それは日溜まりみたいな小さな幸せ
濁ったような不透明な闇が足元に縋り付く。
それを振り払うように、優姫は自然と早足になった。
毛足の短い絨毯が敷き詰められた長い長い廊下。
ブーツの足音を飲み込んで、微かな絹擦れの音がやけに大きく聞こえる。
等間隔に置かれた照明は控え目で、影の輪郭さえ朧げだった。
住み慣れた理事長のプライベートスペースとはいえ、不気味に感じるのは深夜の暗がりだからだろうか。
今しがた自分が歩いてきた廊下を振り返る。
背後に長く伸びた影を飲み込もうと、漆黒が迫りくるようで。
背中を駆け上がる悪寒に小さく身震いがおきた。
だが、視線は吸い込まれるように見えない廊下の先へ向けたまま。
『零…』
小さく名前を呼んでみる。
返事などあるわけがないのに、暗闇に耳を澄ましてしまう。
先程ガーディアンの仕事を終え、理事長に簡易的な報告を済ませた。
その折に、錐生くんだけちょっと…、と言葉尻を濁した理事長と。
形の良い眉を少しだけ歪ませて頷いた零と。
キリキリと張り詰めた空気に追いやられるように、優姫はひとり部屋を後にしたのだった。
私だけ、仲間外れ。
分かってる。
私が踏み入れてはいけない領域がある事も。
だけど、そうやって目の前で線を引かれてしまうと尚更掻き立てられる。
虚しい疎外感と、子供じみた好奇心が。
そして、僅かな胸騒ぎが背中を押す。
優姫は淀んで重たくなった影を踏み付けて、元来た廊下を戻り始めた。
『…錐生くん、』
眉根を寄せて目を細めた理事長は、絞り出すように零の名前を呼んだ。
理事長のデスクの前に立ち尽くした零は、拳の力をダラリと抜くと小さく息を吐いた。
『俺に、断る権利はないんですよね』
まるで諦めたような抑揚のない声。
耳にかかっていた銀髪が一束、はらりと落ちて揺れた。
引き結んだ唇がまた何か言葉を紡ごうと開いたが、喉元まで出かけた言葉を噛み締めて飲み込む。
息苦しそうに苦悶する表情に業を煮やした理事長が、パンッと手を打ち鳴らして淀んだ空気を払った。
『とりあえず、この話は今すぐって訳じゃないから!疲れてるだろうから、早く休んで、…ごめんね』
無理矢理張り付けた笑顔を振り撒いて、理事長は手元のコーヒーカップに手を伸ばす。
きっと冷めきっているだろう。
でも、この気まずい雰囲気から逃げたいのだ。
とっくに飲む気の失せたコーヒーに助けを求めるように。
『……少し、考えさせてください。明日答えを出しますから』
ふらふらと定まらない視線のまま零は答えた。
動揺と苦悩が垣間見えて、理事長は唇を噛み締めた。
残酷な決断を押し付けている自覚はある。
それも、拒否権の無い決断だ。
答えは、イエスしか許されない。
年端もいかぬ、我が子同然の零に、それを強いるのは胸が痛む。
部屋を出て行こうと背を向けた零の後ろ姿。
重たすぎる責務に軋むかのように、小さく見えたのは気のせいか。
理事長は中途半端に持ち上げたコーヒーカップに口を着けることなく下ろして、きつく瞼を閉じた。
まるで鉛みたいに重たいドアノブを捻る。
ドアの僅かな隙間から廊下の冷気が流れ込んで、途端に吐く息が白く煙った。
後ろ手で静かに閉めた扉に寄り掛かってついた大きな溜息は、思いのほか視界を霞ませて零は眉をしかめた。
『…零…、だいじょぶ?』
その声にギョッとして廊下の先に視線をやると、優姫の不安げな瞳とかち合う。
優姫の気配に気付かない程考え込んでいたのか。
驚いて見開かれた浅紫の瞳から、優姫は更に沸き上がる胸騒ぎを感じた。
『戻ったんじゃなかったのか?』
ふい、と反らされた視線は真っ暗な窓の外へ。
あぁ、やっぱり。
私には話してくれないみたい。
一層濃くなる眉間の皺がこれ以上踏み込むな、と告げているようで。
それでも気掛かりで、優姫は零の着崩したブレザーの袖に指を引っ掛けた。
どうしたの?
