「はぁ・・・・はぁ・・・・」
陶器のように滑らかで美しい肌の上に1枚の布をマントのように身に纏った少年は、一心不乱に廊下を走り続けた。
止まれば人生が終わる。止まればもう自由になる未来なんてない。そう思いながら、ある場所に向かって走り続けた。


「止まれ!止まれぇ!誰か!今すぐそいつを捕まえろぉ!」
少年の後ろからは怒り狂った怒号が聞えたが、少年は振り返ることなく懸命に走り続けた。


「マートス様どうされました・・・・そ、その目はどうされたのですか?!」
男の怒号を聞いてすぐに駆けつけた使用人は、自分の主の顔を見て、驚きの声をあげた。
苦しそうに片目を押さえる主人の手からは、止め処なく血が流れていたのだった・・・・


「あいつに!あいつに目を盗られた!今すぐ捕まえろぉ!」


「はっ、承知いたしました!」
何もなくなった片目を見開き、血が流れ続けている目で自分の周りにいる使用人たちに命令をすると、使用人たちはすぐに返事をし、逃げた少年のことを追いかけ始めた。


「決して、あいつを傷つけるんじゃないぞ!俺だけが、俺だけがあいつを傷つけて遊んでいいんだ!」
気が狂ったように血で濡れた手を壁に擦り付け、手形を残して笑っている男は、使用人に追われ始めた遠くで走っている自分の『ペット』のことをうっとりとした表情で見つめた。


「はぁ・・・・はぁ・・・・」
物陰に隠れて追っ手を上手く撒きながら、少年はある部屋の前に辿り着いた。
自分のペットを見せ付ける為に、度々館内を主人に連れられて歩いていた少年は、その部屋に見覚えがあった。その部屋には、毎晩毎晩主人がべらべらと自慢げに話していた機械があったはず・・・・ここなら・・・・。そんな希望を持って、部屋の中へと入った。
中に入ると、大きなモニターが目の前にあり、その前には使い方が微塵もわからない機械が並べられていた。奥に、人が入れる大きさのカプセル型の機械が置いてあるのが見え、やはりここで合っていた。と少年は安堵した。23時ということもあり、ほとんどのスタッフがすでに帰宅していることや、自分を探す命令が出ているのか、部屋の中には誰もいなかった。俺一人の捜索のために、あれだけの人数を使うとは・・・・


「本当に俺は愛されてるな」
自嘲気味に言いながら、目の前にある機械を見つめた。どう動かすのかなんてわからないが、これを動かせなければ確実に今以上の地獄が待っていることだけはわかる。なんとかしなければ・・・・・。と足を前に進めた。すると・・・・


「こ、ここで何をしている!」
少年は声のする方へ目を向けると、白衣を着た男がナイフを片手に少年の後ろに立っていた。恐怖からかその足はガクガクと震えており、まさかここに今しがた全館の使用人・スタッフが血眼になって探している少年が来るとは思っていなかったのだろう。そんな男とは反対に至極冷静な少年は、瞬時にこの状況を打破する方法を考え、何も言葉を発さないまま男の元へ足を進めた。


「ち、近づくな!すぐに応援を呼ぶぞ!」
そう言った男は、じりじりと自分に近づいてくる少年を見て、近くにあるボタンに手を伸ばしていた。


「まぁ、落ち着けよ。この通り、俺は今この布以外何も持っちゃいねぇ」
少年は素肌の上に羽織っていた、一枚の布を少しだけ捲り、体に何も持っていないことを男に見せた。


「君はホムンクルスなんだから、魔術が使えるだろ!」


「ホムンクルスって言ったって、所詮ペットとして作られたおもちゃだ。アンタも知っての通り、魔力なんてほとんどねぇし、魔術なんて使えねぇよ」


「た、たしかに君は他のホムンクルスよりも圧倒的に魔力量は少ない・・・・しかし・・・・」


「それよりも・・・・・」
目の前の少年の危険性を考えている男の言葉を遮るように少年は声を出した。


「さっきアイツに中途半端に触られたせいで、まだ身体が疼いてるんだよ。捕まって、アイツにまた乱暴される前に、一回気持ちよくなりてぇんだけど」
そう言って少年は、目を細めて笑いながらこてん。と首を傾げ、布を掴んでいる手を片方離し、体を半分晒しながらじりじりと男に接近した。


「えっ!な、何を言っているんだ」
さっきまで無表情だったはずの少年が、急に色香を醸し出しながら、こちらに近づいてくるのを見て、目を逸らしたいのに、その美しさに思わず視線が釘付けになったまま男は動作を固まらせた。


「なぁ。お前、俺が前を通るたびに恍惚とした顔で俺のこと見てたよな」


「そ、そんなことは!」
男は慌てて否定をしたが、身に覚えはあった。普段、主人のペットとして部屋にいることが多い少年を見る機会はこの屋敷で働いている従業員でも少ない。噂で、一目見たら忘れることができない程の美しさ。と聞いていた男は、密かに一度だけでも見てみたい。と少年に会えることを願っていた。そして、ある日、念願だった少年を至近距離で見た男は、一目で心を奪われた。こんなにも美しいものがこの世に存在していいのだろうか。こんなにも美しいものを自分は見ていいのだろうか。こんなにも美しい者に一度でも触れられたら・・・・・と。まさか、それを知られていたとは。と動揺を隠し切れなかった。


「いいんだぜ、今だけは。俺のこと好きにして」
0距離まで接近した少年は、男が着ている白衣に手をかけて耳元で優しく囁くと、男は、「あっ・・・・あっ・・・・」と言い身体を震わせた。意思とは反対に欲望のまま身体が動き、手を大きく広げ、目の前の少年を抱きしめようとした・・・・しかし・・・・


ガンっ!


