記憶の欠け端

広い屋敷だ。川の中洲に立てられていて、四方を水が囲っている。

ひたひたと水の静寂が屋敷に満ちていて、神域となっている。
瑜葵には、見慣れぬ屋敷だ。

瑜葵はその廊下を進み、大きな紅の扉に行き当った。
その扉に触れ、そっと押し開こうとした瞬間。

「止せ」

すぐ背後から声がかけられて、瑜葵は手を止めた。

「今のお前が知る必要はない。いや、知ってはならぬ」

その声の主の名を、瑜葵は知っている。
知っているのに思い出せず、瑜葵は振り向かず手を下した。

「何故ですか。……この向こうは」
「今のお前は行ってはならぬ。絶対に、行ってはならぬ場所だ」
「何故です、何故なのですか、神……天常立之神……」

声の主の名前が思い出される。
天常立之神、ならば、そうだ、この場所は、御霊神社、―――三珠神社、ではない。

それらがわかったと同時に、瑜葵はこの場所がおかしいことに気付いた。

静かな建物のなかに、ひたひたと、水の静寂が満ちている。
だが、それは、本当に?

肌の下を走り抜ける様な嫌悪感が、じわじわと胸にこみ上げる。
けれど、ここは神域だ。
そんなものを感じるような要素が、ここにあるはずがない。

何かが、清浄でない何かが、この神域にいる――……!


「それ以上知ってはならぬ!」


切り裂く様な鋭い声が、響く。同時に、その景色ががらがらと瓦解していく。

崩れていく屋敷の向こうから、怒涛のように水が流れ込んでくる。

瑜葵の立つ場所に、水が満ちる。
一瞬で水に飲み込まれ、瑜葵は遠い水面に手を伸ばした。

溺れる、と思った瞬間、全てが暗闇に飲み込まれた。



「………っ!」

目を開けた瞬間、見慣れた天井が映った。水はない。
全力で走った後のように息が上がっていて、冷汗が頬を伝って落ちる。

助けを求めて伸ばした手が視界に映り、やがてぼやける。

「……っ」

涙が溢れて、瑜葵は顔を歪めた。
手を引っ込め、次から次から溢れるな涙をぬぐう。

「あ、瑜葵ちゃん、起き……瑜葵ちゃん!?」
「ぅ、さ、すけ……さ、」

瑜葵は聞こえた声に襖の方を見たが、滲んだ視界では何も見えない。

だが、廊下と反対の方から手が伸びてきて、そっと抱き起される。
目元に布が押し当てられ、視界がほんの少しだけはっきりとする。

狼狽する佐助が見えて、瑜葵はますます激しく泣きじゃくった。

「どうかした?どこか痛いとか、辛いとかあるのか?」
「ちが、う、こわ……い」
「怖い?」
「も、少しで、おぼれ、……しま、っ、」

瑜葵の言葉に佐助は目を白黒させた。
だが、すぐに怖い夢を見て、泣いているのだろうと思い当たった。

「怖い夢を見たの?」
「は、い。みず、こわくて、かみが、だめって、……」

こくこくと頷く瑜葵に、佐助はふっと緊張していた表情を緩めた。
そして、なだめるように髪をそっと撫でてやる。

「もう大丈夫、夢は終わったよ。ほら、早く泣き止んで、大将や旦那に顔見せに行きなよ。花見の席で倒れるから、皆びっくりしたよ?」

佐助の言葉に違和感を覚えて、瑜葵は首を傾げた。

「私、倒れたのですか……?」
「あれ?記憶にないの?」

「はい……謙信様と、桜を見ていたまでは、記憶にあるのですが………そこから先は」

一気飲みのせいだ。酒のせいで記憶が飛ぶのは珍しくない。
ついでに言えば命がふっ飛ぶのも珍しくはない。

瑜葵の言葉でそのことに思い当たり、佐助は目を眇めた。
とりあえず、説教確定。

「瑜葵ちゃん、ちょっとそこに座りなさい」
「……?……」


何となく逆らいがたい雰囲気の佐助に、瑜葵は大人しく布団の上に正座した。
次の瞬間、佐助の目がかっと見開かれた。





信玄が執務をしていると、佐助に連れられて瑜葵がやってきた。
もちろん信玄は筆をおいて、部屋に招き入れた。

入って来た瑜葵は目を赤くし、まだ若干しゃくりあげている。

佐助は、いつも通りの飄々とした顔だ。少しだけ笑顔が引きつっているようにも見えるが。

「おお、起きたか。二日酔いなどはないか?」
「はい……だい、丈夫、です」

「……。なぜ瑜葵は泣いておるのかのぅ、佐助?」

「一気飲みの説教したんですよ。またされたら、本当こっちがたまったもんじゃないからね」

「何も泣かさずともよかろう。瑜葵、こちらにこい」


信玄が手招きすると、瑜葵は頷いて信玄の側に行った。
佐助が、また甘やかして!と怒った顔をするが、信玄は素知らぬ顔だ。


「瑜葵よ。佐助は怖かったろうが、お主を思ってのことだ」
「う、……」
「佐助だけではない、儂も幸村も、お主が酔い潰れたと聞いて、肝が冷えた」

信玄の言葉は重く、その表情も真剣そのもので。
顔を歪め、瑜葵はこくりと頷いた。

「ごめん、なさい………」
「うむ。もうするでないぞ」
「はい……」

宥めるように頭を撫でられ、また涙が滲む。
またぼろぼろと泣き出した瑜葵に、信玄と佐助は苦笑した。

prev Index next
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -