消えない罪科の刻印を
終業のチャイムが鳴り響いて、一層賑わう教室。
そんな中、ぼんやりと窓の外を眺めていた優姫に、遠慮がちに声がかけられた。
『錐生くん、今日もお休みなのね、』
教科書を鞄に仕舞いながら沙頼が発した言葉は、まるで独り言のようだった。
だが、物思いに耽っていた優姫を現実に引き戻すには充分な言葉。
緩慢な動きで優姫は後ろの空席を振り返った。
零が怪我をして帰ってきたあの日から、すでに3日が過ぎていた。
療養のため、と理事長の住居スペースの一室に篭り、優姫さえも拒絶して扉を開けることをしない零。
理事長に相談してみても、怪我は治っているはずだから…そっとしておこうよ、と曖昧に笑うばかりで話にならない。
そんな零のことなどお構いなしに、時間は過ぎていく。
零のため、と黒板を写したノートのページだけが虚しく増え続けていた。
『…風邪でもひいたんじゃないかなぁ、』
優姫は理事長がするように曖昧に笑って、沙頼の問いを受け流した。
まさか、本当のことなんて言えないもの。
元人間の吸血鬼を殺して、大怪我を負った、だなんて。
優姫は気もそぞろに、中身のない鞄を抱え込んだ。
『…さっき図書館で錐生くんを見かけたんだけど、』
『えっ、図書館…!?』
うなだれていた頭を跳ね上けた優姫に、沙頼は戸惑いつつも頷いた。
でもね、と続ける沙頼の言葉も聞かず、優姫は鞄を放り出して教室を飛び出て行ってしまった。
鞄を受け止めて呆然とする沙頼は、もう見えなくなってしまった優姫に付け足すように呟いた。
『…錐生くんに見えたけど、1号か2号かは定かじゃないのに…』
ちらり、と見かけただけだから双子の見分けなんて出来やしない。
優姫はあんなそっくりな二人から、難無く錐生くん1号を見分けることができる。
それがとても不思議。
『幼なじみの力、なのかしらね…』
沙頼は困ったように微笑むと、優姫の鞄も抱えて先に寮へ帰ることにした。
錆びた装飾で囲まれた重厚な扉。
体重をかけて両腕で押し開けた。
ギィ、と耳元で軋む音が、まるで悲鳴みたいで、優姫は肩を竦めた。
静寂が支配する薄暗い館内に一瞬息を飲む。
まるで入っては行けない場所に来てしまったような。
罪悪感に似た感情が優姫の足を重たくする。
それでも、零が居るかもしれない。
優姫は忍び込むように、そろりと図書館へと足を踏み入れた。
背中越しに扉が閉まるのを感じると、インクと古びた紙の香りが鼻孔を擽った。
きょろきょろと落ち着かない挙動のまま、失礼します、と小さな声で言ってみる。
もちろん返事なんかなくて、館内はしんと静まり返っていた。
ぐるり、と図書館内を見回してみたけれど、見える範囲は無人のようだ。
神経を研ぎ澄ませてみても、人の気配が感じられない。
『…零、いるの?』
今度は少しだけ声を張り上げて、本棚の影を覗き込んでゆく。
天井から疎らにぶら下がたった照明では、広い館内をとても照らしきれていない。
薄暗い本棚の影を一層濃く際立たせているようで、優姫は目を凝らして零の姿を探した。
広くて、でも立ち並ぶ本のせいで息苦しい空間。
時折、風のせいで揺れる淡い照明が揺らめいて、床が波打つような感覚に陥いる。
それでも優姫は連立する本棚が作り出した細い通路をさ迷いながら、零の名前を呼び続けた。
しかし、いつまで経っても一方通行の呼びかけ。
零がいる。
そんな確信は、ただのはやとちりだったのか。
静寂が不安を掻き立てて、優姫の声は本棚の隙間に吸い込まれるように消えた。
『……いるなら返事して…』
待てど返事は、ない。
図書館にはいないのだろうか。
それとも、いるけれど返事をしてくれないのか。
優姫は本棚にコツンと頭を預けた。
まるで自分が迷子になったみたいに心細い。
静まり返った館内で冷静に考えてみる。
沙頼の見間違え、という可能性も捨て切れない。
それに零ではなくて、壱縷だという可能性も。
