杖と釘崎はすぐに2人に対して、カップルかよ。イチャイチャしてんじゃねぇ。等の茶化すような視線を向けなくなった。むしろ、この理由を知っている人たちは皆、子育てをしている親を見るような目で伏黒を見ている。未だに茶化すのは五条ぐらいだ。本人たちも慣れてしまったのか人に見られて恥ずかしい。という気持ちも特にないようで、以前、釘崎が「アンタたち恥ずかしくないの?」と聞いた時も「別に」「恥ずかしくないですよ」と即答されていた。


「あ、そうだ!名無し。はい、お土産」
「ありがとうございます!・・・ん?いか福?何を買ってきてくださったんですか?」


虎杖が持っている紙袋には有名老舗和菓子店いか福の名前が入っていた。一体いか福でなにを買ったのだろう?と、名無しは伏黒と繋いでいた手を離し、虎杖から紙袋を受け取りながら中身を確認した。するとそこには・・・・


「・・・っは!虎杖さん!これ、期間限定の青梅の羊羹じゃないですか!」
「伏黒からそれ買ってこい。って連絡きたから買ってきた」
「伏黒さん!」
「お前が珍しく駄々こねるからなんかあるのかと思ってあの周辺にあった和菓子屋検索してたらそれ見つけただけだ」


伏黒が名無しの首根っこを掴んで高専に連れ帰ろうとした時、いつもは二つ返事で従うはずの名無しが珍しく「少しもダメですか?」「ちょっとだけでも?」と、言ってきたのがずっと気がかりだった伏黒は高専に戻ってきてから勘を頼りに検索し、老舗和菓子店で期間限定で発売されている羊羹の情報を見つけた。


「アンタあの情報だけで名無しがそれ食べたがってるってよくわかったわね」
「普通にわかるだろ」
「わかんないわよ」
「さすが名無しの母ちゃんだな」
「母親じゃねぇ、教育係だ!」


名無しの様子がいつもと少し違った。というだけで、その理由があの和菓子屋の期間限定の商品が食べたかったらだ。ということを見事当てた伏黒に対して若干引いてる釘崎の言葉や、感心している虎杖の言葉を伏黒が否定していると、それにかぶせるように「伏黒さん!」と名無しが声を出した。


「ありがとうございます!とっても嬉しいです!」


相当嬉しかったのか全方向から羊羹を恍惚とした表情で見ていた名無しが満面の笑みを浮かべながら伏黒にお礼を伝えた。その眩しい笑顔に伏黒は一瞬見惚れて「あぁ」と、言葉を詰まらせていると、名無しはすぐに虎杖と釘崎の方を向いた。


「報告書を提出したら皆さんで食べましょ。ちょうど先日悟さんからいただいたお茶っぱがあるんです」
「へー!五条先生からもらったのとか絶対美味しいじゃん!」
「じゃあ、伏黒の部屋集合ね」
「なんで俺の部屋なんだよ」
「アンタの部屋が一番集まりやすいからに決まってるでしょ」
「勝手に決めっ」
「私も伏黒さんのお部屋がいいです。伏黒さんのお部屋はなんだかとっても落ち着きます」
「はぁ・・・・さっさと提出しに行くぞ」
「はい!」


一度離れた名無しの手を攫うように掴んだ伏黒は目的地に向かってまた歩き始めた。羊羹が相当嬉しかったのか伏黒に手を引かれながらも、もう片方の手で持っている羊羹をいつまでも見つめてふらふらと歩く名無しを伏黒はすかさず注意したが、数秒後にまた同じように歩きはじめた名無しを見て諦めたようにため息をついた。


「名無し。ちゃんと歩け。転ぶぞ」
「は、はい!この羊羹だけは何としても守ります!」
「いや、まずは自分の身を守れ」




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