零の様子が気になって。
詮索するような、押し付けがましい言葉しか浮かんで来ない。
『……零、』
結局、口から出てきたのは名前だけ。
それだけでも零は察したのか、優姫の頭の上に手をやるとクシャクシャと撫で回した。
『そんな顔すんなよ。大した話じゃなかったから』
幾分穏やかになった表情を見て、優姫もほっと息をつく。
掻き乱された髪もそのままで、屈託なく笑いかけてくる優姫につられ、零もぎこちなく笑った。
明日は学校が休みだから夜更かししちゃおうよ、と優姫に手を引かれ、リビングへやってきた。
ソファーに凭れ、何気なくテレビのチャンネルを回す。
深夜なだけあって興味を惹くようなチャンネルは無い。
適当に手を止めたのは、外国の古い無声映画。
零はモノクロの画面の中で繰り広げられるストーリーを理解する訳でもなく、ぼんやりと眺めていた。
『あれ、零眠たい?』
暖かい紅茶の入ったマグカップをローテーブルに置いて、隣に座った優姫が笑った。
目が、眠たそうだよ。
そう言って、浅紫にかかった銀糸みたいな髪を指で払う。
『…少しだけ、』
そう掠れた声で呟いて、優姫の指先に額を擦り寄せる。
まるで甘えるみたいに。
伏せられた瞳に銀色の睫毛がかかる。
今にも閉じてしまいそうな瞼を、指の腹でそっと撫でてやる。
零とは、家族みたいに一緒に育った。
出会った頃のあどけない少年のような面影は、もう消えてしまった。
節くれだった長い指とか、広い背中とか。
いつも見上げる横顔は大人びているのに、ふとした時に見せる笑顔は少しだけ幼い頃を思い出させる。
こうして無防備に瞳を閉じている時なんかは特に。
可愛い、なんて言ったら怒るかな?
優姫は頬を緩めて、零の頬を撫でた。
『…肩に寄り掛かる?それとも膝枕にする?』
優姫の笑みを含んだ言葉に、薄く目を開けて睨んでくる零。
拗ねたみたいに唇を突き出して。
その表情がまた可愛いらしくて。
もう少しからかいたい気持ちを抑える。
『ほら、怒らないでよ。冗談…』
『肩じゃ低すぎ。頭、かせ』
手の平に収まっていた零の頬がするりと滑ってきて、優姫の頭に凭れかかる。
そっと優姫に体重を預けると、ソファーが小さく軋んだ。
触れ合った身体が暖かい。ぴったりと寄り添えば、体温を分け合う以上に。
テレビの中では、綺麗に着飾った娘が馬車に乗ってどこかに行くようだ。
陽気な音楽だけがリビングに響いている。
細かい字幕を目で負うのに疲れて、ちらつく画像だけ眺めている。
『眠くなっちゃったね…』
『…あぁ』
『今日も疲れたね…』
『…うん』
『あったかいね…』
『………』
こうしてると。
まるで日溜まりにいるみたいに、暖かくて落ち着く。
そう言っても、零からの相槌は返ってこなかった。
きっと眠ってしまったのだろう。
返事の代わりに、規則正しい呼吸が頭の上で繰り返されている。
凭れた零を起こさないように。
優姫はそっと体制をずらして、零の肩に頬を寄せる。
もう少し、この温もりを共有したくて。
本当は零の抱えた重荷を、少しだけでも共有したかった。
理事長との話を終えた零の様子。
普通ではなかったから。
でも何か話してくれるかも、という淡い期待は消えてしまった。
それでも、こうして隣にいる事を許してくれるなら、私の存在も零にとって何かしらの支えになるだろうか。
寄り添う零の腕に自分の腕を緩く絡めると、優姫は深く息をついた。
『抱え込まないでよ……独りじゃないんだから、』
眠りの世界に逃げ込んだ零を追いかけるように、優姫もゆっくり瞼を閉じた。
つづく
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