鏡越しに微笑むのは、警告



カーテンの隙間から差し込む金色の光。
固く閉じた瞼越しにも痛いほど眩しくて、優姫は身じろいだ。
ソファーのひじ掛けに頭を擡げ、眠っていたようだ。
無理な体勢のまま眠りこけていたせいで、首の辺りが気怠い。
まだ重たい瞼を擦りながら上半身だけ起こすと、身体の軋みを解すように小さく伸びをした。

『…あ、れ…零?』

昨夜、一緒に夜更かしをしたはずの零がいない。
ぐるりと部屋を見回してみたけれど、目に眩しいほどの銀髪は見当たらない。
静まり返った部屋にファンヒーターの音だけが聞こえるだけだった。
冷えた床に足を下ろすと、膝からスルリとカーディガンが滑り落ちた。
零のだ、と呟きながらそれを拾い上げる。
先に起きて寮に着替えに戻ったのだろうか。
それにしたって声くらい掛けてくれてもいいのに。
壁に掛かった柱時計を見上げると、すでに10時を過ぎていた。

『朝ご飯…っていうか、お昼ご飯になっちゃうよ。理事長も零も起こしてくれればいいのに』

もう一度、背伸びをすると優姫は欠伸を噛み締めてカーテンを開け放った。
溢れかえる光に、一瞬眩暈を覚える。
細めた瞳に映る空は、果てしなく晴れ渡っていて、澄み切った水色だった。


目覚めてから暫くすると、優姫は異変に気付いた。
理事長と零が何処にもいないのだ。
今日は休日なので理事長はこのプライベートスペースにいるはずなのに。
零も休日はここで過ごすことが多かった。
なのに、今日に限ってどうして二人ともいないんだろう。
しかも何も言わずに。
まるで置いてけぼりにされたみたいだ。
初めは二人揃っていないのもたまたまなんだろう、と軽く考えていた。
しかし、昨夜理事長は零を呼び止め、個別に何か告げていた。
その後の零の様子。
少し元気が無かったような、甘えただったような。
優姫は謂れのない不安に駆られ、休みの学園内や寮も探してみた。
でも、何処を探しても二人の姿は見当たらない。
優姫は結局リビングへ戻ると、静まり返った部屋をぼんやりと見渡した。
家族みたいに賑やかに食卓を囲んで、零と理事長の料理にケチをつけたり。
テレビのチャンネル争いをしたり。
そんな風景を思い出してみたら、一人でいるのが尚更寂しくなってくる。

『どこいっちゃったんだろ…』

誰に言うわけでもなく、溜息と一緒にこぼれ落ちた言葉が虚しい。
静か過ぎて耳鳴りにまで耳を澄ましてしまう。
きーん、と響く高音に縛りつけられたように、優姫は立ち尽くすしかなかった。
そんな耳鳴りの中に、廊下からコツ、と響いた微かな音。
足音のように聞こえて、優姫は弾かれたように身を翻した。
履いていたスリッパが椅子に引っ掛かってもどかしい。
スリッパを脱ぎ捨てて、傾きかけた椅子を強引に押し戻す。
ガタガタと揺れる椅子の音を背中で聞きながら、優姫は廊下へ飛び出した。

『ぜろっ?!』

咄嗟に口から出た名前は無意識で叫び声のようだった。
薄暗い廊下の端に、長く伸びた細身の影。
零だ、零がいる。
優姫は開け放したドアもそのままに、その影を追い駆けた。
長い廊下を勢いづいて曲がる。
廊下の奥に黒いコートと銀色の髪がチラリと見えて、また消えた。

『ねぇ、零ってば!』

優姫は声を張り上げるが、零は戻ってこない。
無視しなくたっていいのに。
優姫はムッとしながら足を早めて、零が吸い込まれていった応接室のドアを乱暴に開けた。

『ちょっと!返事くらいして、』

ドアが開いたと同時に手首を捕まれ、優姫はバランスを崩した。
そのまま流れるように、目の前にいた人物に強く抱き留められて声を失う。

『ちょっ、零?!』

狭くなった視界には、学園指定の黒いコートと銀髪の襟足しか見えない。
あまりにも強い抱擁が息苦しくて、優姫はじたばた身じろいで抗議の声をあげる。
それでも逃がしてくれない力強い腕に諦めを覚えて、優姫は暴れるのを止めた。
ふと、鼻先をくすぐる知らない香り。
同じようで全然違う長い腕。

