月と薔薇



月明かりに照らされて白銀に煌めく、ブラッディーローズ。
ゴトリ、と重々しい音を立てて、机に無造作に置かれる。
零はネクタイを緩めると、椅子に疲れた体を預けた。
守護係(ガーディアン)の仕事は深夜に及ぶこともある。
今日もまた然り。

ここは学園長の住居スペースの一室。
机と椅子、大ぶりのソファー、小さなドレッサー。
殺風景な部屋を、机の上のライトだけが頼りなさげに照らす。
風呂を借りに来たものの、優姫に先を越されて順番待ちだ。
真夜中の静けさに耳を澄ますと、微かな水音と調子外れの鼻歌が聞こえる。
優姫は何の歌を歌ってるんだろうか。
耳に神経を集中していると、心地よい微睡みがやってくる。
零はそのまま机に頬杖をついたまま、眠気に身を任せることにした。



どれくらい経ったのか。
暖かい手が頬に触れたのを合図に、零はうっすらと目を開けた。

『ごめんね。次、お風呂どーぞ』

『…お前、音痴だな』

開口一番、零は皮肉混じりに笑った。
何の事だか判らず、優姫はしばらく考えた後、ぷっくり頬を膨らませた。

『ちょっと、どーいう意味よ!』

優姫は零の頬をつねると、上下に引っ張る。
零はされるがまま身を任せていたが、仕返しとばかりに優姫の頭を軽く小突いた。

『風呂借りる。早く寝ろよ』

優姫の半乾きの髪をグシャグシャと撫でる。
風呂場へ向かう零の後ろ姿。
急に、零がどこかに行ってしまうような不安感に襲われて、優姫は吸い寄せられるように手を伸ばす。
我に返った時には、零の上着の裾を握りしめていた。

『…あの、ね。えっと…』

優姫自身、無意識のうちの行動だった。
零を引き止めるような理由なんて何もないのに。
零は心配そうな視線を向けながら、優姫の言葉をジッと待っていた

『…あの…』

言葉に詰まって俯く優姫に、零は小さく溜め息をつくいた。

『湯冷めするから、これ着てろ』

ダークブラウンのカーディガンを優姫の頭に被せる。
もたもたとカーディガンから顔を出した時には、零はすでにスルームの扉に手をかけていた。

『あ、俺ココアでいいから』

閉まってゆくドアから零の声が聞こえた。
シャワーの水音が響く中、優姫は零から渡されたカーディガンに袖を通した。
ぶかぶかだけど、あったかい。
小さく呟いて微笑むと、優姫はキッチンへと向かった。



ヤカンから上がる蒸気をボンヤリ見ながら思いを馳せる。
零の後ろ姿を見ると不安になる。
零はハンターであり、吸血鬼。
過酷な運命が待ち受けているだろう。
レベルEの問題だって、何の解決策も見つかっていない。

『なんだか、離れたくなくて…』

寂しいような、恋しいような。
そんな淡く色付いた感情は、幼い頃から枢に向けている憧憬に少しだけ似ていた。
こんな気持ち、初めてだから分からない。
優姫は、何でかな…、と自分に問いかけて首を傾げた。


余計な考え事をしていたお陰で、ココアを淹れるのに手間取ってしまった。
優姫がトレイにココアを載せて部屋に戻ると、零はソファーに腰掛けていた。

『おまたせ…砂糖少なめの方がいいよね』

カップを持ったまま優姫もソファーに腰掛けた。

『あ、ブラッディーローズの手入れしてたの?』

零の膝の上には、ブラッディーローズと小さな部品らしい物があった。

『メンテナンス。いざって時に使えなきゃ意味無いからな』

手早く組み立てると、具合を確かめるように銃を構える。
満足したのか、零はブラッディーローズをソファーの肘掛けに置くと、優姫の手からカップを受け取った。

『零ってさ、薔薇みたいだね』

カップから立ち上る湯気の向こうを見ながら、優姫は呟いた。

『…は?俺が、薔薇?』

零はココアを飲み込むと、眉をひそめて疑問符を並べた。
なぜ優姫が自分を薔薇だと例えたのか、その意図が見えない。
男が薔薇に例えられるなんて何だか不気味だ。

『なんか、ね。初めて会った時とか、誰も寄せ付けないオーラっていうの?薔薇の棘みたいな。触ったら怪我しちゃうんだけど、でも触れたくて、儚くて…』

懐かしむように優姫は笑うと、ココアを一口流し込む。
零も理解できたのか、物思いにふけるように、カップを両手で握った。

『それならお前はアルテミス、か』

零は優姫の顔を覗き込むと、キョトンとした表情を向けられて、小さく笑った。

『アルテミスは月だろ?お前は月が満ち欠けするみたいに、コロコロ表情が変わって面白い』

誉められてるのか、貶されてるのか。
解らなかったが、悪い気はしなかった。
無邪気に笑う優姫とは対照的に、零はふと真顔になった。

『薔薇は地に根を下ろしてないと生きられないから…どんなに手を伸ばしても、月に届かないな…』

どこか諦めを孕んだような零の言葉に優姫は目を見張った。
俯きがちな浅紫の瞳と視線が交差する。
ぎゅ、と胸が締め付けられるような感覚に背中を押されて、優姫は零の頬にそっと触れた。

『手を伸ばせば…ここにいるのに?』

いつしか会話の中の月と薔薇を、お互いに重ね合わせていた。
届かないんじゃなくて、触れようとしないだけ。
手を伸ばしてみれば触れることができる、そんな些細な距離。
優姫の手に自分の手を重ねると、零は瞼を閉じた。
カーテンから漏れる月明かりが、零を照らす。
白銀の髪と蒼白の顔が一層際立つ。
繊細なような。
冷淡なような。
そして、儚いような。
あぁ、だから薔薇なんだね、と優姫は零の頬を撫でる。

『…そうだな。どうかしてた』

眩しいものを見たように、薄く開けた瞳を伏せたまま零は呟いた。
頬にある優姫の手をどけようとすると、反対の頬にも暖かな手が触れる。
零の頬を両手で挟みこむと、優姫は困ったように笑った。

『私も、どうかしてる。さっき零を引き止めたり、こんな話したり。…だけど、今分かったの。私が、寂しかったの』

零の肩に額を押し付けると、なんでだろ、と笑う。
毎日近くにいるのに、こんな感覚に陥るなんて。
優姫は軽い目眩を覚えた。

『本当に…どうかしてるよな』

零は優姫の手のひらの暖かさを胸に刻むように、また目を閉じた。

優姫はまだ知らない。
寂しさと思い違えたこの感情を。
それは、とてもよく似ていて、異質なもの。
純血種の枢に抱く“憧れ”とも違う。
“恋しさ”という気持ち。
寂しさも、目眩もその代償だ。
知りたいけれど、この関係が崩れてしまいそうで怖い。
どこかで、お互い持て余した淡い感情を押し殺さなければ、傍にいられない。
そんな気がしていた。
それなら、気付かないふりをしよう。
この気持ちの核心に、手は伸ばさないまま。

月が雲に隠れると、寄り添う影が一層濃くなってひとつに溶けていった。



おしまい
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