落胆しながらも、優姫は零が怪我を負って帰ってきた日の出来事を思い出して、小さく身震いした。
血まみれの服。
鼻をつく薬品の香り。
壱縷の挑発的な言葉。
鈍く光った小銃。
あんなことがあったんだ。
零は傷付いているに違いない。
側にいて何かができる訳じゃないけれど。
あんな状態だった零をほっては置けない。
そう気持ちを改めた優姫の感覚の糸が、ふっと震えた。
微かな人の気配と、絹擦れの音。
小さく咳込むような声が聞こえて、優姫は踵を返した。
壱縷だろうが怖くない。
今すぐ零に会いたい。
その逸る気持ちに背中を押されて、優姫は本棚の合間を進む。
コの字型に配置された本棚は迷路みたいになっていて、高く聳える壁が影を作り出している。
それでも目を凝らした先には、デイクラスの制服を来た背中が本棚に凭れて座り込んでいるように見えた。
『…零、』
呼んだのは探し求めていた彼の名前。
幼なじみだもの、簡単には間違えない。
そっと近づいて、隣に膝を着いた。
俯いた銀髪をサラサラと撫でてやると、膝を抱えていた指先がピクリと動いた。
『…寝てるの?』
慰めるように撫でる手は止めずに、優姫はいつもの調子で声をかけた。
零はゆっくりと顔を上げると、浅紫の瞳で優姫の姿を捉えた。
『…大丈夫?』
いつもより青白い零の頬を指の腹で撫でる。
指先から伝わるひんやりとした感覚に、まだ体調は良くないのだろうと察することが出来た。
真っ直ぐに見つめる優姫とは対照的に、零は伏せた睫毛を微かに震わせて視線を泳がせていた。
『…どうして、ここへ来た?』
声は渇いた喉に張り付き、零は小さく咳込んだ。
喉の不快感と、脈打つように疼く首の入れ墨。
優姫の気配を感じてから、沸き上がり、その姿を目にした途端に身体を暴れ回る疼き。
あぁ、この感覚。
俺は餓えているんだ。
馬鹿を見るほどお人よしで、底抜けに優しい優姫の血に。
浅ましい欲望に気付いた時。
目の前に座った優姫はリボンタイを解いて、首筋を惜し気もなく晒していた。
『調子悪そうだから…。飲めば、きっとすぐに良くなるよ』
そう言って顔を背けた優姫の横顔。
茫然とした表情で零は優姫を眺めていた。
大胆な行動にほんのり赤く染まった頬。
解かれたリボンタイは、スカートのプリーツの上に無造作に波打つ。
白く滑らかな首筋には3日前、零に牙を突き付けられた跡が痛々しく残っていた。
欲望に忠実な身体が、一気にざわめく。
目の前の優姫の姿と言葉は、甘美な誘惑となって零の脆い理性を打ち砕いた。
『…っ、優姫…』
餓えた獣のように血色の悪い唇を舌なめずりする。
ちらり、と見えた舌は熟れたように赤く艶めく。
そのコントラストがやけに吸血鬼らしくて。
優姫は直視することが出来なくて目を閉じた。
怖いけれど。
どんな零でも受け入れる。
堕ちてしまうならば、引き上げる。
何度でも、この手で。
そう決めたのだから。
ぎゅ、っと閉じた瞼は覚悟の現れだった。
『いいよ、零…』
血で汚れてしまわないように、と開けたシャツから覗く柔らかい肌。
幾度となく、この牙を突き立て味わった血の味。
思考はあっという間に蕩けて、零は耐え切れず喉を鳴らした。
花に誘われた蝶のように、優姫の首筋へゆっくりと唇を寄せる。
露わになった肌を零の髪が擽って、優姫は身をよじった。
触れてもないのに、熱を感じる。
目を閉じていても、零だと感じる。
だから、怖くない。
自分に言い聞かせるように、心の中でそっと唱える。
優姫の決意に甘んじてしまった零は、浅紫の瞳を紅く染めていた。
獲物を逃がさない。
獰猛な本性を剥き出しにした零の手が、強い力で優姫の細い肩を掴んだ。
零の手は捕らえた優姫の肩を撫で上げて、首筋から後頭部へ。
もう片方は優姫の手を床に縫い付けるように重ね捕らえる。
『…い、痛くしないでね、』
小さな懇願は理性が崩壊した零に届いたのだろうか。
