灰になりたいシンデレラ
あなたと離れ離れになってから、いくつの月が満ちては欠けたのか。
数えようとしたけれど、意味のないこと。
だって、これから幾千という気の遠くなるような夜を生きていくのだから。
あなたのいない場所で。
自分の意志で零と決別して、学園を去ってからどれくらい経っただろう。
屋敷の中に大切に閉じ込められてからは、暦などを見ないようにしている。
日付けを知ったところで、現実の何が変わるのだろうか。
太陽と月が規則正しく入れ替わり、1日1日がゆっくりと流れている。
早く、もっと早く。
時間が流れてくれたらいいのに。
10年、100年、1000年経てば、あなたの事を忘れられますか?
忘れられるはずなどない。
愛しい記憶は色褪せることなど知らないのだから。
小さなため息が漏れて、また目頭がじわりと熱くなる。
そして、微かな喉の渇きに優姫は眉をひそめた。
本当は、ずっと前から分かってた。
ほのかに色付いた思いを、姉弟みたいな関係に置き換えてきたことを。
皮肉にも、間違いに気付いたのは獣になり果ててからだった。
この渇きは他の誰でもない、ただ一人しか癒すことができないって。
ここまで堕ちなければ気付かないなんて。
絶望の底で喉を鳴らす姿は、まさに血に見入られた魔物そのものだ。
優姫は錆び付いた窓を大きく開け放した。
冬の夜の冷気が吹き抜ける。
その肌を刺すような冷たい風が、醜い欲望を鎮めてくれないか。
しばらく夜風に身を晒していたが、喉の渇きも彼の人への思いも覚めやらなかった。
はためくカーテンに背中を押される。
ひらり、風を跨いだ白い素足。
優姫は音もなく窓から飛び降りた。
喉が灼ける。
息が出来ない。
助けて。
違うだろ、と客観的なもう一人の自分が呟く。
『飢えてるんだ。あいつの血が欲しくて、喉元を掻き毟りたくなるだろ?全部、食らい尽くしたくて血が騒いでる』
その声をかき消すように大声で叫ぼうとするが、喉は枯れて声にならない。
俺はまだ堕ちてない。
苦しさで酸欠になりながら、そう否定したくて這い蹲りながらもがく。
真っ赤に染まってしまっただろう瞳から流れた涙は、一体どんな色をしていたのだろうか。
濡れた頬を拭うその感覚で、これば馬鹿馬鹿しい夢なんだと気付いた。
一人暮らしの小さくて古い部屋。
まだ慣れなくて、夜中に目を覚ますと見知らぬ場所だと錯覚を起こす。
息苦しさと動悸で乱れた呼吸を飲み込んでベッドサイトの時計に目をやる。
真夜中の2時。
寝付いてから、さして時間は経っていなかった。
零は汗で額に張り付いた前髪を乱暴にかきあげると、小さく咳き込んだ。
夢の中で味わった渇きは、現実でも消えてはくれなかった。
手探りで伸ばした手がタブレットケースを弾き飛ばして、音を立てて転がり落ちた。
蓋が外れて白いタブレットが冷たい床に散らばる。
音もなく転がるタブレットをぼんやりと目で追うと、窓辺に白い足を捉えた。
気配をまったく感じなかったのに。
枕の下に隠したブラッディーローズに素早く手を伸ばすが、それを制止するように懐かしい声が名前を呼ぶ。
『零、こんばんは』
窓辺に静かに佇むのは、殺したいほどに求めていた吸血鬼。
ずっと前から見知った顔なのに、知らない少女のように微笑んでいる。
白銀の髪の隙間から睨みつけた吸血鬼は、思い出の片隅にいる彼女と重なって、ひどく胸がざわめく。
『…わざわざ殺されに来たのか?』
零は銃に伸ばした手を止めて、あからさまに不快な声で言った。
優姫はしゃがみこむと、散らばったタブレットを拾い出した。
『散らばっちゃったね…』
的を得ない答えと行動、そして渇きの苛立ちに零はベッドから立ち上がる。
『お前…何で、何をしにここへ…!』
ぐい、と優姫の手首を取って詰め寄ると、その手から集められたタブレットがまた床に散らばり落ちた。
零は問い詰めたい言葉を押し殺して、優姫の手首を強く握った。
その痛みに優姫は身じろぐと、大きな瞳を真っ直ぐ零に向けた。
血色に染まったダークレッドの瞳に、零は驚いて息をのむ。
飢えた色をした瞳が悲しげに歪んだ。
『…ごめん、ね』
何に対する謝罪なのか。
零が考える前に、首筋に灼けるような痛みを覚えた。
『ゆう、き…?』
首筋に唇を寄せる優姫の小さな頭を掴む。
それに抵抗するように首に巻きついた両腕に力が入った。
血を啜る音。
鼓動に合わせて疼く痛みに、零は浅く呻いた。
満たされていく。
雪が静かに積もるように。
音もなく、深く。
渇望していたのは、あたなの血。
優姫は赤く染まった瞳を細めて、求めていたものを飲み下していく。
『な…んで、』
低く掠れた零の声に、優姫は顔を上げた。
その唇は仄暗い室内でも不気味なほど血色に艶めいていた。
困惑の色を隠せない零の表情に、優姫はまた悲しげに笑った。
『言葉より、こっちのほうが伝わるかな?』
ブラウスのリボンタイを解くと、白い首筋が露わになる。
ざわり、と血が騒ぐ。
猜疑心を吹き飛ばす、甘美な誘い。
吸血による飢えも手伝ってか、零は迷うことなくその首筋に牙を突き立てた。
渇ききった喉に流れ込む優姫の血に、夢中で酔いしれる。
とろりとした血から伝わるだろう。
あなたに飢え。
枢の庇護の元を抜け出して。
あなたに満たされた。
この気持ち、赤い血が染み渡るように伝わればいい。
でも、すでに遅すぎた。
大粒の涙が止まらない。
『わたし、零のことが、』
嗚咽まじりだろうが、獣ではない人の言葉で伝えたい。
『このままお互い貪り尽くして、抱き合ったまま灰になって死ぬのも悪くないな』
優姫の言葉を遮るように、零は首筋から唇を離して呟いた。
優姫は驚いて目を見開くが、ぽたりと落ちた自分の涙に気を取り戻した。
『うん、だけど…もう帰らなきゃいけないの』
鏡のように零を写した瞳は、涙で霞んでよく見えない。
けれど、優姫の瞳の中の自分がはたしてどんな顔をしているのか確かめるように、零はじっと見つめ返した。
『たくさんの人が、心配するから』
優姫の葛藤の数を物語るように涙が溢れた。
零は小さく頷くだけだった。
そんな零に不安になって、優姫は必死で言葉を紡いだ。
『私だって、このまま灰になっても構わないと思ってる。だけど…私にも、零にもまだやるべきことがあるから』
すがりつく両手が震えている。
欲望と罪悪感。
勝ってしまったのは欲望。
それは甘んじて受け入れた零も同じだった。
『覚えててほしいの。私は零を、』
言い終わらないうちに、ぐい、と力任せに引き寄せられる。
耳たぶに触れる赤い唇が、言葉なんかいらない、と囁いた。
噛みつかれるような乱暴なキスを交わすと、どちらの血なのか分からない味がじわりじわりと広がった。
早く帰らなくちゃ、いけないのに。
逸る気持ちに反するように、優姫は零の白銀の髪の中へ指先を埋めた。
おしまい
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