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ひとりきりで雨の日の昼間の台所に立つのは、陰欝な恋愛小説に良く似ていると思った。
築三十を悠に過ぎた木造アパートは、風が吹くとガタガタ揺れる。安っぽい照明を点けると床に描かれた可笑しな柄が良く見えた。流し台のマットを座布団みたいにして、鍋の入った戸を背もたれに小さく三角座りをしていると、すぐ横の扉が鈍い音を立てて開いた。

此処は、そんなに居心地が悪くなかった。


「ただいま」
「うん」
「おお、なんやそんなとこに居ったんか」
「うん」
「まあ、好きにしたらええけど」


ヤニの臭いを引き連れて、家主は戸外から登場した。コンビニのロゴの入ったビニール袋から発泡酒とイカの薫製を取り出して、こちらに向かって飲むかと尋ねたから、首を横に振って返した。それで中学の教師なんてやっているというから、この空間は堕落した人間を投棄する為に設けられているのでは無いか、と辺りを訝るように見回した。


「今日は何しとったん?」
「別に、何も…」
「おばちゃんら何も連絡無いん?」
「無いよ」
「…あー」
「邪魔なら出ていくよ。別に、お母さん達には言わないし」


「オサムがいくら貰ったのかは知らないけれど」
でもそんな事は私にはどうでもいいのだ、そう告げるとテレビの前に座った彼が「違う、ちゃうねん」と首を振ったから、同時に口にくわえていた薫製が左右を行き来した。私は台所のマットの襞を玩びながら、下を向いて答える。


「邪魔や無い。それはほんまや」
「お金を貰ったからでは無くって?」
「貰たのはお前の生活費分やで」
「じゃあ私が居ない方が都合がいいでしょう」


揚げ足を取るような事を言えば、彼は伸びきった髪をぐしゃぐしゃと撫で付けた。
もしこの男に私の事を何とかさせようだなんて、本気で思っているようであるならば、私は余程両親を疑う。面倒になって投げ出したに違い無い。一週間の何処にも、集積所に人間を棄てて良い日が無いから、だからこの掃き溜めみたいな部屋に押し込んだに違い無い。


「私のこと面倒になって、それでオサムに押し付けたんだよ」
「ちゃうて」


ふんと鼻を鳴らして言うと、彼は黙った。
何か言って欲しいような、けれど何も言わないで欲しいような雰囲気の中で、発泡酒を一口、口に運んだ彼は思い出したように「学校、行く気無いん?」と尋ねた。
その問いに失望したような心持ちになって、はたと顔を上げた。まさか何か期待しているのでは無いかなんて、自分を疑う。台所マットの襞を毟ってみても、それは容易には抜けなかった。


「そういう親や先生みたいなの、オサムも言ったりするんだ」
「けど、一応先生やし」
「…無いよ」
「へえ」
「あったらこんな所に居ない」
「せやなあ」


ケラケラと笑うから、馬鹿にされているようで釈だった。
従兄である渡邊オサムは、干支が一回り違う位年上で、幼い時分に何度か会って以来だった。私が昔、物凄く良く懐いていたとかで彼に白羽の矢が立ったのだ。
不登校だというだけで、優秀な人間の揃った親戚中に腫れ物みたいに扱われる私が此処へと投げ出されたのは、両親が暫くの間東京へ戻ることになったからだった。
元々住んでいた東京の家は、既に売却済みであるから、恐らく両親はアパートかマンションを借りているのだと思う。私は、特に何も知らされていないけれど。


「オサムは、私をどうしたいの」
「どうって、」
「誰かに解ってなんて、欲しくない」
「ふうん」
「理解しようとなんてしなくていいよ」


「私もう寝る」
そう言って部屋の隅の方に寄せた布団を引っ張れば、「風呂は?」とオサムが尋ねたから「いい」とだけ答えた。
パーカーの袖をぎゅっと握りしめると、すぐに毛布に潜って小さく丸まった。時計の針がどの位を指していたかは、わからなかった。


「寝たん?」
「……」
「起きてるやろ?」
「……」


問い掛けはよく聞こえていた。
本当はちっとも眠くなんてないから、出来るだけ私が目立たないように、ただ小さく丸くなって布団に覆われた。
このぼろいアパートは部屋が全部ひとつなぎになっていて隠れるような場所が無かったから、そうしてでしか一人にはなれないのだ。


