白の魔法



走っても。
走っても、走っても。
闇が迫ってくる。
飲み込まれないように、もがいて、這い出して…。
それでも逃げ切れない。
振り返ったら、最後。
目の前には、赤。
真っ赤なカーテンを引いたように、鮮血が広がるの。
誰か、助けて。
そう叫ぼうとしても、声にはならずに息を飲む。
涙が止めどなく溢れて、両手で顔を覆う。
ぬるり、と生温かい感触に背筋が凍る。
あぁ、私の涙も血色に染まってしまった。
私は赤い世界に独りぼっち。

繰り返し見る、怖い怖い夢。
赤は嫌なの。
早く覚めて。
誰か。
私の名前を呼んで、悪夢から救い上げて。




『…優姫、優姫?』

ひんやりした指先が頬に触れる。
まだ夢の中へ閉じ込めようとする重たい瞼を開ける。
ぼやけた視界は、一面、白。
あぁ、悪夢から覚めたんだ、と優姫は朧気に自覚した。
徐々に鮮明になる視界の真ん中には、浅紫色の瞳が不安げに覗いている。

『…零』

白銀の髪。
青白い陶器のような肌。
白が大部分を占める視界に安堵する。
悪夢から呼び覚ますのは、いつも決まって零だ。
起き抜けに、何度となく零の不安な顔を見たことか。
目尻に溜まった優姫の涙を親指で拭うと、零はホッと息をついた。

『大丈夫か?』

時計の針は明け方の5時を指していた。
窓の外はまだ暗く、優姫は肌寒さにぶるりと震えた。

『あ、れ?ここは…』

見回してみると、ここは理事長の部屋の隣の応接室。
昨晩、理事長に呼ばれた零を待つつもりで、この部屋に入って、そのまま…。

『…うたた寝しちゃったみたい』

零の怒りのオーラをジワジワと感じる。
優姫は誤魔化すつもりでおどけるように笑ったが、それが零には逆効果だった。

『っんの、バカ!どれだけ心配させんだ!!』

まず怒られると自覚はしていたが、先程起き抜けに見た零の優しさとのギャップに驚いてしまう。
耳元で怒鳴られると、優姫は眉尻を下げてあからさまに泣きそうな顔になる。

『…なんだよ、泣いたって無駄だぞ。みんなに心配かけやがって』

ことの始まりを聞いてみれば、女子寮の若葉沙頼から優姫が居ない、と理事長に連絡が入ったのが夜中の4時。
パニックに陥った理事長が零の部屋に駆け込んだのが4時15分。
叩き起こされて、小一時間。
零はあちこち優姫を探し回って、今に至る。

『灯台元暗しだったな…理事長の部屋の隣かよ』

優姫が居ないと聞いて、必死で駆けずり回ったのだろう。
汗ばんだ前髪をかき上げて、大袈裟に溜め息をついた。

『ごめんなさい…』

優姫はグッと涙を飲み込んで謝罪の言葉を口にした。
みんなに心配をかけてしまった。
特に零に至っては、守護係のせいで少ない睡眠時間を更に削らせてしまった。

『本当にごめ、んんーっ』

ソファーに正座をして謝ろうとすると、零は優姫の鼻を摘んだ。

『無事だったから、もういい。…で、泣きそうなのは怖い夢を見たんだろ』

零は優姫の隣にドカッと座ると、テーブルの上に足を投げ出した。

『うん…いつもの怖い夢だった』

夢の中で真っ赤に染まっていた両手をきつく握りしめる。

『赤は、嫌なの』

優姫は震える身体を抱き締めるように、膝を抱えて座り直す。
あまりにも鮮明な赤。
思い出すだけで身の毛もよだつ。

『赤をかき消すなら、黒しかないだろ。黒いやつ、いるだろ…お前を守ってくれる』

零は頭の上で手を組むと、大きな欠伸をした。

赤をかき消す、黒。
黒…。
枢の髪の色。
赤い悪夢をかき消すなら、愛しい人。

『あは…枢様には、悪夢を見るってお話したことないから…。それに、悪夢から救ってくれる色は、いつも白なんだ』

『は?白なんか赤にも黒にも一瞬で染められる色だろ?儚い色だ』

零は無意識に自分の白銀の髪に触れたが、優姫に悟られまいと拳を握る。
優姫は首を横に振ると、零の髪を一束すいた。

『雪って本当は透明なんだけど、光があるから白く見えるって知ってる?。白は光の色なんだよ。暗闇や血色をかき消す光。白は魔法の色だよ』

優姫は照れたように微笑んだ。
光の色、と小さく繰り返すと零も口元を緩めた。

『悪くないかもな』

ぶっきらぼうに言うと、優姫の頭をコツン、と小突いた。
こうする時は決まって照れ隠しだ。
優姫は密かに笑った。
ソファーから立ち上がると、零は時計に目をやる。

『そろそろ6時か。朝飯にしようぜ。…理事長が6時までにお前が見つからなかったら、校内放送で呼び出すって言ってたぞ』

ニヤリと笑う零は、タイムリミットが迫る時計を指差す。

『うそー?!早く言ってよ!絶対イヤっ』

優姫は飛び上がるようにソファーから降りると、零にすがり付いた。
理事長ならやりかねないのが怖い。

『一緒に理事長探して!お願い〜お願いします!』

優姫の焦りっぷりに零は声を出して笑った。
学校でもそうして笑ってくれればいいのに。
そんなことを言えば、また怒るだろうから優姫は口を噤んだ。
こんな零を知っているのも幼馴染みの特権なのかもしれない。

『しょうがねぇな』

零は欠伸をかみ殺しながら、廊下へと続くドアを開け放つ。
差し込む柔らかい朝日が目にしみる。

『ほら、行くぞ』

振り返った零の白銀の髪と光が溶け合って眩しい。
優姫は思わず目を細めた。
零は、暗闇や血色に怯える夢をかき消す光。
目が覚めた時に、零がいるだけで安心する。
圧倒的な力で血色を塗りつぶす黒よりも、強い光を放つ白。
儚い色だけど、何よりも強く守ってくれる、魔法の色。

光に向かって手を伸ばすと、零の暖かな手に触れた。
繋いだ手と手が離れないように、そっと指を絡ませて歩き出した。






おしまい
―――――――――――
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -