不完全な密室
むせ返る湯気。
仄かなシャボンの香り。
蛇口から滴る水音を聞きながら、零は肺に溜まった熱気を吐き出すように大きく深呼吸をした。
風呂上がりの熱を持て余して火照る身体。
シャツのボタンを掛ける指を止めて、零は深い溜息をついた。
熱気を含んだ湿度に逆上せてしまったようだ。
普段から血色の悪い顔がいくらかマシになった程度だが、赤らんだ頬が曇った鏡に映る。
ガーディアンの仕事を終えた深夜。
優姫と交代してバスルームに入り、ぼんやりと湯舟に漬かっていたら随分と長湯をしてしまった。
余程疲れが溜まっていたのだろうか。
ぼんやりする頭をぶんぶんと振って、零はまた溜息をついた。
まだ水気を含んだ髪はそのままに、篭った熱気から逃れたくてドアノブを引く。
『…うわ、っと!』
驚いた声と同時に、優姫がドアにくっついてバスルームへと転がり込んできた。
『お前…寝たんじゃなかったのか?』
零よりも先に入浴を済ませたはずの優姫が、まだ寮に戻らずに理事長のプライベートスペースにいるとは思いもしなかった。
驚きつつ頭に被ったタオルの隙間から優姫を見下ろせば、優姫は曖昧に笑って頬を掻いた。
『髪、乾かすの忘れちゃって。零がお風呂入ってから気がついたもんだから…』
零が出てくるまで、待ってようかなーって。
そう気まずそうに話す優姫の髪は、まだしっとりと濡れたままだった。
無防備なキャミソール姿が寒々しい。
『…出てくるのなんか待たないで、俺が風呂入ってる間に洗面所使えば良かっただろ?』
こんな時に限って長湯をしてしまったせいで。
優姫は濡れた髪のまま、かなりの時間待ったはずだ。
まぬけ、と呟くと零はタオルを優姫の頭に被せると、グシャグシャと撫で回した。
『わっ、零ってば!』
いきなり遮られた視界に優姫は怒ったような声をあげた。
ぶっきらぼうに頭を撫でる手を払いのけて、タオルから顔を覗かせた。
『だ、だって。ドア開けた時に零がちょうど出てきちゃったらどうしよう…、とか。お風呂の扉って半透明だから、その、見えちゃったら困るし…。だから気を使って待ってたのに!』
一応、幼なじみとしても男女間の配慮はしている、という意味か。
私にだってそれくらいデリカシーあるもん、と優姫は憤慨してタオルを零に押し付けた。
まさか優姫からデリカシーなんて言葉が出て来るとは。
ふん、と小馬鹿にするように零が嘲笑ったかと思えば。
『そんなこと想像しながら待ってたのかよ?お前、案外むっつり…』
『スケベじゃない!!』
零の言葉尻をバッサリと遮って全力否定したけれど、それがかえって必死すぎたみたいで零は吹き出して笑った。
スケベ、という単語を先に口に出した手前、そのレッテルを自ら主張してしまったようだ。
なんだか納得いかないけど!
