きれいな金色
同時刻、訓練場に入った訓練兵達は、トリナの姿がないことに気付いた。いつもならば、トリナは見張りの兵と共にこの訓練場で皆が来るのを待っている。そして、エレンとミカサを見つけて、二人へ走り寄るのだ。もはや当たり前になりつつあったその光景が、今はない。

「教官。トリナがいません」

違和感を覚えたミカサが、怖じる事無く教官に質問する。すると、教官は不機嫌そうに顔をしかめて答えた。

「トリナ兵卒は現役の兵士だ。一週間後の壁外調査に向けて、全体訓練に参加している」

ごく当たり前の事と言わんばかりに、教官はそう告げた。そして、今日の予定を書いた紙に視線を落とす。

「生きて帰ってこれんのか?あいつ」
「おい、それどういう意味だよ」

半ば見下したような顔で、ジャンが笑いながら言う。それをエレンが聞き咎めて突っ掛かった。すると、他の兵士も不安を覚えて、ざわつき始める。その落ち着かなさに怒りを覚え、教官は声を張り上げた。

「貴様らに私語を許可した覚えは無い。それとも、壁外に出たい奴がいるのか?名乗れ、巨人を釣る餌として使ってやる!」

途端に、訓練兵達がぴたりと口を噤む。静かになった訓練場を見渡し、教官は苛立たしげに訓練内容を話し始めた。その声を聞き流しながら、ミカサはいつものトリナの姿を思い浮かべて目を伏せた。
ミカサにとって一番大切なのはエレンだ。アルミンも同じくらい大事な人だ。トリナは、二週間ほど関わっただけの、ただの他人だ。同じ東洋人であるというだけで、取り立てて思い入れは無い。けれど、その希少な共通点の分、ほんの少しだけ、亡くしたくないと思う。寂しいと思うのも、本当に少しだけなのだ。きっと。



トリナの様子を見た後、エルド達は最終確認を行うためにその場を離れた。それに気づいたペトラは、彼らと入れ替わりに、トリナに歩み寄った。突然の攻撃にも対応できるように距離をおいて、正面ではなく隣に立つ。

「こんにちは」

ペトラはなるべく親しみを込めて声をかけた。しかし、トリナは微動だにせず、視線すら寄越さない。

「私はペトラ・ラル。貴女と一緒に戦う仲間よ」

めげずに声を掛け続けると、ようやくトリナがゆっくりと動き、ペトラの方を見る。しかし、その目に感情はない。ガラス玉のように風景を映しているだけだ。

「壁外遠征、大変だけど一緒に頑張ろうね。トリナさん」

ここぞとばかりに笑みを浮かべて話しかけるも、反応らしい反応はない。別に、わかった、一緒に頑張ろうねと笑ってほしかったわけではない。ないが、もう少し何かあってもいいのではないだろうか。これでは壁と会話しているようなものだ。急に馬鹿馬鹿しくなり、ペトラは配置に付こうと踵を返した。

「……ぺと、ら」

背後から、呼ばれる。その声は、共に特別訓練に参加したトリナ隊の誰のものとも違った。慌てて振り返ると、依然として無表情のトリナが座ったままで居た。ただし、先程と違って焦点がペトラに合っている。

「ぺとら」
「……そう、ね。私はペトラ・ラル」
「ぺとら」

トリナが無造作に手を伸ばす。害意はなく、子供が母親に手を伸ばす時のように無防備な動きだ。招かれるように、ペトラはトリナに近付いた。間においた距離も忘れて、すぐ近くに座る。
すると、トリナの目が一瞬だけ嬉しそうに輝いた気がした。――本当にそんな気がしただけで、相変わらずの無表情だけれど。

「きれい」
「え?」

壊れ物を扱うような手つきで、トリナはペトラの髪に触れた。『きれい』だ。きらきらと輝いて、『きれい』。『きれい』が何かは知らない。ただ、見たときにその言葉が頭の中に浮かんだだけだ。

