オペラモーヴの虚言



『ハンター協会から呼び出しがあったから、今日は留守番お願いね。夕飯には…間に合わないかなぁ』

理事長が3時のおやつをテーブルに並べながらそう言った。
優姫はスコーンをかじりながら。
零は紅茶を啜りながら、何の気無しに返事をする。
冬休みに入り、生徒は自宅へ帰って行った。
優姫と零も一応自宅と呼ぶべき、理事長の住居スペースで寝起きをしている。

『零は今日何か予定あるの?』

紅茶に角砂糖を放り込みながら優姫が訪ねた。
3つ目の角砂糖が紅茶に転がり落ちるのを横目で見ると、零は眉をしかめる。

『…射撃場。お前、糖尿病になるぞ』

視界の端にムスッとした優姫の顔が居座っているが、無視してクッキーを口に放り込む。

『ならないもん!…今日の夕飯、私が一人で作るの〜やだな』

頬杖をついてむくれる優姫を横目に理事長が、こっそりと零にウインクを飛ばす。
お ね が い 、き り ゅ う く ん。
声は出さずに口はパクパク、目もウインクどころか無駄にパチパチさせる理事長の奇行に気付いた優姫が怪訝な顔をしている。
目は零は聞こえよがしに大きなため息をつくと、カチャンと音を立てて紅茶を置いた。

『なるべく早く帰るから…手伝う…』

優姫はパッと明るい表情になり、甘ったるいだろう紅茶を両手で包んだ。
世話のやける奴、と呟くと、零はカップの底に残った苦いだけの紅茶を流し込んだ。



分厚い雲が垂れ下がった空は、夕暮れ前だというのに薄暗い。
北風に乗って粉雪が舞ってきた。
風ではためくカーディガンの前を押さえながら、いってきます、と傘を振り回す理事長に小さく手を振り返す。
その姿が見えなくなると優姫はボンヤリと空を仰いだ。

『積もる、かなぁ…』

風に掻き消された小さな独り言。
雪は、あまり好きじゃない。
始まりの記憶だから。
真っ白な雪に、真っ赤な血。
そして、吸血鬼。
未だ消えない記憶。
恐怖なのか、寒さからなのか身震いが起きた。
それを振り払うように優姫は両腕を摩り、部屋の中へと戻っていった。


玄関ホールから薄暗い廊下を抜けて、足早にリビングへと向かう。
ドアを開けるとすぐにソファに腰掛けた零と目があった。
コートを羽織り、小さな鞄が足元にある。
優姫に声をかけてから出かけるつもりでいたのだろう。
射撃場へ行く身支度をすでに終えていた。
零はドアを開けたまま立ち尽くす優姫に、じゃあ、と短く言うと立ち上がった。
零が行ってしまう。
ひとりは嫌。
ひとりは怖い。
一緒にいて。
喉の奥で言葉にならない感情を無理矢理飲み込む。
眉尻を下げて、泣き出しそうな顔をしている優姫に零は目をやる。

『優姫?』

心配げな声色で近付いてくる零の横をすり抜けると、優姫は窓辺に駆け寄った。
レースのカーテンが引かれた窓を小さく開けると、わざとらしく大きな声で言った。

『わぁ、凄い雪!大雪。吹雪!!』

さっき自室で着替えながら窓の外を見た時は、風に舞う程度の雪だったけれど、と零は首を傾げた。
半信半疑な中、自分も外を見ようと窓に近づくと、優姫が弾かれたように厚いカーテンを後ろ手で閉めた。

『だ、め!』

歩み寄る零を制止しようと優姫は零のコートにしがみついた。
窓の外を見せないようにするような優姫の必死な抵抗に驚いた零は一歩後ずさる。
ゴツリ、と何か踵に当たる感覚。
あぁ、自分の鞄だ。
と認識しながら、優姫に押されるがままグラリと体が後ろに傾く。
まさか優姫にひっくり返されるとは。
予測外の出来事に混乱しつつも、優姫を抱え込む腕には無意識に力がこもる。
幸い、後ろには先程腰掛けていたソファがあって、二人分の体重が一気にかかると、スプリングが派手に軋んだ。

