今日は朝から大雨が降っていた。傘をさしていても学校に着くころにはズボンとコートはびしょ濡れになり、皆教室で制服を乾かしていた。天気予報でも夜遅くまで雨が続くと言っていたため、下校の時間も当然雨が降っていた。今日は任務がない。このまま家に真っすぐ帰るだけだから、びしょ濡れになったところで何も問題はない。と伏黒は思い、いつも通り下校した。冷蔵庫に食材がない場合は、下校途中にスーパーに立ち寄ったりもするが、一昨日食材を買いに行ったばかりのため、家に真っすぐ帰っても問題はない。と、いつもの道を通って帰っていた。歩道が狭い道を通るため、視界が悪くならないように傘を少し傾けて歩いていると、目の前から、傘もささずびしょ濡れの状態で手にも背にも大きな荷物を持っている髪の長い女が歩いてきた。その姿はさながらホラー映画に出てくる幽霊のようだった。こちらに向かって歩いてくるその女を呪霊じゃないよな?と注意深く見ていた伏黒はすぐに気がついた。


「名無し!?」


気づいた時にはすでにびしょ濡れの女に向かって走っていた。


「えっ?・・・・あ、伏黒さん?」


自分の名前を呼ぶ声からすぐに伏黒だとわかった名無しは視界を遮っていた濡れて重たくなった前髪を指でかき分けると、目の前から伏黒が自分に向かって走ってくるのが見えた。何故かさしていた傘を閉じて名無しに向かって全力疾走してくる伏黒の姿を見て、名無しはどうしたのだろう?と首を傾げた。伏黒が名無しに向かって「危ねぇ!」と言っているのを聞きすぐに後ろを向いたが、少し遠くに大型トラックが走っているだけで、特に危険はなさそうだった。歩道は狭いがきちんと車道を走っているし、いくら自分が不幸体質だったとしても、あのトラックが自分に向かって突っ込んでくることはないだろう。と思った。念のため歩道の奥ギリギリまで下がると・・・・


「名無し!」


名無しの目の前にたどり着いた伏黒は地面に閉じた傘を捨てて、何故か突然名無しを抱きしめて、車道とは反対方向に名無しの体を反転させた。「ふわっ!」という情けない声を出しながらもどうしたのだろう。と名無しが思った瞬間、バシャーっ!と盛大な水音が聞こえ、顔と体に水しぶきが飛んできた。大型トラックが横を通過していくのを視界の端で見た名無しはようやく伏黒が何故危ない。と言っていたのかわかった。音と同じぐらい盛大に飛んできた水がポタポタと髪から地面に滴り落ち、数秒間そのままの状態でお互いに固まっていると、はぁー。と盛大にため息をついた伏黒が濡れた前髪を邪魔だといわんばかりにかきあげて、名無しと目を合わせた。


「大丈夫か?」
「はい。私は大丈夫ですが、伏黒さんがっ・・・・すみません。すぐ横に大きな水たまりがあるなんて気づかなくて」


名無しは自分の盾になって盛大に水しぶきを浴びた伏黒を見て慌ててポケットからハンカチを取り出して伏黒の顔や髪を拭いたが、焼け石に水状態だった。


「いや、元々濡れてたから変わらねぇよ」
「でもっ」
「そんなことより、お前、こんなところで何してんだ」


伏黒はすぐに放り投げた傘を拾い、ずぶ濡れの状態の名無しにさした。遠くから見た時からひどい状態だと思っていたが、間近で見ると、それ以上だった。


「傘はどうした?今日は朝からずっと大雨だっただろうが」
「傘は、壊れてしまって・・・・」


そう言って名無しはリュックにひっかけていた傘を伏黒に見せたが、16本も骨がある頑丈が売りの傘がボキボキに折れていた。今日は大雨だが、風はそれほど強くなかったはずなのになぜ。と伏黒は思った。


「雨合羽も持ってきているのですが、えっと・・・・、大事なものを守るために使っていて・・・・」
「大事なもの?」
「はい」


伏黒は、名無しが大事なものと言っているのは恐らくこれのことだろう。と、会った時からずっと両腕に抱えているものに目を向けた。たしかにそれには雨合羽と思われる透明のビニールかかっていた。


「今日は雨なので事前にビニール袋をかけていたのですが、駅についた瞬間突然持ち手が壊れてしまって、その拍子にビニールもやぶれてしまって・・・・」


つまり、名無しは今日が雨だということを知った上で事前に万全の対策をしてきたが、全て突然訪れた『不幸』により使い物にならなくなったというわけだ。


「で、なんでお前がここにいるんだ?」


そもそも何故名無しがこんなところにいるのか?と伏黒は尋ねた。もし、任務であるなら伏黒にも声がかかるはずだ。ましてや、この近くには伏黒の家がある。この近くでの任務であれば、何か特別な事情がない限りは、自分にも連絡がくるはずだ。と伏黒は思った。もしかして、また五条さんの嫌がらせでサプライズ訪問か?とも思ったが、それなら誰かしら補助監督が送り届けるはずだ。だけど、さっき名無しは「駅についた」と言った。つまり、少なくとも最寄り駅からは一人でここに来たというわけだ。


