情熱を灯す
「何か訊きたいこと、分からないことはある?」

クレアにそう問われて、ジョットは頭を悩ませた。直感を信じるのならば、彼女は嘘を吐いている。何とわからないが、彼女の話には虚偽があるように思えるのだ。ただ、全てが嘘なのか、部分的に虚構が混じっているのかわからない。やっと再会できた妹を、恥知らずの大嘘吐きと思いたくはない。
きっと、どうしても話せなくて、嘘を混ぜたのだ。孤児が歩く道の険しさを思えば、多少は目を瞑るべきだろう。帰って来れたこと自体が、まず奇跡と言っていいくらいなのだから。
ジョットは向かいに座るロヴェッロの顔色を窺った。話が始まってから、彼は黙りこくっている。それに、白ワインはともかく、大好きなはずのサラミを一切れも食べていない。

「ロヴェッロ。お前は?」
「……そうだな」

促されてようやく、ロヴェッロは口を開いた。その目は、食卓に並ぶ空っぽの皿を見ている。饗せられた食べ物は、ワインを除く全てがこの街で売っているものだ。だからこそ、使われた食材が一級品だと分かる。おそらく、この一食だけで月の稼ぎの四分の一ほどが失われる。それなのに、足りないと言うと、クレアは惜しみなく食べ物を運んできた。
まるで、この程度の出費で痛むような懐でないと言わんばかりに。

「随分と裕福になったようだな」
「それなりにね。十年間も貴族を演じた女優には、少し安いくらいだけど」
「女優、か」

疑わしげな視線を寄越す兄を、クレアは真正面から見返した。貞操を疑われることだけは我慢がならないと、はっきりと態度で示すためだ。他の何を疑われようと少しも悲しくないが、それだけは許せない。未婚の女性にとって、それは一番大切なものだ。
金に困った女がやむを得ず街角に立つ光景は、都会ではさほど珍しくない。しかし、どれほどに困ろうとも、クレアは絶対にそんなことはしない。体は違えども、心はジョットの妻のままだからだ。たとえ今生で結ばれることはなくとも、一度立てた操を折るくらいなら死んだほうがマシだ。それくらい、クレアにとって、ジョットの妻であることは大切なことなのだ。
しばらく睨みあった末、ロヴェッロが先に折れた。本心はどうかしらないが、妹がふしだらな女であってはならぬと思うことにしたのだろう。

「何でもない。少しは生活が楽になると期待してもいいんだな?」
「もちろんよ。それに、家事だってできるわよ」
「まあ、飯は旨かったな。酒も旨い」

ロヴェッロはそう言って、白ワインとサラミに手を伸ばした。燻製されたものらしく、チップの香りが旨味と一緒に広がる。このあたりでは、サラミを燻製にはしない。きっと、北の方のものだろう。値段を聞いたら腰を抜かすような高級品に違いない。クレアがどれほど伯爵から金をもらったか知らないが、金銭感覚は早めに庶民レベルにした方がいい。いつ何が起きるかわからない国なのだから、節約するに越したことはない。

「これも旨い。毎日食べたいくらいだな」
「良かった。きっと気に入ると思って、用意しておいたの。明日の朝も、食べて行く?」
「いや。たまにでいい、あまり贅沢すると癖になる」
「そうかしら。たくさん食べないと、背が伸びないわよ」

ロヴェッロの言わんとすることを理解しながら、クレアは今一つ理解していない素振りでそう答えた。ナックルいわく、筋肉を付けるには肉をたくさん食べることが大事らしい。ここに来た目的がジョットを鍛えることである以上、何と言われても食卓から肉類を減らすことはできない。そらとぼけた返事に、ロヴェッロは顔を顰めた。しかし、お小言は何とも間抜けな欠伸に先んじられて、音になることはなかった。

「話はそれだけなら、もう寝ても良いか?眠くて眠くて……」
「一日ずっと働きづめで疲れたでしょう。でも、寝る前に体を拭いた方がいいわ。お部屋で待っていて、お湯を沸かして持っていくから」

食器を片づけ、クレアは火を落とさずにおいた竈に薪を放り込んだ。井戸から汲んでおいた水を鍋に注ぎ、兄達のためのお湯を沸かす。庶民は湯を張った大きな盥に座り、石鹸とタオルで体を拭いて汚れを落とす。頻度は個々の経済事情に因るが、二日か三日に一回できればいいところだろう。つまり、いま入浴したら、次は最低でも二日は先になる。
貴族の入浴習慣に慣れた身としては、それなりに辛いものがある。しかし、多くの贅沢を諦めなければならないことは、ここに来る前から分かっていた。兄達の傍に居られるのだから、これくらいは我慢するべきだろう。皿を洗い終えて、クレアはぐらぐらと煮え立った鍋を抱えて階上に向かった。



エリチェの街にとびっきりの別嬪が来たことは、その日のうちに知れ渡った。シチリアでは、容姿の美しさというのは何にも勝る美点とされるからだ。どれほど頭が悪くとも、気の利かなくとも、美しいというだけで全てが許される。そして、村や町、島で一番の女を娶るということを、男達は強く望む。たとえ数年先には寝取られ男となろうとも、一番の女をものにするということにロマンを見出すのだ。
それは女の方も同じで、逞しくて格好のいい男に言い寄られたいと思っている。男が自分を争って殺し合いなど始めたら、それはもう舞い上がるほど喜ばしいことだ。ただし、ただ明るい灯に寄ってくる蛾のような男達と違って、女は少しだけシビアだ。言い寄られることに喜びを覚えるといっても、格の低い男には靡かない。

畑をちゃんと耕しているか、家に金があるか、散財する癖がないか。両親がいるか、親戚とちゃんと仲良くしているか。憲兵に捕まるのは全く構わないが、どこぞの家と険悪な仲になっていないか。そういった条件も込みで、女は好い男を選ぶ。ただし、好きになったら他のことはどうでもよくなるので、女もそれほど真剣に考えているとは言い難い。
要するに、女を争って戦うことも、男が自分を取り合って争うことも、シチリアではとても名誉なことなのである。そして、舞台に立つ男女が見目麗しければ麗しいほど、その戦いは観客にとって楽しいものとなる。

エリチェの街に住まう者はみな、次の見世物が始まるのを待つことにした。若い者は火の粉が飛ぶことを恐れながら、年嵩の者は賭けなから高みの見物を決め込んでいる。
人目もはばからず抱擁する兄と、街で幅を利かす独身のならず者。どちらに軍配が上がるとしても、しばらく楽しめそうなのは間違いない。


同じ頃、トラパニの塩田を支配する男は思った。シチリア島南西で、自分は最も名誉ある男だ。故に、最も美しい女を得る権利も自らが持っていると。ざんばらの黒い髪に、一睨みで全てを屈服させ得る三白眼。顔立ちは特別整っているわけではないが、決して醜い方ではない。軍隊で鍛えた体は引き締まり、腕力や脚力、戦闘技術において右に出る者はいない。
なによりも、自分は農場管理人だ。果たして、この世にこれ以上に良い仕事が在るだろうか。一年に一度、貴族にある程度の金を渡すだけで、農民どもから好きなだけ金を絞り取る権利を得られるのだから。

名誉があり、腕っ節がよく、見目もよく、財もある。それが、アンナローロという男の全てだ。あとは、良い女を横に据えれば、シチリア一番の男が出来上がる。彼の頭の中では既に、自分の隣に居る女は決まっていた。もちろん、フィレンツェから来たという美人である。最近まで言い寄っていた女のことなど、眼中から消えていた。
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