『姫』の心
「無駄な話をしたせいで、お腹が空いたわ」

言って、クレアは手を開き、そこに炎を灯した。夜の炎に似た、しかし全く性質の異なる真っ黒な炎がゆらりと立ち上る。創始の折に、クレアの魂はチェッカーフェイスの手によって歪められ、変質している。魂そのものを、ボンゴレリングを納める『箱』にさせられたのだ。
その結果、クレアは死ぬ気の炎を失い、代わりに『箱』の炎を得た。それはリングを守るための力であり、攻撃力を一切もたない。その代わり、箱というものの性質からか、鉄壁の防御力を備えていた。その堅牢さたるや、死ぬ気の炎であっても打ち砕くのは困難なほどだ。

さらに、中に入れたものをその時の状態のままにしておくこともできる。『箱』の中に若い人間を入れると、百年経ってもその人は若いままなのだ。クレアは己の魂を一欠片ほど切り分けて使い、リングの『箱』以外にも複数の『箱』を作った。手のひらに出した炎は、昔に作って物を詰め、魂に戻しておいた『箱』の一つだ。

手のひらの炎は次第に箱状になり、質量を伴った一つの『箱』に変わる。円筒状の黒いそれを開くと、中には初代の頃に入れておいたクッキーがある。かつて焼き立てで入れたため、『箱』から取り出すとまだほんのりと温かい。バターの馥郁とした香りは、地下牢のジメジメした環境さえ忘れさせてくれる。
数枚食べて『箱』を炎へと戻し、クレアはベッドの上の本を手にとった。それは百年以上前からの愛読書で、最初のページには写真を入れている。ボンゴレがまだ名もない自警団だった頃、兄妹だけで撮った写真だ。質素な身形のプリーモとセコーンドが、椅子に座ったクレアの後ろに立っている。

「愛すべき兄妹は、プリーモとセコーンドだけ」

クレアにとって、その二人はただの兄妹ではない。神のごとく愛すべき存在であり、運命を共にした仲間、人生の指針、そして生きる意味なのだ。平穏な人生。人並みの幸せ。生きられたはずの時間。断ち切った命。神の寵愛。与えられるはずのまっさらな来世。
それら全てを失うと分かっていても、愛さずにはいられなかったのだ。一線こそ越えねども、二人への愛情は到底、兄妹愛の範疇に収まるものではない。

「お兄様」

長兄の姿を指でなぞり、クレアはぽつりと呼びかけた。金色の髪に琥珀の瞳、誰よりも温かくて優しい心を持っていた兄。彼はイタリアの人々と、彼らを育む大地の全てを守りたいと願った。そのために力を行使する彼を、クレアは誰よりも愛していた。兄として、そして許されないながらも、一人の異性として。
クレアの胸には今も、彼の願いが息衝いている。繰り返す転生、その人生の大半を地下牢で過ごすことになろうとも。それを阻む者が、同じ写真に写る兄弟であっても。彼の願いを叶えるために、クレアは生きているのだ。

「兄様」

次兄の姿に視線を移し、クレアはくしゃりと顔を歪めた。黒い髪に赤い瞳、苛烈な言動から愛されにくい、けれど不器用な優しさを備えた兄。彼は世界を織り成す全てを憎み、世界有数の反社会勢力を作り上げた。その心の裏側に、とても優しい願いを秘めていたのに。当の本人さえ、ついぞそれを知ることはなかった。
本ごと写真を抱き締め、クレアは地下牢の天井を見上げた。苔生した石畳の、硬質で冷ややかな天井は、クレアに一つのささやかな願いを呼び起こした。

「……空を見たいわ」

フィレンツェの空のように、詩的で美しく、想像を掻き立てる空でもいい。ヴェネチアの空のように、絵画的で整合性を帯びた空でもいい。最愛の二人を思わせる、海原のごとく広がる青空を見たい。そこにはきっと、傷ついた心を抱え、朝日を待つ霧があり。力強く輝く太陽が、少し無作法ながらに遍く全てに希望の朝を教えるだろう。
人々がその輝きに参ったときは、素っ気無いけれど優しい雲が来る。そして、気紛れに嵐を呼び、全てを洗い流す雨を招くだろう。もしもその安息を脅かすものが居れば、雷の鉄槌が許されざる敵へと下る。

「あの日々に戻れたら、……」

言い差して、それが到底叶わぬ夢と悟る。クレアはため息をつき、地下牢生活で何百回と読んだ愛読書を開いた。


それから二十数年後、七代目が亡くなり、ダニエラが八代目になって久しい頃。ダニエラは一つの可能性を求め、件の地下牢へと足を向けた。螺旋階段は相変わらず埃っぽく、陰鬱な雰囲気に包まれている。しかし、地下牢の住人は既に、ダニエラの姉ではなくなっている。姉だった『姫』は死に、廻り廻って転生したのだ――ダニエラの、実の娘に。

実の娘になった『姫』に、会ったことは一度もない。乳飲み子だった彼女を、二代目の掟に従って牢に入れたからだ。苔生した臭いと冷気、カンカンと響く自分の足音。意気揚々と敵地へ向かう気分だったのに、だんだんと気が滅入ってくる。嫌な思い出ばかりが思い浮かび、階段を駆け上がって逃げたくなる。それでも階段を下り切って、八代目は簡素な扉の前で立ち止まった。

「……懐かしいわね」

今はもう泣いて帰るほど幼くはない。しかし、彼女と相対するのに多分に勇気が要るところは変わりない。八代目は深呼吸をして、力任せにドアを押し開いた。ボロボロの扉は扱いに不満を訴えながら、貴人の部屋へ道を開く。冷たく世界を隔てる、堅牢なる鉄格子の向こう。前世よりずっと幼い、けれど瓜二つな人形が、かつてと同じ姿勢で椅子に座っている。
大きな琥珀を嵌めた目が、八代目を見て笑う。話を希う愚かな妹を見たときと全く同じ色を、その瞳に浮かべて。

「懲りない人ね、あなた。またお話を聞きに来たの」

呆れたと言わんばかり、ため息混じりに彼女はそう言った。八代目がまだ幼い頃とまったく同じ調子――獲物を嬲らんとする蛇の、舌なめずりのような声音で。
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