『………壱縷…くん?』

戸惑う優姫の声に緩められた腕は肯定の返事だった。
優姫はその胸の中から飛びのくように離れて、複雑な思いで壱縷を見つめた。
零に復讐しようと学園に編入してきたという壱縷。
そのわりには目立った動きも見せず、至って平和に過ごしていた。
もしかしたら、機会を伺っているんだろうか。
いや、でも…。
訝しんだ表情の優姫を見下ろて笑う壱縷。
まるで鏡に写った零のよう。
間違い探しみたいに違う所を探してみても、髪の長さが少し違うくらいか。
零に見えてしまった錯覚にも頷くしかない。

『…よく分かったね。ちょっとやそっとじゃ気付かないかと思ったんだけどな』

脱いだコートを優姫の隣にあるソファに放り投げて、壱縷は馬鹿にするように笑った。
眉間の皺を濃くしながら、優姫は壱縷の動向を警戒する。

『零がいない今、虐めるには絶好のチャンスだと思わない?零のお気に入りの優姫ちゃん』

人懐っこい笑みをこぼしながらも、言ってる内容は恐ろしいかった。
大切なこの子を虐めたら、零はどんな顔をするかな?
壱縷は沸き上がる好奇心を押さえ付けながら優姫に近付いた。
細い顎を指先で持ち上げて、黒いビー玉みたいな瞳を覗き込む。
子供みたいに真っ直ぐすぎる瞳。
臆することなく自分を映すから、心の中を見透かされてしまうんじゃないか。
自分から挑発しておきながらも怯む指先が戸惑うように引き攣れて、壱縷は優姫から目を逸らした。
それでもしつこく追い掛けてくる優姫の視線。
情けないけれど、逃げるように壱縷は背を向けた。

『壱縷くん…零がどこに行ったか知ってる?』

『…知らないの?あぁ、零は優姫ちゃんには知られたくなかったのかもね』

振り向いた壱縷は驚いたように目を見開いて、そして呆れたように笑った。
言い方に棘があったかもしれないが、間違ってはいないはず。
壱縷の言葉に、自分にだけ知らされていなかったと知った優姫は表情を曇らせた。
私には、知られたくなかった?
そのフレーズに引っ掛かりながらも、今は壱縷に頼るしかない。

『零がどこに行ったか知りたいんでしょ?』

首を傾げてにこやかに問い掛けると、長めの銀髪がそれに合わせて揺れる。
疑いながらも縦に首を振る優姫に近付いて、耳元に唇を寄せる。
一瞬身構えて身体を硬直させた優姫の肩に手をかけて囁く。

『零はね…自分を殺しに行ったんだよ』

どういう意味?
優姫の揺らめく視線を感じて、壱縷は優姫の耳元でくすりと笑う。
意地悪なんかじゃない。
でも、ものは言いようだ。
あまりにも抽象的だったから、分かりやすく言ってあげよう。

『ねぇ、レベルEの末路って知ってる?徐々に狂って見境なく人を襲うんだって。危ない吸血鬼はハンターが駆除しないと、ね?』

『…それはハンターの役目、でしょ?…“自分を殺しに行く”と何の関係が…』

反論するようにきつい口調で言いかけて、優姫は続きの言葉を失った。
元人間の狂ったレベルEと。
それを粛清するハンター。
純血主の牙にかかった零の未来と。
欲望と理性の狭間で葛藤する現在の零。
己の末路を目の当たりにしながら、粛清を下す。
零はハンター協会の指令を受けたのだ。
レベルEの粛清。
そう、それはまるで自分が殺されるような錯覚。

『…酷い、零にそんな指令…』

口元に添えた指先が絶望でカタカタと震えた。
壱縷は優姫の青ざめた表情を一瞥すると、ソファーのひじ掛けに腰掛けた。

『仕方がないよ、零は吸血鬼である前に優秀なハンターなんだから。指令が下れはどんな吸血鬼でも殺す…例え元人間でもね』

壱縷は薄笑いを浮かべて立ち尽くす優姫を見上げる。
さっきまで真っ直ぐで迷いのなかった瞳は、一瞬で曇ったように光を失っていた。
この女。
純血主の玖蘭枢のことを愛してるくせに、かなりの比重で零にも情をかけている。
同情か、はたまた淡い愛情か?
そんなことは自分にはどちらでも関係ない。
ただ好都合なのは確かだ。
雇い主の狙いは黒主優姫。
自分の狙いは双子の兄。
密接な関係の二人だからこそ、零のことで追い詰めてやれば、たわいのない事。
どんなに精巧に組み立てられた歯車でも狂わせるのは簡単だ。
小さなネジひとつでも緩めば、たちまち歯車は均整を失って崩落するだろう。
壱縷は頬杖をついて、胸の底で蠢いていた残酷な言葉を口にする。

