お別れのキス



シャンデリアの煌めき。
ワルツのステップ。
血の香りのする葡萄酒。
一身に向けられる好奇の視線。
初めは戸惑うことしかできなかったけれど、今は違う。
慣れ、とは恐ろしいものだ。
優姫は臆することなくピンヒールの踵を鳴らして、群がる同族の人垣に歩を進めた。

ここは、華やかな欲望渦巻く吸血鬼たちの夜会。

今夜のために新調したドレスは、肌触りの良いシフォンに幾重にもレースが飾られている。
まるでお姫様みたい。
それは錯覚ではなくて、現実のものとなった。
すれ違う吸血鬼達は頭を垂れて、恭しく膝を折る。
下心を孕んだ敬服のキスを手の甲に受け、にこりと愛想笑い。
血色の葡萄酒が揺れるグラスを傾けて、そっと口に運んだ。
毒々しい赤は、血の味とアルコールが混ざった代物で、お世辞にも美味しいと言えるものではなかった。
それでも、表情を崩さずに口の中の液体を飲み下せば、隣に寄り添う婚約者は満足げに微笑んだ。

『夜会にも慣れてきたようだね』

麗しい容姿と絶対的なカリスマ。
スマートで抜け目のない、完璧な婚約者は表情を綻ばせる。
優雅な動作で優姫の手から空のグラスを取ると、後ろに控えていた給仕係に片付けさせた。
一礼してグラスを下げる給仕係を何気なく横目で追い掛けると、並み居る人柄の向こうから注がれる鋭い視線とかちあった。
気怠そうに壁に寄り掛かる、銀色のハンター。
着崩れたフォーマルスーツから見え隠れする銃は、この命を奪える唯一の脅威。
優姫は刺すような浅紫の視線に射抜かれて、一瞬呼吸を忘れた。
久々の再開に、淑女の仮面が剥がれ落ちそうになる。
取り繕うように、そっと長い髪に指を絡ませては気持ちを落ち着かせて。
もちろん視線は逸らさないまま。
ハンターは優姫の視線を搦め捕りながらホールの扉へと目を向ける。
ふと、緩んだネクタイを鬱陶しいげに毟り取った。
それが小さな合図。

『おにいさま、少し席を外します』

怪しまれないように、ごくごく自然に。
貼付けた笑顔は慣れたもの。

『…そう、付き添いは?』

『必要ないです、すぐ戻りますね』

不安げな婚約者を安心させるように微笑んだ。
今、私は間違いなく本心から貴方に微笑んでいるけれど。
これは貴方を騙すための微笑み。
騙された貴方は優しく微笑み返してくれて、安心感と罪悪感が半分ずつ。
そんな偽善に苛まれても、心は彼を追いかけたくて騒ぎ出す。

『…行っておいで、』

なぜか、悲しげに見えた婚約者の優しい笑顔。
その微妙な表情に気付かないふりをして、優姫はふわりとドレスを翻した。





『よろしかったのですか?…妹君を行かせてしまって』

着かず離れずの程よい距離に控えていた腹心が、背後から声をかけた。
優姫が消えていった雑踏にぼんやりと視線を送りながら、高貴な吸血鬼は小さく笑った。

『良いも悪いも…彼女は人形じゃない。したいようにすればいい』

興味なさげ、とでも言うような突き放した答え。
無表情のまま小さく手を挙げれば、給仕係が無駄のない動きで葡萄酒を運んできた。
流れるような所作で受け取ると、壁際のソファーへ身体を預けた。
ゆらゆら波打つグラスの中の液体を覗き込む。
不透明なそれはいくら凝視しても、向こう側が見えるわけでもないのに。

『…そう、ですか』

腹心は複雑な表情を隠さずに曖昧な返事をすると、視線をホールの出口に向けた。
妹君は、あのハンターを追ったのではないか。
度々開かれる夜会で顔を合わせる二人。
決まって示し合わせたように席を外している。
相容れない立場に立たされながら、過去に断ち切れなかった絆。
それが今になって疑念を抱かせる。
純血の姫と銀のハンター。
そして、静かに黙認し続ける婚約者は、吸血鬼社会の頂に君臨する純血の王。