でも、曲がりなりにも異性として認識はしているんだから。
なんて、キャミソール姿で主張しても説得力のカケラもないが。
お互い安心しきった関係で、無防備な姿なんて見慣れたものかもしれないけど。
年頃なんだから、一応ね。
多少の矛盾はありつつも、優姫の視線はついつい零の開けた胸元に吸い寄せられてしまう。
『…ガン見すんなよ。むっつり改め、がっつり…』
『スケベじゃないってば!がっつりスケベって何よ?!』
新たに妙な称号を与えられて、優姫は顔を真っ赤にさせて怒った。
『お前、本当アホだな』
『うるさいバカ零!!ちゃんと服着なさい!風邪ひくよ!』
喉を鳴らして笑う零を睨みつけて、悪態をつきながらも。
お節介な指先は零の開けたシャツのボタンへ。
ちょっと乱暴にシャツを引っ張って、わざとらしく溜息をついてみせる。
『まったく零は手がかかるんだから!』
『…はいはい、悪かったな』
頬を膨らませて上目遣いに見れば、零は滅多に見せない穏やかな表情をしていた。
その珍しい瞬間に気を取られていたら、突然零に手首を捕まれて脱衣所の奥に引き込まれた。
よろめきながらも手を引かれるまま、優姫は湿度の高い空間に足を踏み入れた。
篭った熱気と、呼吸の邪魔をする湿度。
くらくらする頭は繋いだ手の意味を量り知れなくて、ただただ混乱するばかり。
『…ぜろ、』
発した声は自分でも情けないくらい戸惑った声。
いまさらだけど、キャミソール姿でいるのがやけに恥ずかしくなってきた。
見下ろす零の視線から逃れるように、優姫は身体をよじった。
けれど、零は優姫の手を強く引いて、まるで逃がすまいとしている。
優姫の狼狽した視線と、零の涼やかな視線が交わった。
いつもよりも血色のいい零の頬や唇ばかりが目について、優姫は首から顔へと熱が沸き上がる感覚に震えた。
『…どう、したの?』
見つめ合うのがいたたまれなくて。
思わず口をついたのは、そんなどうしようもない言葉だった。
零の返事はなくて、ただ真っ直ぐ見つめてくる瞳が無防備な肌に痛い。
きつく捕われていた手に、また僅かに力が加えられた。
浅紫の瞳が揺れたのと同時に、縮まる距離。
『…静かに、』
囁いた零の吐息が耳にかかる。
零は見えない何かの気配を感じ取っているようだ。
優姫は展開についていけず、ぱちぱちと目をしばたかせた。
『え、なに?』
鋭い視線をドアの向こうに向けている零に声をかけてみると、声を立てるな、と人差し指を唇に押し当ててきた。
零はただならぬ気配を察知して、じっと身構えているけれど。
ちょっと距離が、近すぎるんじゃないだろうか。
片手を拘束されて、身じろいだら頬が触れ合うくらいの至近距離。
外の何かに集中している零は、この状態を意識なんてしてないだろうけど。
でも、これはちょっと密着しすぎ。
優姫は呼吸すらままならず、真っ赤な顔で俯いた。
ふわ、と鼻孔を擽るシャボンの香り。
零の髪の香り。
同じシャンプーを使っているのに、まったく別の香りみたい。
まだ水滴の滴る髪に鼻先を寄せていると、零が小さく呟いた。
『…来た』
浅紫の瞳で優姫に目配せする。
零の不穏な様子から、誰かが部屋に入ってくるのかもしれない。
うっすらと理解したけれど、こんな場所で、こんな恰好で、こんな体制。
誰が見ても、良からぬ想像をするだろう。
咄嗟に脱衣所と部屋を区切るドアを見ると、僅かに空いている。
ちゃんと閉めておかなきゃ。
そう思ってドアノブに手を伸ばした瞬間。
誰かが部屋に入ってくる気配と、パッと灯るライトの明かり。
ドアの隙間からその光が脱衣所にも差し入んできて、優姫はドアに伸ばした手を咄嗟に引っ込めた。
どうしたらいい?
眉尻を下げて零の表情を伺うと、黙っていれば大丈夫だから、とでも言うようにまた唇に人差し指を当てて頷いた。
絨毯に染み込む微かな足音。
徐々に近づいて、ちらつく影。
優姫と零が息を忍ばせている脱衣所の前にまで迫り来る気配。
薄く開いたドアが開かれやしないか、と二人は息を飲んだ。
『…錐生くん?』
ドアの向こうから聞こえたのは理事長の声。
優姫は困った視線をさ迷わせて、零のシャツの裾を引っ張った。
真夜中。
隠れるようにこんな場所で、二人。
風呂上がりの無防備な服装。
いくら二人がやましくなくとも、理事長なら烈火の如く怒るだろう。
ユッキー!
どういうこと?!