「き、きれい……?髪のこと?」

ペトラは自分の髪を一房摘んでみて、首を傾げた。感触のよくない、痛んでいて艶のない髪で、そう褒められたものではない。調査兵団は貧乏で、夏でも冬でも水風呂、髪も身体も同じ石鹸で洗う。頭髪用の香油などは暇な金持ちにのみ許された贅沢品だ。当然、使っている兵士は居ない。
その上、兵士は総じて身嗜みに気を遣う余裕がない。そんな余裕があったら、生き残るために力をつけようと訓練に勤しむ。年頃の女性兵士でも、髪に櫛を入れるくらいで化粧すらしない。壁内に居る間は清潔さだけは保っているが、壁外に出ればそれも無くなる。
トリナは『きれい』と言うが、ぺトラの髪は清潔だがお世辞にもきれいと言えたものではない。

「金髪だから?でも、珍しくないし……」

壁内の人間は総じて色素が薄く、金髪や銀髪の方が多い。暖色系や暗色系の人も居るには居るが、数は少ない。トリナのような真っ黒な髪の方が、町中では珍しい。

「トリナさんの髪の方が、綺麗だよ。珍しいし」
「……」

褒められたので同じように褒め返すが、反応はない。無言で、ペトラの髪を指先で弄っている。

「気に入ったの?」

問い掛けてみるも、トリナからの返事はない。単に『気に入ったの?』という言葉がわからなかっただけだ。もし『これ、好き?』と訊ねれば、『すき』と返ってきただろう。
しかし、ペトラはハンジと違って対トリナ会話術を習得しているわけではない。どうしたものかと悩んでいると、訓練時代からの腐れ縁が寄って来た。

「……お前、何してんの?」

状況を理解しかねて、オルオは首を傾げた。何がどうしてこの状況になったのか、見当が付かない。

「何でもないわよ」

呆れも露に問われて、ペトラはぱっと立ち上がった。立ったために、トリナの指から髪がすり抜ける。すると、見る間にトリナの目から関心が消えていく。最初のように焦点がずれた瞳に、もうペトラは映っていなかった。それを少しだけ残念に思いながら、ペトラはオルオと共に持ち場へ向かった。

「何でもないわよ。ちょっと、会話しただけ」
「会話?あの人形みたいなのとか?」
「人形じゃないわ。あの子、ちゃんと自分から動くもの」

ペトラは自分の馬に乗り、エルドに連れられて荷馬車に入るトリナを見つめた。少なかれ、今のペトラには、彼女はただの人間に見える。確かに、仕草は幼いし、動機も今一つ理解できない。けれどそれは、ペトラ達と同じ精神レベルでないせいだ。
彼女はひどく幼いながらも、自我を持っている。何かに関心を向けるくらいには、心も持っている。ひょっとすると、記憶も完全に無くしたのではないのかもしれない。トリナはペトラの髪を見て、関心を抱いた。ペトラを見たとき、トリナの中で何かがあったに違いない。

例えば、ペトラと同じくらいの長さの金髪の人の記憶が脳裏に影のように浮かんだのかもしれない。そして、トリナはその記憶を掴もうと、ペトラの髪に触れた。判然としない記憶の中にちらつく影を、掴もうとして。覚えてもいない人を、意志すら持たずにただ本能だけで求める。そんな彼女の姿は、幼いとかを通り越して哀れだった。
この可哀想な人を支えてやれるのは、隊に配属されたペトラたちだけだ。そう思うと、ペトラの胸にある種の優越感が湧き起こった。

「仕方ないなぁ」

所詮はただの少女兵だ。ペトラたちが支えてやらねば、戦うことすらできない。仕方が無いから、支えてあげよう。助けてあげよう。

「オルオ、気合入れて行こう」
「なんだ、いきなりやる気出して」

いやに上機嫌なペトラを見て、オルオは訝しげに顔を歪めた。しかし、優越感から訓練への意欲を燃やすペトラは、彼の表情を見過ごした。団長達がちょうど天幕から出てきて、そちらに目を奪われていた。

「これより全体訓練を初める!各員、事前説明の通りに行動することを期待する!」

団長の声に応えるように、兵士が雄たけびの声を上げる。それを了承と受け取り、団長が緑の信煙弾を打ち上げる。かくて全体訓練は始まりを告げた。そして、怒涛のように七日が経過し、壁外へ出発する日が来た。
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