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土曜日が終わる頃、冷たい風と視線に刺されながら泣くことも出来ないままふらふらと歩いた。降り立つ駅のホームには疎らな人通りがあるのに、私はひとりきりで、つんとする鼻を啜った。



「何しているの?」

聞こえた声に息を飲んで、振り返る。
今の顔を、私を知っている誰かに見られるのは、私自身にとって余りにも残酷なことのように思えた。
自分が傷付くということは、何に代えても回避しなければならない最大の事項であると認識していたから、私は何としてもこの声に気付かないままこの場を立ち去らねばならないと、その方法を思案した。
息を吐くと白くなる。その時初めて、冬がすぐ近くにいることに気が付いた。


「名前ちゃん?」
「…滝くん」
「久しぶりだねー」
「うん」
「……」
「そうだね」

足が動かなくなったのは、彼の声が酷く優しく聞こえてしまったからだと思う。
顔を上げると彼は眉を寄せてから微笑んで、それから「大丈夫?」とだけ聞いた。
滝くんは中等部からの同期生で、お互いの友人を介してほんの少し話したことのあるだけの、ただの顔見知りだった。それなのに彼が私を名字ではなく名前で呼んだので、私は内心驚いていた。
大学に入ってから、大学近くの駅の側のアパートの一室に単身で引っ越した私は、その最寄り駅が滝くんと一緒であるということを、つい最近に知った。情報源は向日くんで、それを聞いた日の夜に、滝くんと綺麗な女の子がその小さな駅のホームを歩いているのを見かけていた。

「ひとり?」
「うん」
「もう帰るの?」
「……」
「帰らないの?」
「……」
「そっか。じゃあ家に来る?」
「……」

何も答えなかった。
どちらでもいいと思ったからだ。もうどうなってもいいとすら、思っていたからだった。目を伏せて黙っていると、滝くんは私の鞄を左手から掬った。
私が守りたいのは私なのに、私は私の何を守りたいのか、よくわからなかった。
滝くんは歩きだすと、足を動かさない私を見兼ねたように笑って、その細長く白い指の着いた左手で、私の不格好な右手を取った。指先に静電気が走るような、触れ合うだけなのに痛い気がした。

「どうぞ」
「ありがとう」
「コート掛けるよ?」
「…ありがとう」
「どういたしまして」

彼の差し出したホットのココアは恐ろしい程に甘かった。白い壁紙の部屋には余計なものは無くて、フローリングですら新品同様の光沢感があった。私に差し出されたカップは薄いピンク色で、戸棚には対になると思われる水色のカップがあるのが見えたから、私はそのカップからすぐに口を離して、それを硝子製のテーブルに乗せた。

「これ」
「うん?」
「このカップ、使っていいの?」
「え?」
「戸棚に、水色のカップがあるから」
「あー、ごめんね。気になる?」
「滝くんがいいなら、別に。」

「貰い物なんだ、それ。新しいのを買うか壊れるかしたら、捨てようと思うんだけどね」
カップなんて使えたら何でもいい気がしてしまってと続ける彼に同意するように頭を縦に小さく振った。つまり前の彼女に貰ったということなのだろうと考えた。思い出だとかそういった事柄の付加価値は極めて個人的なものであって、特にこのカップに何かしらの思い出が詰まっていたとしても、それはそれを知らない私にとっては一切意味を持たない。物理的にそこにある物はただひとつの薄いピンク色をしたカップであって、万人に共通する概念としてのカップの役目である注ぐや飲むといった行為に支障をきたさなければ、特に捨てる意味も無い上に使い続けることの方がいっそ合理的でさえあると思った。

「この間、あの駅ではじめて滝くんを見たよ」
「そうなの?声かけてくれればよかったのに。」
「私のこと、憶えていないと思ったから」
「まさか!」
「それに、滝くんひとりじゃなかったから。」

「ああ」と、彼は当然のことのように笑った。それから、「別によかったのに」と続けた。
決して滝くんが悪いとは思わなかったけれど、それでも何か悲しい気持ちになった。自分が今腰をおろしているソファには一体何人の女の子が座って、そして一体何人の女の子があのカップのように記憶から切り捨てられたり、どうでもいいと置き去りにされたのだろうと思った。
男の子はみんなこういった考えを持っているのか思うとぞっとした。
どんなに努力したとしても、例えば跡部くんのようになれると思ったことは無いし、自分が特別な何かになれるなんて大それたことは考えたことは無い。
だからたったひとりの誰かの特別になれたら、それでよかったのに。
「滝くんさ、」
「うん?」
「私、付き合っていた子がいるんだけど」
「ああ、うん。知っているよ」
「今日、ああ、もう昨日か。別れたの」
「へえ!どうして?」
「私が、別れようって言ったからかな」
「おお、やるねー」