「伏黒さんに会いに来たんです」
「は?」


名無しから告げられた理由を聞いて、伏黒は思わずすっとんきょうな声を出した。


「・・・・任務の関係か?」
「いえ、個人的にです」


任務の関係で自分に会いに来たのであればまだわかるが、個人的にということになると、ますます疑問は深まるばかりだった。もしかしたら、高専の人には相談しづらいことでもあるのかもしれない。と伏黒は自分を納得させた。


「とにかくこんな状態で話を聞くのもあれだ。近くに俺の家があるから行くぞ」
「あ、はい!」


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「とりあえず、お前はまずはシャワー浴びてこい」
「えっ?」
「さっき泥水かぶったから汚ねぇだろ」


お互いバスタオルで拭いたところで何とかなる状態ではない。と思った伏黒は名無しにシャワーを浴びるように指示した。


「でも、私よりも伏黒さんの方が・・・・」
「俺は後から入る。着替えもちゃんと用意してやるから、服は洗濯機に入れておけ。いいな?」
「は、はい!」


突然のことに戸惑う名無しに拒否権など一切ない!と言わんばかりの圧で指示を出した伏黒は、さっさと名無しを洗面所の方に押し入れてドアを閉めた。さすがにシャワーの使い方がわからない。とかはないだろ。と思い、すぐにコートを脱ぎ、自分の身体をあらかたタオルで拭き、泥水が混じった水を含んだ服をいつまでも着ていたくないと思い、部屋着のスエットに着替えた伏黒は、名無しの分のバスタオルと替えの服を用意した。姉の津美紀の服があるからそれでいいだろう。と津美紀の服が入っている衣装ケースに手をかけたが、津美紀と名無しの姿を横に並べた伏黒は、数々のラッキースケベ体験から、津美紀の服では入らないかもしれない。と思い、ぶかぶかでもいいから自分のスエットを貸すことにした。「入るぞ」と一応一言声をかけてから、バスルームに視線を向けることなく伏黒は洗面台の横にバスタオルと着替えをおいた。


「ここにバスタオルと着替え置いておくからな」
「はい、ありがとうございます」


名無しの返事を聞いた伏黒は、すぐに脱衣所を出て鞄からスマホを取り出した伊地知に連絡をした。


「あ、伊地知さん。お疲れ様です。伏黒です」
「お疲れ様です。伏黒くん、どうされましたか?」
「あの、名無しのことって何か聞いてますか?」
「名無しさんですか?いえ、特には何も。先日お伝えした明後日の百鬼夜行の件でこちらもバタバタしていて、ここ数日名無しさんとはお会いできていない状況で・・・・、何かありましたか?」


伊地知の言葉を聞いて、そういえば、前に教えてもらった呪詛師夏油傑による百鬼夜行の計画が明後日だ。ということを思い出した。伏黒は2級術師ではあるものの、まだ高専に在学していないことから不参加ではあるが、高専関係者総動員で挑む大きな戦いになるということは聞いている。たしかに、今はその準備で皆忙しいだろう。と伏黒は納得した。


「いえ、大したことじゃないんですけど、名無しが俺に会いに来てて、何かあったのかと思って、一応確認したんです」
「えっ、名無しさんが?!」
「はい。どうやって来たかとか、詳細な情報は、まだ聞けてないんですけど、家の近くで会って、理由を聞いたら俺に会いに来たって」
「そうでしたか。すみません、こちらは何も把握していない状況で・・・・。名無しさんには百鬼夜行の件を話していないのですが、もしかしたら、忙しそうにしている私たちに気を使って一人でそちらに行ったのかもしれません」
「そうですが。忙しい時にすみません。話聞いたらちゃんと高専に送り届けます」
「いえ、迎えに行きますので、話が終わりましたら、連絡してください」
「わかりました。よろしくお願いします」


伊地知との会話を終えた伏黒が電話を切ると、突然、ドカーンッ!という凄まじい音と共に照明の明かりが消えた。どうやら近くに雷が落ちたようだ。洗面所の方から「きゃー!」という名無しの悲鳴が聞こえてきたため、伏黒は視界が悪い中洗面所に向かった。


「名無し?!大丈夫か?」


ドアの前で声をかけると中から「ふ、伏黒さん・・・・」と言う名無しのか細い声が聞こえてきた。何かあったのか、震えた声を出す名無しを心配した伏黒は、もう一度名無しに声をかけたが、名無しは焦っているのか、その声に返事をせずに「ドアどこだろう・・・・」と壁に手をつきながら必死にドアを探した。それほど広くない洗面所のはずなのに、中々出てこない名無しを心配した伏黒は、「開けるぞ!」と声をかけてドアノブに手をかけたが、すぐにちょっと待てよ。と自分の動きを止めた。


「お前、ちゃんと服を着て、うぁっ!」
「きゃあ!」


脱衣所から声がしたということは着替えの途中の可能性もある。と心配した伏黒がドアノブから手を放そうとした瞬間、目の前のドアが開き、そこから雪崩れるように勢いよく出てきた名無しは、目の前にいた伏黒にぶつかった。突然のことに受け身をとれなかった伏黒は、倒れ込んできた名無しの下敷きになるように壁にぶつかり、床に座り込んだ。


