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「ばかじゃないの?」

以前よりずっと乱雑に物の散らばった部屋に響いた声は、冗談めかすには余りにも重く、責め立てるには余りにも優しいものとなってしまった。
蜩が鳴いている。
夏はもう終わろうとしているのだ。

「早く治しなよ。明日から学校始まるのに」
「わかってるって」
「あんたがそうやっている間にも皆は勉強しているんだから」
「だーからわかってるって!」

彼は布団に再度潜り込んだ。
私が大袈裟に溜息を漏らすと、布団に潜ったままの彼がぴくりと動くのがわかった。夏休みも残すところ今日のみとなったその日の午後は、すっかり秋めいてきた空のせいか肌寒さすら感じさせた。
夏は終わろうとしている。
テレビから流れる甲子園の歓声も止んで、花火の火薬の匂いもしなくなった。あと少しすればあんなに疎ましかった蝉の声すら消えてしまう。
知らない内に、夏は消えていってしまうのだ。

「これ、置いておくからね」
「んー?」
「受験対策の、夏期授業のノート。」
「ああ」
「来ていないの、ミチルだけだよ」

「そうかい」と布団の中からくぐもった声がした。
もう一度、今度は出来るだけ小さく溜息を漏らすと、何だか鼻の奥の方がつんとしてしまって、咄嗟に息を止めた。震える声を何とか抑えながら、「私、帰るね」それだけ伝えると足早に彼の部屋から退室した。
ドアを閉めて彼と私との空間を遮断する。
大きく息を吸うと一粒だけ涙が零れた。

「…名前ちゃん?」
「あ、すみません。お邪魔しています」
「いつもありがとうね」
「いえ」
「ミチルにも言っているんだけど」
「はい」
「私も中々強くは言えなくて」
「はい」
「あの子も、余程落ち込んでいるみたいだから」

「そうですね」
同意の言葉を述べると、私は一礼して玄関に向かった。彼の母親であるその人は、買物袋をキッチンのテーブルに置くと、玄関の方に戻ってきた。
「また来てね」
そう言ったその人を私は幼い頃から知っているのに、何故だか急に歳を取ってしまったようで、まるで知らない人のようだと思った。
福士家の扉を閉じると、肩の上にどっと疲労が落ちてきた。大きく溜息を吐き出すと、一緒に両目から涙が零れた。ずっとこのままだなんて、そんな風には思わないけれど、このままでは夏が終わらないまま、秋が来てしまう。時間が無いと、私は焦っていた。

「名字?」

声をかけられて咄嗟にそちらを向く。
向いてから、しまったと気付いた。私と向き合った堂本が、目を見開いている。私はまた顔を隠すように下を向いて、息を小さく吸ってから、吐いた。

「どうした?あいつに何かされたのか」
「ううん」
「あいつは?」
「…まだ、具合悪いって」
「いい加減にしろよ」
「私に言われても、困るよ」

そう私が言えば、堂本は「お前に言ったんじゃなくて」と語尾の濁った返事を返した。
堂本とはクラスメイトで、少し前まではテニス部の部員とマネージャーという関係でもあった。彼は元部長である福士ミチルを訪ねてきたのだろう。偶然に出会してしまったことに、顔を顰た。
関東大会初戦を目前に、腹痛で病院に運ばれてからずっと、彼、福士ミチルは体調が悪いと言って閉じこもっていた。

「名字は」
「うん?」
「どうしてそこまですんの?」
「だってミチルとは」
「お前とあいつが幼なじみだからって理由にしても、そこまでしなくねえ?」
「うん」

性悪だ、そう思った。
わかっているのならば、聞く必要も無いだろう。そう思いながら堂本を睨むように見つめたけれど、彼はやはり、返答を待つばかりといった面持ちでいる。彼の思うままでいるのは釈に障る。そう思って、彼の欲しがっている言葉ではないものを、吐き出した。

「引っ越すから、私」
「は?」
「父の転勤と一緒に、新しく神奈川に家を買ったの」
「……」
「だからミチルとか、みんなとは同じ高校には行かない」
「え…」
「立海に行くの」

私は笑って見せた。
立海、その名前を出すと途端に堂本の顔が険しくなった。
「そのこと、あいつには?」
そう尋ねられるので首を横に振る。それから、「ミチルには、内緒にして」そう言った。

「どうしてだよ」
「どうしても。」
「おかしいだろ、だってお前」
「言わないでね」
「なんでだよ!」
「ミチルには何も、言わないで」
「だから」
「悲しまれたって喜ばれたって何も言われなくたって、私は辛い。ねえ、わかっているでしょう?」

