睡恋





忌ま忌ましい記憶を消し去りたくて。
痛みと共に刻んだタトゥー。
まじないが施されたものの、その皮膚の下の血管は容赦なく疼く。
こんな夜は、あの夜の記憶がちらついて眠ることができない。
いやに喉が渇いて。
でも水なんかじゃ癒せなくて。
憎んでも憎んでも足りない存在に、自分も近付いているんだ。
そう思うと、背筋が震えた。
痛みからなのか。
恐怖からなのか。
怒りからなのか。
言い難い感情に、ただ震えてうずくまる。
助けを呼びたくても、誰を呼べばいいんだろう。
頼るべき両親も。
うりふたつな弟も。
もう、ここにはいない。
守りたかったものは、全部失ってしまったのだから。
この痛みは、何も出来なかった罰だ。
弱かった自分を責めるように拍動する疼き。

今夜もまた、あの女に咬まれた首筋が燻り出した。


『…っ、あ』

まだ幼さの残る面差しを歪めて、零は耐え切れずに漏れた小さな呻き声に唇を噛み締めた。
声を立てると、あいつが来る。
馴れ馴れしくて、人の心配ばかりしているお節介な奴が。
弱みを握られたくないから、独りベッドの影に膝をついて痛みに耐える。
ジクジクと脈打つ痛みと一緒にやってくるのは、異様な喉の渇きだった。
無駄だとは分かっていたが、サイドテーブルの上のグラスに手を伸ばす。
口にしたいのは水なんかじゃないって自分でも分かっている。
だけど、おさまらない焦燥感に耐え切れず、零は縋るようにグラスを掴んだ。
その瞬間、さらに強い痛みが背中を駆け上がる。
首筋のタトゥーが火を押し付けられたように熱い。
そう感じると、零の視界は幕を落としたように何も見えなくなった。
グラスが手から滑り落ちて。
床で粉々に砕け散る音。

中身の水が素足を濡らす。
そんな感覚だけが、やけに鮮明で他人事のようだった。
意識が朦朧とする中で、頬は冷たい床に触れていた。
あぁ、俺は倒れたんだ。
痛みに負けて。
このまま、悍ましい宿命に飲まれてしまうのだろうか。
そんなのは悔しくてたまらない。
零は無心に割れたグラスの破片を握りしめた。
鋭利なガラス片が皮膚を突き破り、握り締めた拳から鮮やかな血が溢れる。
新たな痛みが意識を繋ぎ止めてくれる。
負けやしない。
憎き吸血鬼の呪いなんか。
跳ね退けるくらい強くなって。

『…今度…こそは、殺してやるっ…』

血の滲んだ唇から絞り出すと、零はグラスの破片を更に強く握り潰した。




コン、コン、とごく控えめにノックをする。
もし、零が眠っていたら起こしてしまうから。
だけれど行動は矛盾していて、優姫は返事のないドアの向こうが気になって仕方がなかった。
そっと遠慮がちにドアを開ける。

『…あの、寝てたらごめんね。なんか、ガラスが…割れるような音がしたから、心配で…』

部屋には入らずに優姫はドアから怖ず怖ずと顔を覗かせた。
しかし、ベッドにいるだろう零は見当たらない。
心配になって視線をさ迷わせてみれば、ベッドの影に倒れ込んだ零を見つけた。

『……零っ?!』

駆け寄ってみれば、床は粉々になったガラス片にまみれている。
優姫はスリッパでガラスを避けながら零に近寄ると、意識を確かめるために青白い頬に触れた。

『とうさ、ん…かあ…さん、ごめんなさ…、』

譫言のように呟く零は、浅紫の瞳に涙を浮かべて優姫を見上げた。
普段とはまるで違う零の様子に、優姫は驚いて息を飲んだ。
零がこの家にやってきて、しばらく経っていた。
慣れない生活にも大分馴染んで。
学校にもきちんと通い始めた。
始めは邪険にされていた優姫も、煙たがられながらも徐々に打ち解けてきたと感じていた。
でも、こんな零、初めて目の当たりにしたのだ。
無愛想で近寄り難くて、平静を取り繕っていたとしても、まだ少年と呼べる年頃。
両親を一度に亡くしたその心中は計り知れない悲しみで溢れているだろう。
混濁する意識の中、ごめんなさい、と繰り返しす零の瞳から涙が一筋こぼれた。
零の内に秘めた悲しみを垣間見て、優姫は胸がひどく痛んだ。
この苦しみから助け出してあげたい。
同情とも、母性愛とも取れる感情。
だけどそれはただ純粋に、零に向けられたひたむきな感情だった。

