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蛍光灯が完全に消え切る一歩手前の、オレンジ色の光が夜の部屋を包んでいる。ただいまと言えば分厚い書籍を顔に被せて寝転んでいた彼が、むくりと起き上がって、おはようと言った。時刻は23時をとうに過ぎている。仕事が長引いたせいだ。
指に食い込んでいたコンビニの袋を床に下ろすと、ガサリと音がする。先程までパンプスと触れていた、ストッキングを纏った足の裏でフローリングをぺたぺたと徘徊すれば、少しだけざらつく床に掃除を怠ったことを思い出した。
眼鏡をかけ直した彼はむくりと立ち上がると、キッチンへ向かった。私は身に纏っていた下着以外の衣服を全て脱ぎ捨てて、部屋着であるオールインワンに、ベッドに放り出されている彼のパーカーを着た。


「何か飲まん?」
「ビール買ってきた」
「はは。俺のは?」
「…あるよ」
「おおきに」

ぽんぽんと私の頭を撫でて、そうして彼はやかんを火にかけに行ったらしかった。熊のぬいぐるみのついたこの部屋の鍵を机に置いてから、手探りで袋から缶ビールを取り出して机に並べていると、彼が戻ってくる。細長い指が缶に絡みついて、それを浚って行く。彼は網戸だけの出窓にすっかり身体を預けて、窓の外へ目を遣りながら虫の騒ぐ音を聴いていた。彼は私といる時にはよく、そうした。
彼の口には合わないであろう安いビールを、ぐいと煽った。彼にはきっとワインの方が数倍似合う。それを想像するとどうにも絵になって、決定的な差異に目をつぶるように、私は口をつぐんだ。
出窓に収まっている彼の元へ、椅子を持って移動する。寄り添いたい訳では無い。ただ、窓の外が見たかった。彼は一度こちらに視線を寄越したきり、こちらを向かなかった。

「風が、すっかり夏だね」
「せやね」

彼は余り多くを語らなかった。
関西の方言を使う彼に、恐らく忙しない程に話をするのだろうという偏見を抱いていた私は、時間を共にするに連れて口数の少なくなっていく彼に、成る程こちらが本物なのだと知った。ただ一度だけ見た大学院の友人たちと笑い合う彼が偽物だったかと言えば、それは違う。私といる彼が、無口なのだ。人と関わり合う中で、相手によって自分は変わるものであって、私といる彼だけが、無口なのだった。
彼が楽しげに大口を開けて笑い合うのは友人とで、無口になる私とは、一体、何なのだろうか。

「暑くなるのは、嫌だね」
「せやね」
「ねえ」
「うん?」
「…好き」


彼は漸く、こちらを向いた。月の光に照らされた顔が、青白く光っている。驚いた顔をした彼の、それが嬉しくて私は笑った。
暫くして「さよか」と呟いて、彼はまた窓の外へ顔を向けた。
彼は外の景色を見下ろすのが好きだった。眼下に広がるのは都心にしてはよく繁茂した森林で、大きな公園があった。昼間には小さな子供の声が響いて、その度に彼は微笑んでみたり、また顔を歪めてみたりした。

「それ、」
「うん?」
「それ言ってどうするつもりやったん?」

彼の口調は優しく、それでいて咎めるようだった。私は小さな子供みたいに、口を尖らせた。
意味なんて無かった。ただ、純粋にそう思っただけで。今更になってどうにも子供じみた行為であったように思えて、俯いた。

「別に、どうもしないよ」
「そうなん?」
「ただ、」
「ただ?」
「ちょっと、言いたくなっただけ。」

喉の奥が震えて、少しだけ泣きそうになった。
彼と私が半ば同棲状態にあるのは、ただの惰性だった。行き来が面倒だからと彼が彼のマンションの鍵を私に渡して、それからは何故か私がこの部屋を管理しているような状況が続いた。私は毎日、この部屋から職場へと通っている。院生の彼は、私を見送ってから、大学へと行く。
まるで旧来の日本の夫婦を、急激に乾燥させたような関係だった。ただこの御時世にそれがそぐわないのは、よく理解している。三つ指をついて彼を出迎えたり、常に三歩後ろを歩く訳ではなかったけれど、決して対等にはなれなかった。


「好きだよ」


言いたいことは山ほどあった。
先程からキッチンでやかんが唸っていることを、まずは一番に伝えたい。それから買い置きのティッシュペーパーが入っている場所と、新しく買った掃除機の使い方、朝ご飯はしっかりと食べること。いつかこの部屋から、私がいなくなる時が来て、その時に彼が困らないように。
カンカンカンと速さを増して唸るやかんに、早く鳴り止んで欲しい。私を余り、急かすように唸るのはやめなさいと。

「言いたいことがあるんだ」
「奇遇やなあ、俺もや」
「私、たくさん言わなきゃならないことがある」
「俺はいっこだけやね」

彼は異性に対して、常に受け身だった。
私に対してもそれは言えることで、彼は私の話を聞くばかりであったし、殆ど不満を漏らしたこともなかった。彼に無理をしている様子は無く、それは私を余計に傷付けた。
私はこの部屋でまるで空気みたいだった。
彼が窓の外ばかり見ているから、私は私が居ないものなのではないかと、時々心配になるほどだった。私はたまに「好き」だなんて言ってみて、その度こちらを彼が振り返るのを、見ているだけだった。

「私たちは何なんだろう」
「何って?」
「……」
「何やろなあ」

頬がかっと熱くなったのがよく解った。
例えば彼が私よりも遅く家を出ることも、冷蔵庫に並べたビールよりもワインが似合いそうなことも、抱える難しそうな参考書も、院や研究室なんて言葉ひとつでも、それらの全てが私から彼を遠ざけた。こんなに近くにいるのに、彼はいつも窓の向こう側にいて、ガラスで仕切られて触れられない人のように思えた。


「やかんのお湯、沸騰してるよ」
「せやねえ」
「ティッシュの箱、廊下の収納の奥に買い溜めておいた」
「おおきに」
「新しい掃除機の説明書、向こうの引き出しに入ってる」
「さよか」
「……」
「やかんめっちゃうるさいなあ」

それなら早く止めにいきなよ、そう苦笑すると、出窓から腰を上げた彼が手を伸ばして、椅子の背もたれにしがみつく様に座った私の頭を撫でた。私は、下唇を噛む。私の横を擦り抜けて、彼はキッチンへと移動していく。

「なあ!」
「うん?」
「あのな、」
「なあに」

「…結婚しよか」


手に持った缶が、指と指で掴んだ間から擦り抜けて、フローリングに転がった。空になっていたのは不幸中の幸いで、びっくりして彼を振り返ると、彼もまた驚いていたようだった。


「いま、」
「ん?」
「いまなんて?」
「…一回しか言わん」
「結婚しよって言った?!」


「聞こえてるやん」
はは、と彼が笑って、こちらへ近付いてくる。彼はお湯の入ったカップヌードルを出窓の枠に置いて、その隣に腰掛ける。
紙の蓋がひらひらとめくれるその上に、重りにするかのように小さな箱を置いた。

「なに、これ…」
「下のはあと3分、いや2分待っててな。夜何も食べてへんやろ?」
「う、うん」
「上のは、あと1年待って欲しいねんけど。」
「え」
「卒業したら結婚してくれますか」


彼の座る出窓の向こうから、夏が迫ってくる。あの窓の向こうを通り過ぎていく季節を、あと一周だけ待てばいい。何も心配することなどは無かったのだ。


「…はい」


彼の薄く冷たい唇が 座ったまま背伸びする私に、触れた。



即席プロポーズ



(100629 やえこへ)
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