「好きなの、ミチルのこと。」
先程まで堂本が散々求めていたであろう言葉を口にしたにも関わらず、彼は悲しそうな顔をした。
「何も言わないままなのかよ」
彼が尋ねるので、今度は大きく頷いて見せた。

「それで、いいのか」
「うん」
「馬鹿だろ、おまえ」
「うるさいよ」
「後悔しないのかよ」
「しないよ、ただ」

「負けちゃってもいいから見たかったな。最後に、みんなが試合しているところ。」
みんなは同じ高校に行くから、また一緒にやれるけれど。私には、最後だったから。無理矢理笑って見せると、堂本は一回り小さい私の頭をくしゃくしゃに掻き混ぜた。

「全くみんな、ばかじゃないの?」
「……」
「関東までいって、腹痛って。」
「……」
「呆れちゃうよ」
「ごめん」
「本当に…ばかばっかりなんだから」

ちゃんと勉強しないと、みんなで同じ高校行けないよ。
笑いながら堂本の手をやんわりと払いのけて、私は走り去る。誰にも言わないつもりでいたのに。ばかは私だと思いながら、少しも遠くない我が家に逃げるように駆け込んだ。
始業式の準備をすると、夕飯も食べずにお風呂にだけ入ってすぐにベッドに潜り込んだ。目を開いたり閉じたりしている間に、いつの間にか望んでもいない9月1日の朝はやって来ていた。


「…はよ」
「おはよう。ちゃんと、来たんだ。」
「まあね」
「なんだか、久しぶりな気がする」
「昨日も会ったでしょうよ」
「そうだけど」

ミチルが制服着ているの、久しぶりに見たからかな。そう言って靴と上履きを交換すると、同じように彼も靴と上履きを交換していた。テニスバッグの無い、彼の身軽そうな姿が見慣れなくて、瞬きをした。
ふいに訪れてしまった沈黙をなんとかしようと口を開くと同時に、「福士先輩」と、後ろから高い声がした。

「もう具合、いいんですか?」
「あ、ああ。まあね」
「そうなんですか。よかった!」

「よかったら一緒に途中まで行きませんか?」そう尋ねた後輩であろう女の子の言葉を受けると、彼はちらりとこちらに視線をやってから、頷いた。
「やった!うれしいです」
私はその後ろ姿を見つめながら、何時かに部室で部員達が“好きな女の子のタイプ”について話し合っていたのを思い出していた。天真爛漫、というのは私とはまるで真逆ではないかと思ったのを記憶している。
息を吸って、吐く。ぎゅっと目をつむってから、開く。何故だか最初から知っていたような気がする。
彼は私を、見ていない。

「おはよう」
「あー…はよ」
「どうかしたの?」
「いや」
「何かあるなら言ってよ」
「お前、昨日の今日にあんなこと聞かされてだな…」
「ああ、言わないでね。でなきゃ忘れてよ」

堂本がどうしてそんな顔するの?ざわめく教室の一角で私がそう不思議がると「俺だってお前がいなくなんのは嫌だっつの」と、ぶっきらぼうに彼は言った。なんだかそれが可笑しくて、私は声をあげて笑ってしまった。笑うなよ、と彼は睨んだ。

「ごめん、ありがとう。まさかそんな風に言って貰えると思っていなかったから」
「そうか」
「なんだかね、テニス部って戦隊物の悪役みたいだったでしょう?」
「はあ?」
「しかも、とびっきりチープな。良い噂は聞かないし、みんな本当にばかだし」
「お前な」
「でも、本当は本当にみんながいい奴で、それを知れたのはきっとマネージャーをやっていたからだって思うの」
「……」
「出来ればまだ、私もみんなと戦っていたかったな」

仮に、悪役だったとしても。
私が冗談めかして言えば、堂本は「なあ」と小さく呼び掛ける。「何?」そう振り返って尋ねれば、彼は、「やっぱり、言えよ。あいつには、全部。」そう言った。

「…どうして?」
「どうしても何も」
「言えないよ」
「それはどうしてだよ」
「堂本にはわからないよ」
「ああ、全然わかんねえ」

「だからやっぱり、言ってやれよ」
何も知らないままじゃ、あんまりだろう。彼はそんな旨のことを伝えたけれど、私は聞く耳を持たなかった。
「第一、嫌でもそのうち、進路のことは伝わるでしょう?」
そう言えば、それなら尚更言ってやれと、彼はせがむのだった。
ホームルームが始まるより15分も前に、担任の先生は教室に現れた。静かになる教室に向かって、「まだ喋っていていいから」と穏和な笑顔を向けると、続けて「名字」と私の名前を呼んだ。