生暖かい舌に首筋をなぞられて、背中がゾクリ、と震えた。
優姫の怯えた様子を肌で感じて、零はほんの少しだけ理性を取り戻した。
怯えているくせに、無理して強がって。
どこまでもお人よし。
際限のない優しさが、時に零を苦しめているとも知らず。
こうして血を与えられることも、そのひとつだった。
優姫は優しいから。
こんな自分でも許してくれるから。
それに付け込んで、踏み込んで、侵して。
戻れないほど依存して。
いつか自分が優姫を壊してしまうんじゃないか。
付き纏う不安が膨れ上がる。
幸せになってほしい。
だから、もう自分には構わないでほしい。
そう願うのは半分嘘で、半分本当だった。
傍にいて、近寄るな。
大切にしたい、壊したい。
どれも本音だから、酷く苦しい。
けれど、所詮は獰猛な吸血鬼。
いつか崩れた理性の元、罪のない人間に牙を突き立てる運命。
そう、現実から目を反らしたらいけない。
俺には、優姫を幸せには出来ない。
傍にいることで自分の不幸の巻き添えにだけはしたくない。
見捨ててくれ。
触れないでくれ。
壊してしまうから。
いっそのこと、憎まれて蔑まれたほうが楽になるのかもしれない。
零はきつく唇を噛み締めると、先程まで煮え立つように渦巻いていた吸血欲求が冷めていった。
それでも、牙を仕舞った唇を優姫の首筋に寄せる。
『……っ、』
生暖かい吐息と、湿った唇の感触に優姫の肩が揺れた。
今、まさに優姫は首筋を食い破られる瞬間に怯えているのだろう。
でもそうじゃない。
背徳感に付け込んだ、最低な行為。
どうぞ、軽蔑して突き放してくれればいい。
零は浅紫の瞳を切なげに閉じて、優姫の首筋に唇を強く押し当てた。
白い首筋に強く吸い付いて、赤い鬱血痕を刻んでいく。
『っ、なに?…離し、て!』
チリチリと刺すような痛み。
場所を変えては繰り返えされる行為が何なのか分かった優姫は、顔を真っ赤にして逃れようと暴れた。
けれど、拘束された身体は思うように動かなくて、身をよじるたびに次々と焼け付くような痛みを与えられる。
いや。
こわい。
こんなの零じゃない。
声にならない声を必死で飲み込む。
イヤイヤと首を振ったが、髪の襟足を零の指先に絡め取られて、優姫は仰ぐように顎をのけ反らせた。
無防備な首筋。
点々と咲いた赤い花。
いくつめか分からないそれが鎖骨の上に刻まれると、床に縫い付けられていた手が緩められた。
考えるよりも先に。
優姫は拘束から逃れた途端、零の頬を力任せに叩いていた。
静かな図書館内に、鳴り響いた音。
そこから時が止まってしまったみたいに、動かない二人。
零の頬を打った手はカタカタと震えが止まらない。
痛かったのか、怖かったのか。
優姫は震える手をきつく握り締めた。
開きかけた乾いた唇が紡ぎたかったのは、非難の言葉だったのだろうか。
喉に張り付いた声は音にはならなかった。
酸欠の金魚のように唇を戦慄かせる優姫を、零は見ることが出来ずにいた。
打たれて赤く染まった左頬が燃えるように熱い。
ほら、早く俺から逃げてくれ。
これ以上酷いことをされたくなければ。
ショックのあまり、座り込んだ優姫に追い撃ちをかけるように言う。
『…行けよ、まだやられたいのか?』
零の言葉に顔を真っ赤にさせた優姫は、乱れた胸元のシャツを掻き合わせる。
『…っ、零の、ばか!』
大声で罵った優姫は立ち上がると、ジャケットを引っ付かんで逃げるように図書館を後にした。
そう、そうやって逃げて。
もう、近付かないで。
俺は獰猛な吸血鬼だから。
『…幸せになんか、出来るわけ…ないだろ…』
床に落ちた優姫のリボンタイ。
縋るように手を伸ばして、そっと握り締めた。
好きだよ。
だから、嫌いになって。
なんて皮肉な愛情だろうか。
零は本棚に背中を預けると、満足げに笑った。
つづく
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