「なあ」
「……」
「なあ、寝てへんやろ?」
「……」
「オサムちゃん暇やねんけどー」
「うるさい」
「ほら、起きてるやん」


ちらりと布団から顔を覗かせれば、だらし無く笑う顔がそこにあった。
「…オサムは何がしたいの?」
私がそう尋ねれば、彼は口元に運ぼうとしていた発泡酒を机の上に戻して、それから、
「話したいわ」
そう言って、一層笑みを深めた。


「私と、オサムで?何を?」
「何でもええやん、ウチのテニス部の話したろか?」
「興味無いけど…」
「せや、部活やってへんの?」
「やってない」
「へえ、」
「……」
「……」
「ほら、話題なんて無いよ」


「私と話したって、楽しくないよ。全然」
私がそう自嘲気味に漏らすと、オサムは「ほんなら、好きな物は何なん?」と、相変わらずのだらし無い顔で尋ねた。
私はひとつ溜息を吐いて、「無理しなくていいよ」そう告げる。広がった毛布を引き寄せて、出来るだけ小さく丸まった。


「無理なんかしてへんけどなあ」
「私、すぐ出てくよ」
「好きなだけ居ったらええやん」
「なんで?」
「何が?」
「なんで、そんな…私に構うの」


おかしいよ、唇から溢れるように出た言葉は空気みたいにスカスカしていて、ちゃんと彼まで届いたか解らなかった。
何故だか泣きそうだと思って、ぎゅっと唇を噛んだら、オサムが「お前がここに来てから、邪魔やと思ったことなんて一度も無いで」そう言ったから、遂に喉の奥から小さな嗚咽が漏れた。


「正直な、女子高生の考えてることなんて、全然わかれへん」
「……」
「大人って腹立つやろ?うるさいし余計なことばっかり言うしな。俺も昔はめっちゃ腹立つ思ってた気がすんねんけど」
「う、ん」
「なんでか知らんけど大人になるとな、そういうの忘れてまう様に出来てんねん」
「…変なの」


「せや、変やねん」
またケラケラと高らかにオサムが笑い出して、残り少ない発泡酒を煽った。袋からイカの薫製を取り出すとそれを二つに引き裂いて、片方を自らの口へ、もう片方を私の口元へと運ぶから、私も小さく口を開けて、噛み付いた。
しょっぱい、そう呟いたらオサムが私の口から出た半分を引っ張って、自分の口へ放り込んだ。


「無理せんでええと思うで」
「え?」
「別に、心底嫌なことからは逃げたってええやん」
「……」
「助けてはやれへんけど、まあ、一緒に逃げるくらいはしたるわ」
「…前から思ってたけど、オサムって大人じゃないみたいね」
「オサムちゃんめっちゃ優しいやろ?」
「……」
「何で黙るん?」


「…ありがとう」



「私、逃げてこれたのが、此処で良かった」
この狭いぼろアパートで、ひとりきりで雨の日の昼間の台所に立つのは、好んでよく読んでいた陰欝な恋愛小説に良く似ていると思っていた。
築三十を悠に過ぎた木造アパートは、風が吹くとガタガタ揺れるし、安っぽい照明を点けると床に描かれた可笑しな柄が良く見えた。流し台のマットを座布団みたいにして、鍋の入った戸を背もたれに小さく三角座りをしていると、すぐ横の扉が鈍い音を立てて開いて、「ただいま」って声が私に向けられるのが、本当は嬉しかった。


最初から此処は、そんなに居心地が悪くなかった。



「さっきの、質問」
「ん?」
「好きなのは、本、かな」
「ああ、好きな物なあ!」
「うん」
「オサムは?」


尋ねれば彼は、右手に持った発泡酒と左手に持ったイカの薫製を持ち上げて、肩を竦めた。
「此処から逃げる時は、これと本持って行かなアカンなあ」
子供みたいな大人のオサムが私の味方で、一緒に逃走計画を練っている。私は向き合うべき現実から逃げ出そうとしているのに、

何故だかその逃げ道は、未来に繋がっているような気がした。




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