「はい」
「今、少しいいか?」
「はい」
「呼び出しかよ、何したんだお前」
「堂本じゃないんだから、やめてよ」

ふざけて言うと、先生も笑った。
手招きするほうに向かって行くと、廊下の隅で立海の案内冊子て分厚いテキストを差し出した。

「立海の、過去問ですか?」
「古いのがあったから、良かったら使ってくれ」
「ありがとうございます」
「立海しか受けないのか?」
「はい。引っ越す先から近いんです。でも、全ての日程受けるつもりですから」

「最初の試験で受かれば、名字は一番早く進路が決まるかもしれないな」
先生は頷いた。立海大付属高等学校と書かれたテキストと案内冊子を抱えなおすと、「堂本には言ったのか」と彼は聞いてきた。

「ああ、はい。なんだか、話の流れで言ってしまいました。」
「それなら、福士にも教えてやったらどうだ」
「先生まで、そんなこと言うんですね」
「堂本もそう言っただろう」
「はい」
「…名字は、立海に通うことになったら、またテニス部のマネージャーをやるのか?」
「まさか」

私なんか使って貰えないと思いますよと続けると、先生は苦笑しながら「ウチも一応、テニスの名門校のはずなのにな」と言った。なんだか申し訳無くなってしまって、咄嗟にすみませんと謝るといいやと首を振って彼は教室へと戻って行った。出来る限りテキストの「立海大付属高等学校」という文字が見えないようにして、私はその後を追った。

「…眠い」
「しっかりしろよ」
「ふらふらする。ああ、昨日寝てないんだった」
「なんでだよ?」
「ミチルが今日来るかと考えていたら朝になっていたの」
「阿呆だな。始業式寝てろよ」
「そのつもり。しかも昨日から何も食べていないや…」
「だからなんでそういう生活を送ってるんだよ」
「朝は勉強していて、お昼からミチルのところに行っていたんだけど。なんだか食欲が湧かなかったから夜だけ食べればいいと思っていたのに、結局何も食べ無かったんだ」

自分の状態を把握すると急に体調が悪くて仕方ないように思えてきたから、不思議だ。力無く笑って見せると、堂本は大きく溜息を吐いた。

「言うなって言われてんだけど、言うわ」
「え?」
「その代わり、お前のことも言う」
「何、どういうこと?」
「あいつの食あたりなんか、もうずっと前から治ってたって、お前もわかってただろ?」
「ああ、うん」

ミチルの食あたりは、実際には直ぐに治っていたのだと知っていた。7月に始まった関東大会の初戦で、彼らが棄権をしてから8月が終わるまでの間、ずっと食あたりの症状が続くなんてことは、普通に考えたら有り得無いことだとすぐにわかる。現に、他の部員はすぐに回復を見せた。
それでも彼が体調が悪いというのは、精神的な物から来ているのではと思っていたから、私は毎日のように彼の元へと足を運んでいたのだ。

「あいつ、自分のせいだって。俺らに謝ったんだよ」
「そうなんだ」
「でもそれは、あいつだけのせいじゃないだろ?」
「うん」
「そう言ったらあいつも頷いてた、けど」
「けど?」
「お前に合わせる顔が無いって。」
「え?」
「抽選会で立海引いて、周りはみんな諦めてたのに。お前は、がんばれって言ったろ」
「……」
「なのに、戦えもしなかった」

救急車の中でお前に泣きながら名前を呼ばれたのが、忘れられないって、そう言ったんだよ。
堂本の言葉ひとつひとつが突き刺さるようで、くらくらした。本当に不味い。そう思った。
「本当に、何も言わないままでいいのかよ」
彼の言葉に、心も身体も、ぐらりと揺れた。



「…名前?」
「ミチル」
「目、覚めました?」
「ええと」
「倒れたの、覚えてる?」
「ああ」
「ああじゃないっつの!」

がしがしと頭を掻き混ぜるようにミチルは頭を撫でた。心配させるなと言うので、誰のせいでこうなったと思ったけれど、口にはしなかった。
カーテンで遮られた保健室の一角は、やたらと静かだった。今は一体何時なのだろう、そう考えていると、彼が口を開いた。