『…大丈夫、傍にいるよ…』

痛みでは、痛みを癒せないんだよ。
優姫は血まみれの拳をそっと解いて、零が握り締めてガラス片を取り除く。
真っ赤に染まった零の手に自分の指を絡ませて、優姫はぎこちなく笑った。

『零…私がいるよ』

傷は時間が癒してくれるけれど、心に負った傷はどうだろう。
いくら時が経っても、許されなければ責め続ける。
弱い自分を。
憎い吸血鬼を。
それなら、強くなればいい。
吸血鬼を殺せるくらい強く、強く。
でも強くなるのには時間がかかるかもしれない。
それならば、その時がくるまで零の弱い心を隣で支えるから。

『ずっと一緒にいるから、安心して…』

優姫の瞳からも大粒の涙が流れた。




寄り添う温もりが、ひとつ。

それはとても暖かくて、心地よくて。
でも、同時に湧き上るのは、不安。
この温もりを、また失ってしまうんじゃないかという不安。
このまま甘えるように微睡んでいたいけれど。
この温もりが消えてしまわないように、目を覚ましてぎゅっと抱きしめたい。
もう、失いたくはないから。

零は重たい瞼をゆっくりと開くと、寄り添った温もりに手を伸ばした。
さらさらと指の隙間を滑る長い髪の感覚。
規則正しく繰り替えされている寝息が安心感をもたらしてくれていたのかもしれない。

『なんだ…こいつ、か…』

温もりの正体は、この家にやってきてから何かと世話を焼きたがるお節介だった。
あどけない寝顔。
その頬には涙のあとが残っていた。
こいつ、また俺のために泣いたんだろうか。
同情する必要なんかないのに。
眠る優姫の顔を見て、零は僅かに眉をひそめた。
ひとつの枕に頭を寄せ合って眠っていたようだ。
零は近すぎる距離が途端に居心地が悪く感じて、隣で添い寝する優姫から距離を取ろうと身じろいだ。
だが、柔らかな拘束がそれを許さなかった。
がむしゃらにガラス片を握り締めていたはずの手は、不器用に包帯が巻かれていて。
今は優姫の小さな両手に包まれていた。
…手当てするの、相変わらずヘタクソだな。
咄嗟に浮かんだのは捻じ曲がった感情。
でも、あとを追うように湧き上ってきたのは、形容しがたい暖かい感情だった。
どう表現して良いのか分からなくて。
握り締められた手も振り解くのは簡単なのに、それが出来ずにいた。
ぐるぐると思いを巡らせていると、ふと気付いてしまった。
たしか自分は床に突っ伏していた状態だったはずだが、どうやってベッドに寝かされたんだろうか。
まさか、身長もさして変わらない優姫が自分をベッドまで引き上げたのか。
その光景を想像したら何だか男として情けなくなって、零は苦笑いを浮かべた。

『…う、ん。ぜろ?』

もぞもぞと布団から顔を出した優姫は、零が目を覚ましているのを確認すると寝ぼけたまま笑った。
感謝の言葉か、それとも皮肉か。
悩んでいる零を尻目に、優姫は零の頭を撫でた。
まるで母親が子供にするように。

『大丈夫だよ、私がいるから』

一緒に眠むれば怖くないよ。
そういうと、また瞳を閉じて眠りの世界へと落ちていった。
温かくて、小さな手。
年齢よりも幼く見える、あどけない寝顔。
他人のことで涙をこぼす大きな双眸。
お節介で、たまに煩わしいけれど。
何もかも失ってしまった自分に唯一干渉してくる、この温かな存在を。
今度こそ自分の力で守りたいと思った。
家族を失った夜、逆襲のために強くなろうと誓った。
それは今も同じで、本懐を遂げるまで変わらないだろう。
でも、強くなる理由がまたひとつ増えた。

『お前が泣かないように強くなる。お前を守れるくらい強くなる』

あくまで、敵討ちのついでだけど。
そう呟くと、零はゆるゆると瞼を閉じた。
傷も孤独も抱きしめてくれる存在を隣に感じながら。

微睡みに咲いた、淡い恋の花の名は
    睡恋ースイレンー




おしまい
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