『今回の依頼は、元人間だから…狂った吸血鬼を自分に重ねながら、引き金をひいてるんじゃない?』

零は腕は立つけど、優しいから…ちゃんと仕事出来てるのか心配だな。
そう溜息混じりに壱縷は笑った。
悲しみと憤りで言葉を失った優姫は、くすくすと笑い続ける壱縷を睨みつけた。
分かっている。
いくら凄んだところで、悪いのは壱縷ではないのだ。
協会だって、吸血鬼に怯える人間にしてみたら正義だ。
吸血鬼だって、完全に悪とも言い切れない。
枢や夜間部の生徒のように、格式や礼節に従い、人間を襲わないようにしている吸血鬼もいるのだ。
悪者になる者はいなかった。
ただ、零がハンターでレベルEに落ちる運命の吸血鬼になってしまったから。
ただ、ターゲットが元人間のレベルEだったから。
そして、気付いてしまった。
昨夜、優姫だけ席を外すように促された。
あの時、零は理事長からハンター協会の指令を聞かされたのだろう。
零の様子に異変を感じたのは間違いではなかった。
零から相談はおろか、この事実が伏せられていたたことがショックだった。
同時に、ちゃんと気付いてやれなかった自分にも失望する。
優姫はカーディガンの裾を握り締めて、小さく頭を振った。

『何が言ってくれたら、私…』

『そんなだから、優姫ちゃんには知られたくなかったからだよ』

間髪入れずに壱縷が返した台詞に、優姫はあからさまに眉をしかめた。
知らされなかった事と、秘密にされた事はイコールかもしれない。
でも、その理由は?
大切な女の子を巻き添えにしたくないから?
いくら疎まれた吸血鬼だろうが、ひとつの命を奪い去る残虐な姿など晒したくないから?
そんな生温い答えなど、用意していない。
壱縷は唇の端を綺麗に吊り上げて笑みを作る。

『知ったところで優姫ちゃんに何か出来るの?何の力もない、か弱い人間のくせに。心配して、慰めてあげる?そんな程度で零の背負ったものが癒されると思ってるなら…それは傲慢なんじゃない?』

壱縷はすっと立ち上がると、目を見開いて唇を震わせた優姫を見下して睨み付けた。
図星すぎて言葉も出ない、か。
壱縷は優姫の身長に合わせて屈むと、黒髪を一束指に絡めた。

『ところで、兄さんとは…どこまでやったの?』
壱縷の囁きを理解するまで時間はかからなかった。
胸元から競り上がってくる熱が、首や頬を赤く侵食していく。
優姫は毛先を弄ぶ壱縷の手を力任せに振り払って、数歩後退して距離を保つ。

『何言ってるの?!私が気に入らないからって、そんな…』

『デタラメなんかじゃないよ、零の話はね。ただ、ちょっと虐めてみたかったんだ。兄さんのお気に入りを、ね』

振り払われた手をヒラヒラとさせて、壱縷は食えない顔で笑った。
もう一度怒鳴ってやろうかと優姫が口を開いた時、廊下を慌ただしく駆けてくる音が聞こえて言い淀む。
振り返ると同時にドアが破られるように開いて、理事長が転がり込んできた。

『優姫!こんな所にいたの?壱縷くんも…ちょうど良かった、』

乱れる呼吸に咳き込んで、理事長は長い息を吐いた。
いつも小綺麗に結わえた髪はボサボサに乱れ、コートの中のカーディガンのボタンも中途半端だ。
余程急いで出先から飛び出してきたのだろう。
だらし無く着崩れたその姿に、優姫はただ事ではないと察した。

『理事長…一体どうしたの?』

優姫は荒い息を繰り返す理事長に近付き、そっと背中を撫でた。
ずり下がった眼鏡ごしに、優姫の不安げな瞳が縋るように見上げてくる。
理事長の渇いた唇から出た声はいつもと違って低く、掠れていた。

『っ、…錐生くんが任務中に大怪我を、』

浅い呼吸を繰り返した後、理事長が何が言っている。
でも、耳鳴りが酷くて何も聞こえない。
痺れる指先から感覚が消えて行く。

…零。

そう呼んでみたけれど声にならなくて、優姫の声はどこにも届かなかった。




つづく
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