錐生くんに何かされてない?
女の子なんだからそんな恰好はダメ!
もー悲しいよ。
涙が出ちゃうよ。
これが巷で噂の反抗期?
はたまた不良の始まり?
おとーさんはそんな娘に育てた覚えはありません!
…とまぁ、安易に想像できる上に、うざったくて面倒くさい。
ここは零の提案通り、大人しく身を潜めてやり過ごすしかなさそうだ。
うん、と頷いた優姫と無言で目配せをすると、零はドアの向こうに視線を向けた。
『…はい、』
いつもと変わらない不機嫌な声で返事をする。
『あのさ、優姫が見当たらないんだけど…』
いきなり自分の名前が出たことに驚いて、優姫は口元を両手で覆った。
不安げな優姫を気遣うように、零は優姫の頬に触れながら、いつも通りの調子を貫く。
『俺より先に風呂に入ったから、もう部屋に戻ったんじゃないですか?』
しらばっくれて堂々と嘘を吐く零の横顔。
それを眺めながら優姫は、無意識に零にもたれかかった。
なんだか、いけないことをしてるような感覚。
腕の中にいる優姫の存在を隠した零と。
その嘘に便乗した優姫。
理事長についた小さな嘘は、二人を共犯者にしたてあげた。
ほんの少しの罪悪感が胸をざわつかせたけれど、触れ合う体温がそれを落ち着かせてくれるみたいで。
優姫はほてった頬を零の肩へと押し付けた。
『そっか、それなら安心だ』
あっさりと信じた理事長の和んだ声に、良心が少しだけ痛んだけれど。
バレて、誤解されて、説教されるよりはマシ。
ごめんね、理事長。
ほっ、と息をついた零と優姫は自然に顔を見合わせて笑った。
しかし我に返ってみれば、無駄に密着した身体と、双方伸ばした手が縋るようにお互いを繋ぎ止めていて。
また頬に熱が蘇ってくるけれど、物音を立てられないから下手に動けやしない。
熱気を含んだ空気が思考を麻痺させているのだろうか。
頭はくらくら。
足元はふわふわ。
お互い金縛りにあったみたいに動けなくなって、見つめ合う。
無邪気に触れた熱と、際どい距離に眩暈を覚えながら。
『ところでさ。錐生くんは優姫のこと、どう思ってるの?』
突拍子もなく投げ掛けられた質問。
理事長の呑気な声に、二人揃って体を硬直させて、同時にバスルームの扉を振り返った。
微妙に開いた扉は相変わらずで、覗かれてはいないようだ。
零はほっと安堵の息をつくと、理事長の投げ掛けてきた質問を反芻する。
優姫のこと、どう思ってるの?
今、このタイミングで聞くことじゃないだろ!
思わず叫びたくなるのは、その優姫が目の前にいるという現状。
話題に上がった当の優姫はというと、理事長の質問に驚いたのもつかの間、零の返答に興味津々の様子だ。
見上げてくる好奇の視線がキラキラ眩しい。
零が言い淀んでいる間も、何も知らない理事長は脳天気な声で続ける。
『優姫はさ、おっちょこちょいで、お節介で、お馬鹿だから、錐生くんに沢山迷惑をかけちゃってるよね』
ふふ、と笑い声の混じった穏やかな語尾。
優姫に対して並べた言葉はどれも褒められたことじゃないけれど、どこか愛情を感じた。
それは、きっと零も同じように優姫を大切に思っているから。
素直に理解できた。
『…ジャジャ馬でお転婆だけど、可愛い可愛い義娘だからさ。年頃だし何かと心配なんだ。錐生くんは冷たいようで、優しいから…優姫を大切にしてくれてるんじゃないかなって。僕が勝手に思ってるだけなんだけどね』
優姫も困ったような、照れたような、微妙な表情で零を見上げていた。
確かに普段から迷惑ばっかかけてるし、足を引っ張ってる自覚はある。
ばか、とか。
しかたねーな、とか。
不満げな言葉を並べつつも、いつも助けてくれる零に甘えてしまっている訳で。