「いたっ!」
抱きしめようと伸ばした手は少年に掴まれ、足を蹴られ、突然支えがなくなった体はそのまま床へと倒れて行き、仰向けで倒れた体を少年が足で押さえたため、背中に激痛が走った。


「んなことするわけねぇだろ。気持ち悪ぃ」


「お、お前!だましたのか!」
さっきまでの色香はどこへ行ったのか。冷酷な目で自分のことを見つめる少年に男は焦りの声をあげた。


「こんなんで騙されるとか、普段どんだけ溜め込んでんだよ。おにーさん」
倒した拍子に男から奪い取った白衣に腕を通した少年は、にこっと天使のような表情を見せた。


「っ!ま、マートス様の所に必ず連れて行ってやるからな!覚えてろ!」


「俺が、易々とそんなことさせるとでも思ってんのかよ」
床に倒れた衝撃で男の手から落ちてしまったナイフを少年は手にした。


「っひ!お、俺のことを殺す気か!」


「まさか。これは、こうするのさ!」
そう言って少年は突然、自分の二の腕にナイフを思い切り突き刺した。


「な、何してるんだ!」
少年の突然の行動に男は驚きの声をあげた。なんで、そんなことをしたのか、男には少年の意図が全く理解できなかったのだ。慌てて少年へ手を伸ばそうとすれば、目の前の少年は、「はっ!」と突然笑い声をあげた。


「あーぁ。これでもうお前は助けを呼べないな」
じわじわと白衣が赤く染まっていく中、まるでいたずらが成功したような顔をした少年は、自分の返り血を浴びた男の顔を見つめた。


「は?」


「いいのかな?アイツのお気に入りの俺にこんな傷つけちゃって」


「っ!そ、それは君が自分でつけたんじゃないか!」
ようやく少年の行動の意図を理解した男は、焦ったように声をあげた。


「いーや、これはお前がやったもんだ。あーぁ。ご主人様はさぞお怒りになるだろうな。自分以外の人間が勝手に俺に何かするのを極端に嫌ってるからな、あの人。お前、あの人に殺されるぞ。確実に」


「あっ・・・・あっ・・・・」
以前、少年の色香にあてられて一時的に理性を失ってしまった、使用人が少年に触れようとした所を主人に見られ、腕を切り落とされた挙句殺されたことがあった。その話は覚えていたはずなのに・・・・まさか、自分が次の犠牲者になるだなんて・・・・


「一つ取引をしねぇか?」


「へっ?」
この後起きる恐怖に体をガクガク震わせていると、突然少年から柔らかい声で話しかけられた。


「あの機械、お前動かせるんだろ?」
少年は奥にあるカプセルを指差した。


「あぁ、もちろん動かせるが・・・・あれはまだ試験中で!」
数年前から社長が人理継続保障機関フィニス・カルデアに自分の従業員をスパイとして送り込み、そこで造られた『事象記録電脳魔・ラプラス』『霊子演算装置・トリスメギストス』の製作技術を盗み出し、同じものをこの建物にも造り上げた。しかし、レシピは同じであったとしても、不明瞭な点が多く、今だに人間でのレイシフトのテストを行うまでのレベルには到達していなかった。あのマリスビリー・アニムスフィアのことだ。工程の全てを従業員には伝えていないのだろう。


「へぇ。じゃあ、このままご主人様にご登場してもらおうか?」
血が流れた腕を一撫でした少年は、手にべったりとついた血を赤い舌でぺろっと舐めながらにっこりと笑った。


「わ、わかった動かせばいいんだろ!?でも、命の保障はないからな!」
通常、レイシフトの機械は数十人の人間によって動かすが、緊急事態に備えて一人でも動かせるように。と、押すだけでレイシフトが可能なボタンが1個だけ作られている。だが、それはまだ試験段階で、そもそも通常のレイシフト自体まだ1度も成功していないため、このボタンの試験など後手後手に回されているのだ。まともに動くとも思えなかった。だが、これを使わなければ少なくとも今ここで殺されると思うと、そんなボタンでも使わざるおえなかった。


「あぁ、こんな地獄にいるよりはずっとマシだ」
男の上から足をどけた少年は、近くにかかっていたレイシフトスーツに足を通して着替え、カプセル型の機械に向かって歩き始めた。


「それに、もし、機械が正常に動いたとしても、『レイシフト適性』がなければレイシフトすることはできないぞ」


「へぇ、そうなのか。まぁ、その時はちゃーんとご主人様の所に戻ってやるよ。お前に『これ』をやられたってな」
機械に入る直前に、少年はもう一度男に二の腕の傷を見せて笑った。


「くそっ!」
あんな悪魔どこかにやらなければ俺が殺されてしまう!男は、今まで一度も成功したことはないが、必ず成功してくれ!という強く願いながら、機械を動かした。通常のレイシフトは座標を選ぶことができるが、緊急ボタンにはそんな機能は搭載されておらず、どこに飛ばされるかわからない。だけど、どこでもいい。とりあえずあの悪魔がこの場からいなくなればどこでもいい。それだけを考えた。


「じゃあな。床はちゃーんと拭いておけよ?じゃなきゃお前、バレて死んじゃうぞ」
明るい声とは裏腹に氷のように冷め切った目を男に向けた少年は、カプセルの蓋を閉めて目を閉じた。次に目を開けた時には自由な世界が目の前にあることを願って。




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