バーガンディーに口づけを



少しだけ欠けた月。
今夜も緩やかな軌道を描きながら、冷たい光を放っている。
傾きかけた月明かりは、薄暗い部屋の影をゆっくりと引き伸ばしてゆく。
ソファーに深く腰掛けた零の足元にも、じわりじわりと影が侵食しはじめていた。
しかし、足元を飲み込む影をじっと睨み付ける浅紫は、僅かな月明かりを映して射るような色彩を放っている。
思い詰めたように歪めた、形の良い眉。
薄く開いた唇からこぼれる、小さなため息。
影を纏ったグレーの髪が、蒼白い頬に濃い影を造る。
ヒリヒリと焼け付くような空気は、夜の冷気と相俟って、殺気に似た気配を放っていた。
解禁のシャツの隙間から見える首筋のタトゥーに、キリキリと爪を立てる。
痛みを伴っているはずなのに、顔色一つ変えずに爪の先を肌に埋める。
その首筋に埋まった、忌まわしい記憶をほじくり返すように。
深く、もっと深く。
引き攣れた皮膚が破け、鮮やかな赤が滲む。
痛みと共に溢れる自分の血の香り。
この流れる血が忌まわしい記憶を洗い流してはくれないだろうか。
そんな自虐じみた願いを抱えながら、さらに爪を肌に埋める行為に没頭していると。

『……零、まだ眠れないの?』

渦巻いて淀む気持ちを掻き消すように響いたのは、遠慮がちな少女の声。
急に声をかけられた以上に、その気配に全く気付けなかったことに零は驚いた。
そして、芽生えたのは小さな後ろめたさ。
ゆっくりと振り向いて、首元に埋めていた手の力を緩める。
何気ない素振りでシャツの襟を正し、首筋の傷を隠す。
血の滲んだ爪も拳に握り込んで、ポケットに突っ込んだ。
見つかれば、きっと自分のことのように気に病むのだ、このお節介な少女は。

『お前も、人のこと言えないだろ…』

自分を傷付けるという惨めな行為を気付かれたくなくて、いつも以上に冷たい声色を放って視線を反らした。
しん、と静まり返ってしまった部屋。
こんな情けない姿は、知られたくない。
早く立ち去ってほしい。
そんな気持ちから、零は不機嫌な態度で優姫を遠退けようと決めた。

『もう寝るから、さっさと部屋に戻れよ』

そう素っ気なく言い放つ。
しかし、重苦しくなってしまった空気を揺らしたのは、足早に近付いてくる足音だった。

『…おい、優姫?』

怪訝な表情でその名前を呼べば、すでに優姫は零の目の前に立ち尽くしていた。
優姫の影が零に覆い被さり、視界が暗転する。
月明かりを背中に受けた優姫の表情は、影と同調してよく見えない。
静寂がもたらす耳鳴りが痛いくらい鳴り響いていた。
無言で立ち尽くす優姫に、零は困ったように眉を歪めた。

『…どう、した?』

腰かけたソファーから優姫を見上げて発した声は、戸惑いを隠せずにひどく掠れていた。
零を見下ろすように、じっと黙ったままの優姫。
なんか用があるのか。
早く寝ろよ。
そう声をかけたくても、いつもはおしゃべりな優姫が貫く沈黙に、まるで責められているような錯覚を覚える。
ついに堪えられなくて、零は逃げるように視線をさ迷わせた。
その時だった。

『お風呂にゆっくり浸かると良く眠れるよ』

いつにも増して明るく、上擦った声で優姫は空気を読まない言葉をかけてきた。

『さっきシャワーあびたからいい』

『…眠れないなら、羊の数を数えればいいよ』

『あぁ、数えるから一人にしてくれ』

『ねぇ、ホットミルク飲む?』

『いや、いらない』

優姫の放つ言葉を端から受け流す。
きっと、様子がおかしいことに感付いて、気を使っているのだろう。
空振りに終わってしまった不器用な励まし。
きっと今、優姫のほうが傷付いた顔をしているだろう。
直向きな優しさを無下にしてしまった罪悪感から、零はいたたまれずに俯いてしまった。

『それなら、おやすみのキスをしてもいい?』

『……は?』

優姫の突拍子もない要望に、気の抜けたような声をあげて零は目を瞬かせた。
俯いていた顔を上げれば、優姫との距離がゆっくりと縮まってゆく。
突然の事態を咄嗟に拒絶しようと伸ばした手。
その手に優姫の視線がちらりと移った。
血の滲んだ爪。
しまった、と零は爪を隠すように手を握り込んだ。
しかし、それを優姫は見逃してはくれなかった。
温かく小さな手が、零の拳に触れた。

『隠してるつもりなら、残念でした』

零のことは、お見通しだよ。
そう耳元で囁く声は、小しだけ震えていた。
するり、と拳から手が離れて、優姫の指先が零の襟元を引き下げる。

露になる、赤黒い掻き傷。

滲む憎悪。
内に秘めた葛藤。
くだらない虚勢。
渇望する愛情。
全部、見透かされている。
その潤んだ大きな瞳に。
零は観念したように浅紫の瞳を閉じて、身体の力を抜いた。

『おやすみなさい』

消え入るような、か細い声は零に届いただろうか。


慈しむようなキスを、首筋にひとつ落として。




おしまい
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