喪いたくない
馬車から引き摺り下ろされて、クレアは朝日に目を細めた。こんなに悲しく、寂しい朝を見るのは初めてだ。まるで明けぬ夜に取り残されたまま、朝を迎えたような心地だ。本当は顔を覆って泣いてしまいたいくらいなのに、朝が来てしまっては泣くに泣けない。同じ境遇の少女達は、馬車を降りてすぐの所で一塊りになっている。クレアは彼女達を一瞥し、チェッカーフェイスの方へと踏み出した。

「やあ、『箱』の娘。首尾は上々だ、実に気分がいい」
「そう。内緒の話があるの、ちょっと屈んでくれないかしら」

頼むと、彼は思いのほか素直に屈んでくれる。しかし、間近になったその顔に、クレアは躊躇いなく平手打ちを喰らわせた。青空にぴしゃりと響いた音に、女の子たちの声なき悲鳴が追従する。

「気分がいいですって、よく言えたものね!」
「内緒の話ではなかったのか?」

彼は何でもない事のように、撃たれた頬を親指で撫でながら訊ねた。全く動じないその態度に、クレアは目を眇めた。

「黙りなさい。貴方、何をしたか判っているの?」
「少なかれ、君に咎められるようなことはしていないが」

カッと頭に血が上り、クレアはまた手を振り上げた。しかし、今度は手首を掴まれて止められる。

「沢山の人が悲しんだわ!大事な娘を攫われて、畑も家も無くして。村人みんなの人生が狂ったのよ」
「それが何だと?瑣末なことだ、使命に比べれば」

彼の手を振り払おうともがきながら、クレアは必死に訴えた。ジョットの未来に、この男の冷酷な思想が及ぶのだけは避けねばならなかった。

「いいえ、とても大切なことよ。弱者を軽視する貴方の思想は、いずれ全てを滅ぼすわ」
「トゥリニセッテがある限り、この星は滅ばない」
「いいえ!恩恵を甘受するものがなければ、システム自体が無用の長物になるわ」

チェッカーフェイスはクレアの手首を掴む手に力を込めた。ほんの少し力を入れただけなのに、骨が軋むほどの痛みが走った。

「トゥリニセッテを否定する発言は慎みたまえ」
「……っ、私が否定しているのは、貴方の考えよ」

耐えがたい激痛に歯を食いしばりながら、どうにか声を絞り出す。すると、彼は途端に興味を無くしたように手を放した。

「私の考えを糺すつもりかね」
「そんな無駄なことはしないわ。今後一切、何もしないと誓うのならばね」
「断ると言ったら?」
「嫌でも誓ってもらうわ。トゥリニセッテはもう、貴方達の手にはないのだから」

使命を譲った事に対する不満から、彼は唇を真一文字に結んだ。しかし、事実である以上、その場凌ぎでも否定するわけにもいかない。

「此処から先は全て、私が段取りするわ。貴方は手出ししないで」
「私に静観していろと?君が務めを果たすかもわからないのに?」
「私は逃げないわ。失敗だって、もうしない」

人を人と思わぬこの男に、ジョットを委ねるわけにはいかない。ただでさえ辛い運命が、この男の気まぐれな裁量で余計に惨くなるのだから。自分で全てを取り仕切れば、少しでも優しく事を運べるだろう。たとえ、それが愛する人に過酷な試練を課すものであっても。優しい彼の心を守るためには、そうするしかないのだ。セピラやこの男から逃げるすべは、おそらくないのだろうから。

「私は必ず、彼に指輪を継承させるわ。だから、これ以上、その冷たい手であの人に触らないで」

懇願というには剣呑な、宣言というにも苛烈な要望。そこに悲痛な響きが含まれるのは、彼女自身がそれを望まないからだろう。

「よかろう。君がきちんと務めを果たせば、私は一切、手出ししないと約束しよう」

チェッカーフェイスはクレアの背後を指差し、うっそりと笑った。

「しかし、この計画を仕切るのは私だ。そして私は、安全な履行を考えている」

意味するところを理解し、幼い少女の体がぶるぶると震える。彼女達の命乞いをしたいのだろう、その口が言葉を求めて動く。

「彼女達は、……何も知らないわ」
「しかし、私達の遣り取りを具に聞いている。君が無遠慮に私の頬を叩いた所もね」

ひくりと喉が引きつり、クレアは言葉を探した。しかし、反駁を許さぬというように、チェッカーフェイスの指が唇に触れる。

「また誤ったな、『箱』の娘。彼女達は死なねばならなくなった、君の父と同じ理由で」
「違う。違うわ、私、私はただ」
「理解しなさい。浅慮は人を殺すと――でなければ、本当に大切なものを亡くすぞ」

男の無遠慮な脅しが、ナイフのように心に突き刺さる。脳裏にジョットの死が蘇る。父の死。クレアの素性を知る村の娘達。この取引を見た人間は始末しなければならない。どこで情報が漏洩し、計画が綻ぶかわからないのだから。
クレアは目を伏せ、唇を噛んだ。じわりと滲んだ血の味に、目から零れ落ちた塩気が加わった。その顔を了承とみなし、チェッカーフェイスは体を起こした。

「ご苦労だった、諸君。君達の働きには実に感謝している」

ねぎらいの言葉に褒美を期待し、賊達の顔が明るくなる。しかし、次の瞬間、彼らは実にあっけなく死んだ。チェッカーフェイスが無造作に振るった、指輪の力を受けて。木製の馬車と、その前に固まっていた少女達と共に。放射状に広がる、鋭く尖った緑の炎に体中を串刺しにされて。チェッカーフェイスとクレアだけを残して、血の海に沈んだ。

「さあ、計画を始めよう。今日から君は、ペポリ伯爵家の令嬢だ」

上機嫌にそう宣言した彼の手を、クレアは冷たく払いのけた。そして、俯き、彼に聞こえるように悪態をついた。
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