鮮やかだった夕日もすっかり山際に沈み、繁華街にはネオンの灯りが煌めき始める。
零は一度握り締めてクシャクシャになったチラシの皺を伸ばして、目の前の雑居ビルを見上げた。

『…ここで間違いない、』

周りのビルよりも小さく、狭い土地に押し込まれた古めかしいビル。
その出で立ちに一抹の不安を抱えながらも、零はビルの扉を押し開けた。
ビルの中は外見を裏切らない手狭な作りで、いきなり急な階段が立ち上っていた。
チカチカと点滅する蛍光灯に、壁を這う亀裂。
零は沸き上がる後悔に二の足を踏んでいた。
いかにも、ヤバそうな雰囲気だ。
バイトどころか、逆に身ぐるみ剥がされたりして、なんて嫌な予感が頭を過る。
しかし、何よりこの破格の高額時給だ!
背に腹は変えられない。
生唾を飲み込んで、狭くて急な階段を上がる。
階段の突き当たりには、【事務所】とだけ書かれたプレートが貼られていて、磨りガラスからは中の灯りが漏れていた。
どうやら、中には誰かいるようだ。
もう一度、手にしたチラシに目を落とすと、そこには【時給1500円】の文字。
大丈夫、やる気はある。
働かなきゃ、生きていけないんだ。
零は小さく深呼吸すると、意を決してドアをノックした。

『すいません、アルバイト募集のチラシを見てやってきました』

少し緊張を纏った零の声に、応答はすぐにあった。

『入っていいよー』

しまりのない声は、部屋の中へ入るように促している。
あまりにも間延びした対応に、零は肩透かしをくらいながらも部屋へと足を踏み入れたのだった。

『チラシを見て来てくれたんだね』

顔を見るや否や、にこやかに招き入れてくれたのは、胡桃色の長髪をひとつに纏めた眼鏡の男だった。
はい、と返事をして立ち尽くす零に、お茶でも飲みながら…と和やかな雰囲気で湯呑みを差し出した。
促されるままソファに腰掛け、お茶を勧められた零は、いくらか緊張が解けたのか小さく笑って男にお礼を言った。
男は見逃さなかった。
零の微かな笑顔を。

『君!採用!!』

突如、身を乗り出して興奮する男に、零はお茶をひっくり返しそうになる。

『ちょ、まだ何も…』

波打つお茶をテーブルにおいて、困惑した表情で男を見返すが。
しかし男は、そんなの必要ない!と言うように、手を突き出して、首を横に振った。

『いや、君ならトップ3は間違いないから、採用!』

トップ3…?
若干引っ掛かった単語の意味を聞き返そうとすると、男は慌ただしく席を立ってデスクの引き出しを漁り始めた。
声をかけるか否か戸惑っているうちに、男は数枚の書類を手に動揺する零を振り返った。

『君みたいなクールな子が笑ったりすると、客受けがいいんだよね。』

にぱっ、と笑う男の言葉に、零は鳥肌が立つ感覚を覚えた。
トップ3とか。
客受けとか。
これは本格的に勘違いされている。

『あの、何か勘違いを…』


『ようこそ。ホストクラブ 【under the rose】 へ!』


しばらく意味が理解出来ずに、零は呆けたように口を開けて固まっていた。
ホスト、クラブ…。
思考が鈍くなった頭のまま、手の中のチラシを見直す。
拾ったチラシはよく見ると、上部には破れたような痕跡がある。
肝心の店の名前は破れてしまったのだろう。
しかしアルバイトの求人内容は間違いではないはずだ。
ホストなるつもりはさらさら無いのだ。
零は気を取り直すと、チラシをテーブルに叩きつけた。

『このチラシの【キッチンスタッフ時給1500円】って募集を見て来たんです!ホストクラブだとは…知らずに、その…』

余程力んでしまったのか、お茶は波打ちテーブルを濡らす。
そんなのは構ってられない、とばかりに必死の形相で零は男を見つめた。
このままでは、理不尽にもホストにされてしまう。
ついさっき優姫にホストを引き合いにバカにされたばかりだ。
こんな皮肉あってたまるものか。