『………』

『……ごめん』

倒れ込む瞬間、零に強く引き寄せられて、気付けば頬にはコートの柔らかいファーの感触。
腰をぐるりと捕えた長い腕。
極めつけは零をソファに押し倒した上に、その膝に跨がるような体勢。
優姫は我に返ると、みるみる顔を赤くした。

『ほんと、ごめん…』

『…まさか、お前みたいなチビに押し倒されるとは…』

零は呆れたような声で言うと、優姫を抱えていた腕を解いた。
視界の隅に優姫の捲れ上がったスカートが映る。
咄嗟に見ないように目を逸らす。
零はバツが悪そうに眉をしかめたが、優姫はまだ零の胸元に張り付いて動こうとしなかった。
視覚的にも体勢的にも居心地が悪くなり、零は動だにしない優姫のつむじを睨みつける。

『おい』

呼び掛けにも無言の抵抗なのかピクリともしない。

『…射撃場にいくだけだから』

優姫の頭が子供がするようにイヤイヤと左右に振れる。

『すぐ帰ってくる』

零の胸元に額を押し付けて、顔を隠すようにまた首を振る。

『…大雪なんて嘘だろ?素直に、行くなって言えバカ』

零は最後に小さな溜息をつくと、優姫の頭をポンっと叩いた。

『…う、っひっく…、』

それをきっかけ優姫は嗚咽を漏らして泣き出した。
コートにしがみつく手が離れたかと思うと、小さな拳で零の胸をドンと叩いた。

『いじわるっ、分かってるのに…なんで、』

優姫は涙目で零を睨みつけて、また弱々しくその胸板を叩いた。
ぽろぽろと涙をこぼす優姫を見下ろす零は、困惑したような表情で、ごめん、と謝るしかなかった。

『そばにいて、』

嗚咽交じりのくぐもった声。
零の上着に顔を埋めながら、優姫は肩を小刻みに震わせて泣いた。
行き場がなかった両腕で遠慮がちに優姫を抱きしめる。
緩い抱擁に優姫は、零のコートの中に潜り込んで、背中に手を回した。
細くて小さい体。
包み込むように強く抱きしめると、優姫の背中は弓なりにしなって喘ぐように声を上げた。

『ぜ、ろ…苦し、い』

零の膝の上で優姫が身じろぐたびに、スカートのプリーツが乱れ、白い太股があらわになる。
それに気付いたのか、頬を赤らめてスカートを直そうと手をやる。
零はすかさずその手を絡め取ると、低く掠れた声で優姫の名前を呼んだ。
どきり、と跳ね上がる心臓。
吐息がかかるくらい近くで見上げた浅紫の瞳が、まっすぐに自分を居抜いていて息を飲む。

『手…離し、て』

優姫は赤面しながらも、捲れたスカートを気にして目を反らす。

『そばにいて、っていったのはお前だろ』

捕らえた手を引き上げて自分の首に回すように促すと、強引に細い背中を引き寄せる。
大きな手で優姫の顎を持ち上げて、黒目がちな瞳に自分の姿を映す。
潤んだ瞳が揺れたのは、少しの恐怖か。
はたまた、欲情か。
解らないままに煽られて、もう一度名前を呼んだ。
返事は待たずに、薄紅の唇を塞ぐ。

『ん、ぁ…。』

唇の端から洩れる言葉にならない声。
触れ合った唇から鼓膜まで痺れるような感覚。
優姫は狼狽えながらも、目を見開いて零の瞳を覗き込む。
なんで。
どうして。
こんなこと。
頬に集中する熱が、ジワジワと頭まで侵食してきて考える余裕が無くなる。
キスしながらぶつかった浅紫の視線に、くらり、と眩暈を起こした。

『…あんま、見るなよ』

少しだけ離した唇から、照れたような抗議の言葉が紡がれる。

『…こんな、こと。どうして…おかしいよ零』

ぐい、と胸板を押し退けて、優姫は真っ赤な顔を背ける。
かとおもえば、僅かに色付いた唇を押さえて、困惑した瞳を向ける。
そういう仕種が男を擽るというのに。
分かってないから余計タチが悪い。