『滑稽だろうね、僕らの歪な関係は…』

誰に言うわけでもなく呟いた言葉。
腹心は心の中を読み取られたのか、と肝を冷やした。
しかし、無表情だった麗しい吸血鬼は、優雅に含み笑いを湛えていた。

『優姫は分かっているから…自分の居るべき場所が何処なのか』

確信めいた言葉を並べて、グラスを揺らす手を止めた。
刹那的な逢瀬くらい、黙認してあげよう。
ハンターの皮を被ったレベルEに残された時間など、僕らにとってみれば流れ星が煌めく程度の一瞬。
彼女は永遠に近しく僕のものなのだから。
そんな些細な存在など、気に留めるのは無駄なこと。
少女の胸を躍らす恋情も一時の気の迷い。
そう思えば、彼女の小さな裏切りも寛容に許せてしまう。
下手に問い詰めて、彼女の心が離れてしまうほうが怖かった。
だから、しらないふりをして、微笑んで、君が戻って来るの待つだけ。
狡くて、臆病な婚約者。
君も、僕も、お互い様。
妖艶に笑うと、葡萄酒を煽るように飲み干した。

『大丈夫…きっと彼女は戻ってくる』

腹心は案ずるように眉をひそめたが、純血の王は素知らぬ顔で給仕係に合図を送り、また新たなグラスを催促した。





『ねぇ、こうして会えたの…どれくらいぶりかな?』
優姫は首筋に付けられた牙の跡を隠すように、長い髪を下ろして鏡を覗き込んだ。
鏡に写り込んだ零は優姫の背後のソファーにもたれたまま、ぼんやりと天井を眺めていた。

『そんなの、いちいち数えてない』

開けたシャツもそのままに、髪を乱暴にかきあげた。
零の素っ気ない態度に優姫は頬を膨らませて歩み寄ると、寛いだ体勢の零に飛び乗った。

『…月の満ち欠けを7回見送ったよ、』

座った零に向かい合うように跨がって、その瞳を覗き込む。
長い間、会えなくて寂しかった。
会えない日々は、時計の針が狂ってしまったのではないかと思うほど、時の流が緩慢に感じられた。
でも狂っていたのは自分だ。
会いたくて気が狂うなんて、ロマンチックで素敵。
さながら狂ったヒロインを気取って、今日を待ち侘びていたのだ。

『零は、恋い焦がれなかった?』

自分と同じように、零の首筋に刻み込まれた牙の跡。
人目を盗んで、小さな客室に逃げ込んで。
鍵を掛ける音と、お互いの血を啜りあう音を聞きながら、待ち望んだ欲望を飲み干した。
その証を指先でそっとなぞれば、零は敏感に反応して浅紫の目を細めた。

『その埋め合わせができる時間は限られてるんだろ?…無駄口叩いてる暇があるなら、』

黙ってろよ。
そう囁くと、零は優姫の唇を親指の腹でなぞって笑った。
返事の代わりに零の首に両手を回すと、優姫は瞳を閉じた。
視界が暗転する最中、窓の外には一匹の蝙蝠が闇を纏って旋回しているのが見えた。
…ごめんなさい。
心の中で唱える小さな謝罪。
見え透い嘘に騙されてくれる婚約者と。
不毛な愛を紡ぐハンターと。
剥がれ落ちた仮面を取り繕うともしない私と。
歪んだ愛はいつか均衡を失って崩れ落ちるだろう。
でも、今だけは…。
温かな唇の感触に縋るように現実逃避。
何度も出会って。
何度もサヨナラして。
だから、何度もお別れのキスをする。
重ねた唇は、もうすでにまだ見ぬ逢瀬を期待してる。

そんな不埒なキスをちょうだい。





おしまい
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