『……ぷっ、あははは、分かってるよ!キッチンスタッフも一緒に募集したからね。さすがに高校生にホストはさせられないよ』

急に笑いだした男は、零の制服姿を指差して片目を瞑ってみせた。
動揺で頭に血が昇っていたせいで、からかわれていたのにまったく気付かなかった。
バツが悪くなって、乗り出した体をソファに戻すと、零は大きな体を縮こまらせた。

『…その制服。近所の私立高校の、だよね?アルバイトは校則で禁止されてなかったっけ?』

向かいのソファの背に凭れて男は穏やかな声で問いを投げかけてきた。
金持ち揃いの私立高校の生徒が、わざわさ夜遅くに時給の良いアルバイトをするはずがない。
その疑問を持たれるのは最もだった。
零は、包み隠さず話すことにした。
両親がいないこと。
学校は奨学金を貰って通っていること。
アルバイトがクビになったこと。
生活費がなければ、自ずと学校を辞めなければならないこと。
男は小さく相槌を打ちながら、静かに聞いてくれた。
そして、零が話し終えてうつむいたのを見ると、自分で納得したようにひとつ頷いて口を開いた。

『…いいよ、うちで働きなよ。ホストじゃなくて、キッチンね』

驚いて顔を上げた零に、にぱっと能天気な笑顔を向けて、男はテーブルに書類を並べ始めた。
雇用通知、のようなものだ。

『キッチンスタッフ。時給は求人通り1500円。勤務時間は…』

声に出して確認するように書類に書き込んでいく。
勤務時間は高校生だという立場を考慮して悩む男に、零は優しい気遣いを感じた。

『前のアルバイトは明け方の4時までやってたんで、何時でも大丈夫です』

零の申し出に男は目を剥くと、苦労してきたんだねぇ、と泣きそうな顔になった。
平日は深夜1時まで。
学校が休日の前の日は、深夜2時まで。
暇な時はもっと早く帰っていい。
そんな契約でいいかな?と確認されて、零は二つ返事で了承した。
コンビニのアルバイトよりも早く帰れる。
そして、時給は倍になった。
零の心内は、この幸運にうち震えていた。

『あ、うちのお店、メニューに無いもの作れって言う無茶なお客さんいたりするんだけど、料理…大丈夫?』

『一人暮らしをしているので、料理は得意です』

料理を作る、という作業は意外と好きだった。
一般的な料理なら大体作れるはずだ。

『じゃあ、キッチンは君に任せるとして…。あとひとつ、キッチンとは別の仕事をお願いしたいんだけど、いいかな?』

男が遠慮がちに零の表情を伺ってくる。
働くことを許してくれた男に、自分が何か出来ることがあるならば。
その親切心に答えたくて、零はどんな仕事なのかも聞かずに頷いた。

『君、奨学金を貰ってるってくらいだから、頭がいいんだよね?』

『はい、まぁテストに苦労しない程度には…』

自分で言うのも何だが、頭の出来はいい。
授業中に寝ていたとしても、なぜか知識が身に付いているから『睡眠学習でもしてるのか』なんて冗談を言われたりするくらいだ。
男は穏やかだった表情を真剣なものに変えて、思い悩むように頬杖をついた。

『…実はうちの子。君と同じ高校に通っているんだけど、すごい お バ カ なんだよね』

『はぁ…そう、なんですか』

同じ高校に通う子供がいるのか。
それなら男が同情的だったのにも頷ける。
予想もしなかった話の展開に、零は真剣な表情で男の話の続きを待った。

『あまりにも酷い成績に目も当てられなくて…。キッチンの仕事の片手間でいいから、うちの子に勉強を教えてあげてくれないかな?』

切実な男の訴えに、零はそれくらいならば、と首を縦に振ろうとした時。
背後のドアがけたたましい音を立てて開いた。

『ただいま!お義父さん』

妙に聞き覚えのある声だと思いながら、反射的に振り返る。
そこには、ついさっき辞書入りのカバンで容赦なく人を打ちつけて、無愛想な奴にホストになれば?と皮肉った、クラスメイトの姿があった。

『…ゆ、優姫?!』

『あれ、零どーしたの?』


『紹介します。これが、うちのバカ娘です』


あんまりな衝撃の事実に、零は膝頭をテーブルにぶつけて、ついには派手にお茶をぶちまけたのだった。





つづく

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