『俺に跨がったまま、よく言うよ…』

零は片眉を吊り上げて、不敵に笑った。
ハッとしたように優姫はスカートの裾を引き下ろして、後ろに飛び退くように零の膝から下りた。
さっきまで痛いくらいに抱きしめられていたのに。
こんなにアッサリと手放されて、内心寂しさも少しだけあるなんて。
知らなかった自分の感情に耳まで熱を帯びる。
よろよろと後退りすると、さっき零が躓いた鞄に足を取られる。

『『あっ、』』

二人の声が重なった直後、優姫は厚い絨毯の上に尻餅をついた。

『ユッキー、何してるの?』

音も無く唐突に開かれたリビングルームのドアには、目を丸くした理事長がいた。
驚き振り向く優姫は、しどろもどろになって零の顔をチラリと見る。
零は何事もなかったようにソファに悠々と腰掛けて、新聞のテレビ番組欄を眺めている。
それに引き替え、優姫は絨毯の上にへたりこんでいて、理事長が首を傾げているのも納得だ。
あんにゃろ、変わり身の速さが憎らしい。
優姫がこっそり睨みつけるが、零は素知らぬ顔で視線を合わせてくれない。

『あーあ、俺の鞄を踏ん付けて、すっ転びやがって』

溜め息交じりに、いかにも呆れたように言って、新聞をポイっと放る。
ロクに読んでもいないくせに。
芝居がかっていて笑えてくるが、ぐっと我慢する。

『ユッキー、気をつけなよ。女の子なんだから、もうちょっと落ち着きが…、って、僕は忘れ物したから戻ってきたんだよね〜』

理事長はパタパタとスリッパを鳴らしながらキッチンへ行くと、ダイニングテーブルの上のファイルを漁る。
お目当ての書類を鞄に押し込むと、おやつの残りのクッキーをひとつ口に放り込んだ。

『んぐんぐ。んじゃ、また行ってきま〜す。あ、寒いからお見送りはいらないよ。雪が降りそうだから錐生くんも気をつけて出掛けるんだよ』

『はい』

珍しく素直に返事をした零に、満足そうに微笑むと理事長は足早に出掛けていった。


理事長が嵐のように去った後は、怖いくらいの静けさだった。
零は仏頂面のまま優姫を見下ろしている。
いつもの無言がもどかしい。
優姫はバツが悪そうに絨毯に座りなおすと、落ち着きなさ気に視線を泳がせた。

『…射撃場、行けば?私、もう平気だし』

絨毯の模様を指で突きながら優姫は小さな声で言う。

『は?いかねーよ』

零は羽織っていたコートを脱ぐと、ソファから滑り降りて優姫ににじり寄る。
咄嗟に身構える優姫に一瞬躊躇うが、そっと髪に触れる。
体を僅かに強張らせたが、逃げない優姫に零は表情を綻ばせた。

『独りよりも、俺が怖い?』

思いのほか優しい零の視線と声に、優姫は少し悩んで、小さく頷いた。
独りとはまた違う怖さ。
はたして、怖いという表現が正解なのかも定かではないが。
ゾクリ、とした感覚は怖さと似ていた。

『…怖かった。零に、た、食べられちゃうかと思った』

優姫は泣きそうなような、困ったような顔をして呟いた。
その言葉に珍しく表現を崩して笑った零は、優姫の頭を乱暴に撫でた。

『ま、あながち違わなくもない、な。さっきは理事長の気配を感じて止めたけど…』

零の顔が傾きながら近づいてくる。
銀糸のような癖のない髪が伏し目がちな浅紫の瞳に掛かる。
そのコントラストに見惚れてる隙に、優姫の背中は静かに絨毯に張り付けられた。

『まだ怖い?』

震えただけで触れてしまいそうな距離から、優姫の瞳を覗き込む。

『…怖い、よ…』

見つめ合う瞳に、もう一人の自分が映りこんでいる。
それは初めて見る表情。
妙に恥ずかしくて、見ていられない。
優姫はゆっくり目を閉じた。
重なる唇と、閉じ込めるようにかかる零の体重が心地好くて、優姫は銀色の髪に指を絡めた。





おしまい
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