「いってぇ・・・・」
「す、すみません!ごめんなさい!伏黒さん大丈夫ですか?」
「あぁ・・・・。少しぶつけただけだ」
「すみません・・・・」


2人分の体重がのしかかった状態で勢いよく壁にぶつかったため、ジンジンと背中が痛むが、名無しが申し訳ない。と何度も謝罪の繰り返すため、伏黒は、痛みを我慢して大丈夫だ。と伝えた。なにより、ドアから出てきた時に一瞬見えた名無しはちゃんとスエットを着ていたため、伏黒は、ほっとしていた。裸で飛び出てこられた日には、いくら名無しに対してそういう感情がなく、性欲も同年代の子たちと比べて圧倒的に薄い伏黒だとしても、さすがにもやもやした気持ちになっていただろうと思った。


「すぐにどけますねっ!・・・・あっ・・・・」
「っ!」


名無しはすぐに下敷きになっている伏黒の上からどけようと足に力を入れたが、ガクっと力が抜けてまた伏黒の太ももの上に腰を下ろした。


「す、すみません!すみません!」
「いや・・・・大丈夫だ」


未だに暗闇に目が慣れていない名無しは何も気にせずぺこぺこと頭を下げながら謝罪の言葉を繰り返したが、完全に目が慣れた伏黒は、すぐ目の前に顔がある名無しのことを直視できず、視線をそらすと、自分の体重を支えるために床においている名無しの手が震えているのが見えた。太ももからも名無しの身体が震えているのが伝わり、伏黒は疑問に思った。最初は暗闇が怖いのか?と思ったが、それなら今までの任務で何度も経験しているはずだ。しかし、名無しがそんな素振りを見せたことは一度もなかった。それなら・・・・


「雷が怖いのか?」
「っ!」


伏黒が問いかけると、図星をつかれたように名無しの身体が大きく跳ね上がった。


「はい・・・・。少しだけ・・・・。小さい時に色々ありまして・・・・」


か細い声でぽつぽつと話す名無しの言葉を聞いて伏黒は深く追求することなく「そうか」と一言だけ返事をした。名無しの幼少期の話を少しだけ五条から聞いている伏黒は、自分が想像しているよりずっと悲惨な理由なのだろう。と思い、自然と口を開いた。


「好きにしていい」
「えっ?」


真上から聞こえきた声に名無しは顔を上げたが、そのことにより、唇の距離が数センチになった伏黒は、瞬時に顔を横にそらした。伏黒が横を向いたことにより、髪が顔にあたった名無しは「ぺふっ!」と情けない声を出した。


「だからっ!」


聞き取れなかった名無しのために同じことをもう一度言わなければいけないのか。と伏黒は多少の羞恥を覚えたが、仕方ない。と腹をくくった。


「明るくなるまで俺を好きに使っていい」


やけくそだ。という勢いで言った伏黒の言葉を聞いた名無しは少しの間をおいたあと、「本当にいいんですか?」と控えめな声で問いかけた。


「あぁ」


伏黒はそんな震えた体で無理にここからどけようとしなくてもいい。という意味でその言葉を言ったつもりだったが、名無しは・・・・


「では、お言葉に甘えて・・・・失礼します・・・・」
「っ?」


は?という言葉を瞬時に飲み込んだ伏黒は思わず顔を下に向けた。そこには、伏黒の体に頬をつけてもたれかかる名無しの姿があった。思わず、おいっ!と伏黒は言いかけたが、名無しの体がまだ少し震えているのを見て、仕方ない。と天井に向けてゆっくりと深呼吸をした。名無しの濡れた髪が伏黒のスエットをじわじわと濡らし、さっきまでは背中の痛みが勝っていたせいか、気にしていなかった名無しの柔らかいお尻の感触や押しつぶされている胸の感触が服越しではあるがダイレクトに伝わり、早くも伏黒は自分の発言を後悔していた。名無しなりに気をつかっているのか、その体制のままじっと動かないでいてくれるだけでもありがたいと思おう。と伏黒は思った。


「不思議と伏黒さんの心臓の音を聞いていると落ち着きます」
「心臓の音?別にそんなもの聞かなくても声でいいだろ」
「心臓の方がより生命を感じるんです」
「そうかよ」


名無しが自分の体に頬をつけていたのは、心臓の音を聞くためだったのか。と伏黒はようやく理解した。正直、この状況で心臓の音を聞かれるのは、裸を見られるような気分になるためやめて欲しい。と思うが、体越しに段々震えが治まっていくのを感じ、まぁ、いいか。と諦めた。


体感的には約5分。実際それよりも短かったのか長かったのかわからないが、電気が復旧して、ぱっと明かりがついた瞬間、「伏黒さん!」と嬉しそうに顔を上げた名無しが、伏黒とのあまりの近さに驚き、「きゃあ!」と横に倒れて転がっていった・・・・。「すみません!すみません!」と謝りながらも土下座している名無しを見て、やはり、一切見えていなかったのか。とため息をついた。




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