『慣れ』

「謙信様、今お行きになっても大丈夫だそうです」
「ごくろうです、わたくしのうつくしきつるぎ」

ほどなく戻ってきたかすがに、謙信は微笑みを浮かべた。

本当は、目が覚めたと聞いてすぐに会いに行こうと思った。

だが、相手はいかんせん『甲斐の姫』だ。
無礼に無礼を重ねるわけにもいかず、謙信は事前に知らせを走らせた。

「わたくしひとりでいきます。つるぎ」

「謙信様、それは……此処は、今戦はなくとも長く争って来た土地。お一人にするなど……」

「だいじょうぶです、しんげんこうは、そのようなひとではありません」

きっぱりと断言する謙信に、かすがは逡巡した。

戦場では命を狙いあう者同士でありながら、常の時は信玄と謙信は驚くほどの信頼関係を見せる。

普段なら断固反対するのだが、今回ばかりはできそうもない。
諦め、かすがは謙信に首を垂れた。

「……はい、謙信様」





「瑜葵、はいってもよいですか」
「はい、どうぞ」

謙信は瑜葵の部屋の前で声をかけた。
すぐに、襖のむこうから静かな声音が返ってくる。

まだ会ったばかりだが、謙信はこの騒がしい環境にあって瑜葵が声を荒らげる姿を見たことはない。

花見の折も、殆ど宴会になっていた会場で、一人静かに花を愛でていた。

その静かさは、大人しくあれと育てられ、礼儀や作法、型に嵌められてがちがちになった他の姫たちとは全く違う。

元来の気質が大人しいのだろう、静かにあることが瑜葵の自然な佇まいなのだと思えた。

「しんげんこうも、よきひめをみつけたものです」

そう独り言ちて、謙信は襖を開いた。
そして、瑜葵を見た瞬間、謙信は襖を閉じたい衝動に駆られた。

瑜葵は、白い単衣物一枚に細帯を締め、肩に小袖を掛けた状態で、上半身だけ身を起こしていた。

髪も下ろしており、今の瑜葵は、誰がどう見ても寝間着姿だ。

恋仲でも夫でもない男が、生娘のそんな姿を見ていいはずがない。

「瑜葵、そのかっこうは」
「まだ、皆寝ていなさいとばかり言うので……見苦しいですが、許して下さい」
「いえ、みぐるしいのではなく……なんというか」

瑜葵が、きょとんと首を傾げる。なんと説明していいかわからず、謙信は言葉に詰まった。

小田原より難攻不落すぎる。
しばし悩んだ後、謙信は室内に入り襖を締めた。

こんな事なら、かすがを連れてくるのだったと後悔しながら。


「はなみのせきでは、ずいぶんなむりをさせてしまいましたね。からだはどうですか」

「いいえ、私が悪いのです。体も、とくに変わった処はありません」
「ふつかよいなども?」

「はい、健康です。心配をおかけして、すみません……もう大丈夫ですよ」


僅かに、瑜葵が微笑む。
謙信は、まだ、彼女の笑み崩れる姿を見ていない。

彼女は、表情の変化が他に比べて些細だ。それが、巫女であったという過去のせいかはわからない。

だが、どこか、納得がいなかいような、どこか、許せない様に感じるのだ。
彼女の神を見てから、ずっと。

「上杉様は、お館様とは友達なのですか?」
「まぁ、そのようなものです。ときに、瑜葵。わたくしのことも、なまえでよんでくださいませんか」
「謙信様、とですか?」


瑜葵の声が自分の名前を呼ぶ。そのことに、謙信は心の温かくなったように感じた。

瑜葵の手をそっと握り、謙信は微笑んだ。

「ええ、そうです。これからは、そうよんでください」
「はい、謙信様」
「いつか、瑜葵をえちごにまねきます。かすがやまのさくらを、ともにみましょう」

かすがやまのさくらは、たいそううつくしいのですよ。

そう言い添えると、瑜葵は初めて、蕾の咲きこぼれる様に、微笑を浮かべた。


「はい。一緒に、お花見をしましょう」

微かな――謙信にとって微かな――力で、手を握り返される。
謙信はその非力さがいとおしく、微笑を浮かべた。



手を繋いだまま、それからいくばくか会話をした頃、謙信は不穏な空気を感じた。

ふと背後を見た瞬間、庭先に立つ信玄と目が合った。

にっこりと、信玄が笑う。
謙信も、にっこりと微笑んだ。

次の瞬間、二人は武器を抜いて、庭に飛び降りた。

「瑜葵はやらぬぞ謙信!」
「さあ、なんのことでしょう」
「うぬ、しらばっくれる気か?儂を甘く見るでないぞぉ!」

大きな斧と剣が、鍔ぜり合い、弾き合う。

突然始まった戦いに、瑜葵は取り残される。
どうにか止めたいが、二人は聴き入れそうもない。

どうしたものかと思案し、ふと横を見るとかすがが傍らに座っていた。
いつの間に。

「かすがさん、止めなくていいのですか……?」
「謙信様があのように喜ばれていらっしゃっるのに、止める必要などないだろう?」

「喜ばれていらっしゃるのですか?」
「謙信様は、信玄公との仕合いを望んでやまない方だ。その逆もまた、然り。それより、茶でも飲むか?」

「あ、はい」

勝手知ったる武田の城、かすがは手慣れた手つきでお茶を淹れた。
越後と甲斐はなんだかんだ言って、川中島以外では仲がいいのでこういったものも慣れっこだ。

「熱いから、気をつけて飲め」
「はい。……美味しいです」
「茶菓子に団子を貰って来たが、食うか?」
「はい!」

瑜葵はどこからともなく取り出された団子を受け取った。
幸村の本日のおやつは、こうして消えた。

「まだまだぁ!」
「相変わらず頑丈な……負けませんよ!」


「いい天気だな、瑜葵」
「……はい、いい天気です」

目の前の仕合い、帰ってこない佐助と幸村。
あんまり平穏ではない要素が満載だが、瑜葵もかすがも、『慣れ』つつあった。


慣れとは恐ろしいものである。
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