「なんだか楽しそうだね」
そう言うと、この手の話が好きなのだと彼は答えた。予想外の答えに顔を顰めると、彼は「ごめんね。」と苦笑いを造った。「滝くんはもっと、なんていうか、潔癖なイメージがあったよ」そう私が言うと、彼はそうだねとだけ答えた。
リモコンは背の順に、テーブルの端から真っ直ぐに整列していたし、本棚の本は作家順に並んでいる。塵ひとつない。彼は紛うことなく潔癖そのものであるように見えるのに、それはどうにも人間関係、特に異性との関係性にだけは発揮されないようだった。

「ロマン・ロラン、好きなの?」
「え?」
「同じタイトルが何冊もあるから。」
「ああ」
「そういえば、滝くんは仏文科だったっけ?」
「そうだよ」
「ええと、『強いことは何といいだろう!』だっけ。」
「そう。『強いときには、悩み苦しむことも何といいだろう!』って続くんだ。よく憶えているね」
「それだけ。誰かに聞いたことがある気がするんだけど、本は殆ど読んだことが無いの。フランス文学自体、あまり知らないし。」
「そうなんだ。是非読んでみてほしいけどな」

「例えば、彼みたいに友達でも、何でもいいけれど。大切なひとを守るために、自分が傷ついたとしても何か大きな敵に立ち向かったり、出来る?滝くんなら。」
試すように尋ねると、「さあ、どうだろう」とはぐらかされた。「私は出来ないな。」そう言うと、「どうして?」と今度は彼が尋ねた。

「私は、私が傷付くのが一番こわい。」
「誰だってそうじゃないのかな」
「そうかな。そうだね、そうじゃなかったら誰でもノーベル賞が取れてしまうしね」
「あはは、そうだね。それ以前に世界はもっと平和だ。」
「鳳くんなら、平和賞が取れそうだけど」
「確かに。何十年後かにニュースになるかもしれない」
「…滝くんはどうして私を連れて来たの?」

「此処に。」
急に話題を変えても彼の顔色変わらなかった。それどころか「じゃあどうして簡単についてきたの?」と彼は片手で頬杖をつきながら私に尋ねた。その答えを私は持ち合わせていなかった。「滝くんが私の鞄を持ったまま歩き出したからかな」そう天邪鬼な返事を返すと彼が今度は可笑しそうに笑った。

「名前ちゃんにロマン・ロランの話をしたのは多分、俺だよ」
「ええ?」
「中学1年の、文化祭の時かな。舞台の裏方だったんだ。多分、名前ちゃんも。暇を持て余していたら、君はゲーテを読みながらバルコニーにひとりで寝ころんでいた」
「ああ!あったかもしれない」
「俺は知っていたんだけど、君は俺を知らなかったんだろうね」
「…ごめん」
「謝ることじゃないよ」

「その時と、名前ちゃんは随分変わったね。」
それが悪いこととも、良いこととも言わずに、彼はそれだけを呟いた。
私はどう変わってしまったのだろうかと思案したけれど、私という連続の中に暮らしている私が、自身の変化を客観的に捉えることが出来るはずがなかった。
秋晴れの日だった気がする。バルコニーは全面ガラス貼りで、眩しかったように思う。よく思い出せないけれど、近づいてきた男の子は綺麗で、穏やかに笑っていたような気がする。もしも彼が滝くんだというのなら、その片鱗は確かに今も見受けられるけれど、彼もまた随分変わったのでは無いだろうかと思う。
考えあぐねる私の様子を察したのか、彼は「バルコニーに寝ころんでいた君なら間違いなく自分を犠牲にしても誰かを守ることを選んでいたよ。」俺が何を知っているわけでも無いのだけれどそんな気がするんだと続けたけれど、彼は今度は笑っていなかった。

「俺も少し前にあの駅で久しぶりに名前ちゃんを見たんだ」
「気付かなかったな」
「なんだか小さくなってしまったように思ったよ」
「…滝くんは私のこと、よく知ってるんだね」
「そうだね、よく見ていたから」
「私はよく知らないんだ、滝くんのことも、私のことも。」
「うん」
「強いときには、悩み苦しむことも何といいだろう!だって。」
「うん」
「じゃあ、弱いときには、どうしたらいいと思う?」
「悩むのも苦しむのもやめたらいいんじゃない?」
「どうやって?」
「そうだな」

どうしようか、今度は片手を顎に添えて考えるような仕草をして、言った。
「世界を救える人なんて一握り、いるか、もしくはいないかもしれない。」
彼は唐突に言った。特別な人間になりたいだとか、そういうわけでは無い。跡部景吾になりたいだとか、ロマン・ロランになりたいだとか、ノーベル平和賞を受賞したいとかいうわけでは無い。
「じゃあ」そう呟いて滝くんは空になっていた私の目の前のカップを手に持つと、ベランダのガラス戸を開けた。そしてカップを叩きつけるようにベランダの底目指して落とす。予想していたのと殆ど変らない音が響いて、カップは割れた。



「そうだな、とりあえず今日はもう寝て、明日は一緒にカップを買いにいかない?」


そうしたらあのバルコニーではじめて会った日に、戻れる気がする。そこから始めたいな。
ゲームのことを話す子供みたいな彼の言葉に、私はただ頷いた。



(091205)
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