解けない方程式
静かな教室。
デイクラスの今日の講義はすべて終わった。
が、しかし落ちこぼれ達の補講は始まったばかりだ。
『あ〜もう。陽が沈んじゃう!どうしよう…』
優姫は色を鮮やかにさせながら傾く夕日を、焦りながら見つめた。
解答用紙はまだ三分の二が白紙のままだ。
『じゃ、俺はお先に』
後ろの席の零はペンケースを鞄にしまい込んで、すでに帰り支度を済ませていた。
『あー裏切り者!』
優姫は身を乗り出して、零の鞄にしがみついた。
と思うと零から鞄をむしり取り、人質ならぬ物質を椅子の下に隠す。
『てめぇ…』
『返してほしければ、解答用紙写させて!』
優姫はねだるように首を傾げてみたが、すかさず頭を叩かれた。
『いたっ?!だって早くしなきゃナイトクラスの授業が始まっちゃうじゃない。同じ守護係で補講仲間だもん、助け合おう?』
優姫は手を胸の前で組んで、祈るようなポーズで零を見上げる。
しかし、零は片眉をぴくりとつり上げて、口を開いた。
『…同じ守護係、は認めるが、補講仲間になったつもりはねーよ。そもそも、俺は居眠りのペナルティ。お前は純粋にバカで補講受けてるんだ。そこは一緒にすんな』
零はフン、と鼻で笑うと、机に座って優姫を見下ろす。
泣き言を言いながら、問題と格闘している優姫のつむじを見ながら思う。
じゃれあうのも悪くはない、とか。
内心、こんなやりとりに安らぎを感じている。
言葉にはしないけれど、その眼差しは優しく穏やかだった。
『この方程式は…ここを使う?あれ、違う?』
零の胸中を知らずに、優姫はチラチラと零の顔色を伺いながら問題を解く。
しかし、羅列された文字は見当違いの答えを導き出していた。
『あのな、数学なんて答えは必ずひとつあるんだから、焦らないでやってみろ』
目の前にコロン、と消しゴムが転がる。
あ、やっぱり間違ってたんだ…と、優姫は虚しく笑った。
見上げた零の穏やかな表情。
ふっ、と切ない気持ちが胸を過った。
こんな時間がずっと、ずっと続けばいいのに。
できることなら、吸血鬼の呪縛から救い出したい。
ただひたすら終わりを待つしか方法が無いのだろうか。
問題はいつの間にか数学から零の置かれた立場に転換されて、優姫の不安を掻き立てた。
『…答えがひとつしかないなんて、意地悪だよね』
優姫は間違いだらけの方程式を消しながら呟いた。
『…答えがいくつもあったら、答えじゃなくなるだろ』
零は呆れたようにため息をつくと、自分の解答用紙を机に広げた。
優姫は驚いて顔を上げる。
『もう日が暮れる。さっさと写せ』
零は腕時計に目をやると、夕焼けを眩しげに見つめた。
もうナイトクラスの寮の前は、女子生徒でごった返してるだろうか。
優姫が隠した鞄を取り返すために、零はゆっくりと屈んだ。
『…いい。やっぱ自分でちゃんとやる』
中腰の零の目の前に、解答用紙を突き返す。
零は解答用紙を突き返されたことに驚いたのか、黙ったままだった。
『答えはひとつとは限らないもん』
優姫は問題を睨みつけながら言った。
シャーペンを握りしめる手が小刻みに震える。
あぁ、きっとあの事を言ってるのか。
いずれ、必ずレベルEに堕ちること。
零は小さく笑った。
自分の為にこんなにも健気で、必死な彼女を。
そこまで思ってくれてるなら、幸せだ、と自然と笑うことができた。
『あると思うの。違う答え。私は見つけてみせる』
夕日色に染まる優姫の横顔にそっと触れる。
ゆっくりと隣に跪いて、横顔を覗き込む。
『私はバカだけど、零のこと…』
『俺は、優姫にとってどういう存在だ?』
優姫の言葉を遮って零が問いかける。
触れ合ってしまうほど近くにある零に優姫は息を飲んだ。
腕を柔らかく捕らえられて、動けない。
『手のかかる弟だろ?』
僅かに微笑んだ唇が、優姫の耳元に触れた。
そこから、じわり、と熱が広がる。
『な、なに?!今の、なにして…』
『俺の存在も、答えはひとつとは限らない…だろ?それ、俺からの課題だからな』
さっと鞄を拾い上げると、零は教室から出て行ってしまった。
ひとり残された優姫は、狼狽えてばらまいたシャーペンを震える手で拾い集めた。
『は、早く終わらせないと…』
気を取り直して机に向かうが問題が頭に入ってこない。
方程式はただの記号の羅列になって、頭の中でバラバラになってしまう。
こんなんじゃ駄目だ、と頭を振る。
補習のプリントをやらなきゃいけないのに。
耳元に暖かい吐息と、柔らかな熱が邪魔をして何も頭に入ってこない。
身体を浸食する熱に、くらくらと目が眩んだ。
『もう、分からない』
優姫は夕日よりも赤く染まった頬に手を当てた。
考えても、考えても答えは導き出されない。
余計に迷いだして、出口が見えなくなってしまった。
零は知っているの?
この感情の名前を。
優姫は立ち上がると、何も持たずに駆け出した。
教えてよ。
弟じゃないなら、アナタは誰?
おしまい
―――――――――――