「堂本に、聞いた」
「え?」
「引っ越すことと、立海受けること」
「それだけ?」
「まだあるわけ?」
「ううん」
「…なんで言わないわけ」

「てゆうか、なんで堂本から聞かなくちゃいけないわけ」
責めるように彼が言うので、私はそれならばとばかりに、「自分だって堂本に言っちゃ駄目だって、言っていた癖に」と言った。彼は少しうろたえながらも、「今は俺が聞いてるんだけどね」と答えた。
私も彼も黙っていると、時計の秒針が動く音だけがした。消毒液の匂いのする空間で、私は白いシーツだけを見つめていた。

「ミチルの気持ちなんて、知らない。」

私が呟くように言ったはずの言葉は、やたらと大きく聞こえた。下を向いたままの私には、彼の表情は伺えない。
どうして言わないのかなんて、どうして黙っていたのかなんて、そんなの決まりきっている。

「私がいなくなって、ミチルが悲しむのも喜ぶのも何も言ってくれないのも嫌」
「ど、どういうことよ?」
「ミチルが悲しいと私も悲しいから駄目」
「……」
「でも私がいなくなって喜ぶなんて駄目」
「いや、それは、無いから」
「何も言ってくれないのも駄目、寂しいって言って。でも悲しいのは駄目だよ、もうどうやったって駄目なの」
「……」
「ミチルの気持ちなんか知らないよ、でも私は辛いよ」
「うん」

「一緒にいたいよ」

本当は来年も、その次もその次も、一緒にテニスをしていたい。悪役だって、なんだっていい。ばかでどうしようもない位不運でひとつも良い噂なんか無い癖に、本当はどうしようもなく良い奴で格好良くて優しい。
お願いだから、寂しいって言って。何か言ってよ。

「毎日夢に見た」
「何を?」
「泣いてる名前が名前を呼ぶのとサイレンが一緒に鳴って、目が覚めるのよ」
「関東の時の?」
「そう。起きるとすげえ汗かいてて、その繰り返し」

怖くなってなかなか寝れなくなっちゃってね、カッコ悪いけど。そう言って彼はへらりと笑った。情けない顔だと思った。輪郭ですらぼんやりしているのは、私の目に涙が溜まっているからかもしれない。

「寂しいっていうか」
「……」
「名前がいないの、想像出来ないみたいな」
「うん」
「そんな感じ」
「……」
「だから、その、なんていうかね!」
「うん」

ううんと、だとかええと、と彼は言葉を濁しながら、それでも何かを探り当てるように視線を行き来させた。それから一度、こちらに視線を寄越すと、へなへなと肩を落とした。

「俺のこと」
「うん」
「好きって本当なの」
「え?」
「堂本に、聞いた」

「だからどうして、全部堂本なのよ」
と、彼は大きく溜息を吐いた。溜息を吐きたいのは、こっちだ。どうして全部、堂本に言われなきゃならないんだ。
俯いていると、もう一度、「本当なの」と彼は尋ねた。

「ばかじゃないの」
「ええ」
「ミチルのばか」
「えええ」
「そんなの」
「……」
「自分で気付け、ばか」

私、帰る。
そう言ってそのいたたまれない空間から逃げ出そうとすれば、彼の頼りない手がそれを阻んだ。彼を睨みつけると、彼は一瞬だけ怯んで、けれどすぐにまた私の腕を掴む手に力を込めた。

「高校では」
「……」
「全国に行く」
「は?」
「立海と当たっても、逃げも諦めもしない」
「……」
「立海の制服着てても、立海のスタンドにいてもいい」
「うん」
「だから、その」
「何」
「まだ俺のこと応援してくれる?」

こちらを伺うように、彼は言った。
その顔があまりにも情けなくてみっともなくて仕方なかったから、私は思わず吹き出した。「なんで笑うわけ!」と彼は眉を寄せる。

「全く」
「何だよ」
「本当にばかなんだね」
「あのね」
「…応援なんか、しないわけないでしょう」

笑って見せれば彼は目を見開いてから、相変わらずの情けない顔で笑った。彼が掴んでいた私の腕を放す。

「ばかばか言うけどね」
「うん」
「俺だって名前のこと、好きなんですけど」
「は?」
「気付けよ、ばか」

情けない顔は一転、悪戯に成功した子供のように嬉々としたものになった。それがなんだか妙に格好良くて、私は悔しくなって叫ぶ。

「うるさい、ばかじゃないの!」

夏は終わった。
テレビから流れる甲子園の歓声も止んで、花火の火薬の匂いもしなくなった。あんなに疎ましかった蝉の声すら消えてしまって、知らない内に、夏は消えていってしまった。

けれどすぐにまた、夏は来る。
そう思った。


(091208)
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