そんな心地好い関係に自分は満足しているけれど、零はどうなんだろうか。
じっと零の表情を伺うと、盛大に眉を歪めて頭を悩ませ始めた。
『…………』
うっすら開いたドアの向こうの影が揺れる。
返答が出来ない零に、理事長が不審に思ったのか、零の名前を呼んでいる。
視線をさげれば、優姫の大きな瞳が好奇に満ちた色を放っていて。
静かなプレッシャー。
しかし、尚も押し黙って悩む零につられて、優姫も表情を曇らせた。
待てど出てこない答えにガッカリするように。
優姫は『適当に答えなよ』と極力音量を絞った声で囁いた。
適当に、なんて。
そんないい加減な言葉で片付けられるほど、この感情は単純じゃないから。
言葉を選んで、また選んで。
だから簡単に言えないんだ。
それだけは優姫に知っていて欲しくて。
銀糸のような髪の、その奥。
影を孕んだ浅紫の瞳が真っ直ぐに優姫を射抜いた。
身動きが、出来ない。
声の出せない状況と零の真剣な眼差しに、痺れを切らした優姫が何か言葉を発しようとした時。
そっ、と動いた零の指先が、優姫の耳たぶを撫でた。
連動してビクつく優姫の小さな肩を片手で押さえて、零は優姫の背に合わせて屈んだ。
理事長の投げ掛けた質問を、まるで優姫に言い聞かせるために。
『…大切ですよ、』
『……っ、』
『失った痛みが辛くて…大切な人なんて、もういらないと思ってたけど、理屈なんか通らないものですね』
理屈抜きにして、どうにもならないくらい大切な存在。
自分ではコントロールできないくらいの強い感情。
失う事を恐れて、頑なに閉ざした心を掻き乱したのは。
目の前の小さな少女、ただ一人。
『きっと、誰よりも』
どんなに考えたって、言葉を選んだって。
まず言葉にしなきゃ伝わらない。
ありのままの感情を吐き出したら、少しだけ冷静になれた気がした。
『…ありがとう、錐生くん。本音を聞かせてくれて嬉しかったよ。…おやすみ』
理事長は穏やかな声で言うと、静かに部屋を後にした。
再び訪れた静寂。
バスルームから水の滴る音だけが響いている。
優姫は黒目がちな瞳を真ん丸にして呆然としていた。
まさか、あの零が。
こんなにもストレートに気持ちを表してくれるなんて。
誰よりも大切、だと。
噛み締めるように反芻してみたが、その言葉の本当の意味を量りかねていた。
それは、あまりにもスペシャルな称号。
『…え、っと。あの…大切って、その、どういう意味での…』
狼狽してたどたどしく尋ねる優姫の顔は真っ赤になっていた。
逆上せ上がった頬を手で包み込んでやれば、優姫は泣いてしまいそうな視線を投げ掛けてくる。
『解りやすい答えが欲しいか?』
質問を質問で切り返せば、優姫は手の平の中で素直に頷いた。
バスルームの熱気が全身を侵食していく。
湯上がりの熱が冷めたはずの身体が。
無防備だった心が。
持て余すほど、じわじわと熱を放って。
その熱に浮かされてしまったのだろうか。
今はそういうことにしておこう。
零は優姫の唇の端に、小さく音を立ててキスをした。
『…こういう意味。続きはまた明日。早く寝ろよ』
硬直した優姫の赤い頬をペチ、と叩くと零は足早にバスルームから出て行ってしまった。
少しだけ空いているドアと。
何か期待してる私と。
弾けそうな心臓と。
不完全なキスと。
すべて引っくるめた答えは…。
優姫は熱気でショートしそうな頭を抱えて、ズルズルと床に座り込んだ。
『…続きは…また明日、』
そう呟いて、キスされた唇の端を指先でなぞった。
とりあえず、今夜は眠れない夜になるのは確か。
おしまい
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