遅くなってしまったけれど、可愛い可愛い華ちゃんのお誕生日に捧げます。
お伽噺じゃあるまいし
ひりひり、と心が騒ぐ。
嵐の前ぶれだからだろうか。
結露した窓ガラスを指先でなぞれば、曖昧な景色は水滴を纏いながら鮮明になる。
幾筋も伝う滴はまるで、不器用な彼が流せない涙のようだ。
冷たい雫を指の先で拭ってやりながら、優姫はその向こうの景色をぼんやりと瞳に映した。
灰色の垂れ込めた雲。
次第に強さを増していく風にしなる木々の枝が、不気味な音を立てて軋む。
冬の訪れを告げる木枯らしは、そこにあるすべてを凪ぎ払うように強く、吹き荒んでいた。
『すごい風…』
誰に向けて言った訳でもない言葉。
肩から滑り落ちた毛布を手繰り寄せることもせず、優姫はただぼんやりと窓の向こうの世界を凝視していた。
『…風邪引くぞ、』
剥き出しになった白く華奢な肩に、肌触りの良いガウンが掛けられる。
低く掠れたその声に、ありがとう、と呟いて振り向くと声の主は少し皺のついてしまったシャツに袖を通していた。
『ねぇ。どこか、いくの?』
窮屈なのを嫌っていつもは留めないボタンをきっちりと留め、ネクタイを締めたその普段と違う姿に優姫の心はざわめいた。
優姫の不安気な声色にちらりと視線を向けた零は、薄く笑うと小さく頷いてみせる。
しかし、どこに行くのかは言葉にせず、壁に掛かった姿見の前で髪を整え始めた。
『ねぇってば、』
苛立ちを孕んだ問いはまるで向けられた背中に縋るようで、優姫は声にしてしまった事を悔いた。
乾いた唇を噛み締めて、ガウンの裾を握りしめる。
ベッドの上から降りて、その背中に抱きつけたら。
行かないで、と素直に言葉に出来たら。
それが出来ないのは、長年対等の関係であり続けた意地がそうさせているのかもしれない。
恋なんて、追い縋ったほうが負け。
好きだという比重がどちらかにひどく傾けば、均衡が崩れてバラバラになってしまう。
そうなりたくないから、溢れる気持ちを押し殺さなければならない。
恋が叶ったというのに、可笑しい話だ。
『…指令が下ったから協会に行く』
零の抑揚のない声に顔を上げると、鏡越しに視線が合わさる。
一度きっちりと締められたネクタイは息苦しかったのか、零は襟元を無造作に引き下げた。
黒いジャケットを掴み上げて座り込んだ優姫に向き直ると、ほんの少しだけ笑った。
『なんて顔してんだよ』
『……なに?普通の顔だよ、』
ガウンの袖でゴシゴシと顔を擦る。
瞑った瞳から、じわりと涙が溢れて、いつのまにか涙ぐんでいたんだと気付いた。
『まだ、眠いの。行くなら早く行って』
気付かれたくなくて身を捩ると、ベッドがギシリと鳴った。
それが自分が動いたからではなくて、零の行動が齎したものだったと気付いたのは、鼻先に暖かな吐息を感じてからだった。
息を飲んだ優姫の頬を両手で包み込んで、無理矢理視線を合わせる。
『や、ちょっと離して、』
『素直になれよ』
先程、喉元まできて飲み込んだ言葉を見透かされたようで、頬がカッと熱を帯びる。
まるで心を覗き見られた感覚に、優姫は目眩を覚えた。
『ベッドの上で狡いよな。無防備な振りして誘うだけで、自分からは動かない。食べられるのを待つなんて悪趣味だ』
長い髪を一束梳いて、見せつけるようにキスをする。
はらはらとガウンに落ちた髪を、また指先に絡めとって零は笑った。
『罠だって分かってんのに引っ掛かる俺も、どうかしてるんだけどな』
至近距離で揺れる浅紫の瞳に、ひどく胸が高鳴る。
行かないで、も。
側にいて、も。
言葉になんかしなくても、剥き出しの心から筒抜けだ。
露骨な愛情に縛られて身動き出来ない。
それはお互い様なのかもしれない。
緩く結ばれたネクタイに優姫の指がかかる。
ぐっ、と押し下げられた瞬間、唇が微かに触れ合った。
『本当バカみたい』
どちらが狩人で、どちらが獲物?
そして、囚われているのは、どちらなんだろう。
はっきりしなくてもいいんじゃないの。
お伽噺じゃあるまいし。
おしまい
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