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「納得いきません」

プログラムを叩き付けると、私は言った。榊先生は、さも訳がわからないというような、不可解なものを見る目で私を見て、言った。

「鳳の方が相応しい、それだけだ。」

私は愕然として、しゃがみ込む。指先ばぶるぶる震えて、息がしづらい。
「お前は上手い。才能もある。だが、最後の演奏者は鳳だ。」
そう言い残して、榊先生は音楽室を後にした。涙も出ない、とは正にこのことだった。悔しい、憎らしい、恨めしい。ぐるぐると目が回る。不協和音が、止まない。


「顔酷いよ」
「うるさい」
「何よ、良いわけ?取っておいてあげたあんたの分のノート、捨てちゃうんだから」
「別にもういいよ…」
「あらあら」


「鳳長太郎さえ、いなければ」
机に伏せて言うと、「まあ、その気持ちもわかるけど」と友人は言った。
わかる訳が無い。血の滲む努力、というのを、私はした。寝ても覚めてもピアノピアノピアノピアノピアノ!遊ぶよりピアノ、勉強より寝るよりご飯よりピアノ!毎日そうやって課題曲と自由曲に、向き合ってきた。それなのに。

「どうして鳳が大トリな訳?」

笑えない、そう思っていると友人は「ぶっ」と吹き出して、「つまんない」と笑った。つまらないなら、笑うな。イライラして、帰りのSHRが始まる前の教室を飛び出した。
氷帝学園にはピアノコンサートが存在する。どうやら始まったのは一昨年のことらしいけれど(恐らく跡部先輩主催によるものだと思う)流石氷帝というべきか、生徒の演奏会にも関わらず、著名な音楽界関係者も多数招かれる。
氷帝は冬期交換留学に「オーストリア音楽留学」のコースがある程に音楽の盛んな学校で、各コンクールで入賞を果たす生徒が多数在籍している。氷帝は音楽学校の様に授業でピアノばかりを弾くようなことは無かったけれど、コンクールなどがあれば公欠になるし、コンクールで成績を残せばそれがそのまま学校の成績に反映された。
学園のピアノコンサートに出演する為には、その前に学園内のオーディションを受けなければならない。氷帝に在籍している生徒であれば誰でもオーディションを受けることが出来るが、実際にオーディションを受けたのは大抵が私のように音楽を学ぶ為に氷帝に入学した、ピアニストを目指しているような人間である。

「むかつくむかつくむかつく!」

廊下をずんずんと進む。向かうは音楽室の奥、第一練習室である。
オーディションを受けたのは、殆どが私と同じようにピアノでコンクール入賞を果たしている人間だった。正直に言って、私は成績だけでいえば、この学園の誰より上手くピアノが弾けることになるだろう。私が学園のピアノコンサートで、最終演奏者をつとめると思っていた人間も多い筈だ。私だって、そう思っていた。なのに。

「鳳、長太郎…」

テニス部に、ダークホースは潜んでいた。
確かに、鳳長太郎はピアノが上手い。それはよく知っていた。彼がエントリーすると知ってから私は、それまで以上に血の滲むような努力をした。念には念を入れて、彼より遥かに多くの時間を使って練習をした。オーディション当日の演奏は、ほぼ完璧だった筈だった。
しかし今日になって発表された演奏者のプログラムで自分の名前が、後ろから二番目にあったことには、愕然とした。何故、何処が、どうして。何故私は鳳に負けたのか。圧倒的に練習量は私が上回っている筈だった。部活をやっている彼がどんなに練習しようとも、私に敵う筈がない。そう思っていた。

「失礼します!」

バタンと鍵を開けた第一練習室に飛び込んで、一目散に黒い椅子に座る。人差し指を乗せると、ポーンと音が鳴る。すぅと息を吸って、それから鍵盤に吸い込まれるように、指を動かす。
即興曲第四番、嬰ハ単調「幻想即興曲」
ショパンの即興曲のうち最後に発表された、ピアノ曲の中でもかなり有名な曲である。吐き出すように奏でる。胸の奥の真っ黒な感情が出てきて、視界が霞む。指が縺れてミスタッチをすると、そのまま鍵盤に十本の指を沈めた。不協和音が、止まない。

「あはは、凄い音」
「誰?!」
「ごめん、練習中だったかな?」
「鳳、長太郎…」
「あ、俺のこと知っているんだね」
「……」
「俺も知ってるよ。名字名前さんでしょ?」

「たまにピアノ、聴かせて貰ってるんだ」
そう言うと、人の良さそうな笑みを顔中にたたえて、鳳長太郎は近付いてきた。私は思わず後退りそうになったけれど、すぐに座っているピアノの椅子の端まで追いやられた。

「一度話してみたいと思っていたんだ」
「……」
「今練習中かな?」
「別に」
「今のは…」
「あれは適当に弾いてただけだから!」
「そっか」

そうだよね、とニコニコ笑って、鳳長太郎は言った。むかつく。余裕そうな顔が、私を更に苛立たせた。どうしてこんな、何の苦労もしていなさそうなやつに、私は負けたんだ。

「名字さんはいつからピアノはじめたの?」
「…三歳」
「へえ。氷帝にはピアノで入学?」
「そうだけど」
「将来はピアニストだよね?」
「……」

「違うの?」と、何の悪気も無さそうに、鳳長太郎は言った。勿論、ピアニストになりたいし、なるつもりだ。けれど自信ばっかりがあるわけではない。現に、私はこの目の前の男に負けたばかりだ。

「なりたいけど、なれるかはわからないよ」
「え?名字さんならなれるよ!」
「…私位のやつ、何処にでもいるよ」
「そんなこと無いって!」
「じゃあ何で?」
「え?」
「何で私が最後じゃないの?何であんたにそんなこと言われなきゃならないの?」
「……」
「私の何処があんたに劣るって言うのよ…」

絞り出すように言うと、流石の鳳長太郎も顔を歪めた。私がやっているのは、趣味やお遊びでは無い。テニスの片手間にピアノをやっているようなこの男に負けるようで、何がピアニストだ。
難しい顔をしていた鳳長太郎が、こちらを向く。うなだれたままの私にもお構い無しに、口を開いた。

「俺がピアノをはじめたのも、名字さんと同じくらいの頃かなあ」
「……」
「鍵盤を押すとさ、綺麗な音が出るんだ。夢中で弾いたよ」
「……」
「将来はピアニストになりたいと思ってた」

「幼稚舎の卒業アルバムにも、そう書いたんだよ」ニコニコと笑いながら言う。なりたいと、思ってた。要するに、今はもうピアニストになりたいと思ってはいないという訳だ。昔話なら余所でやってくれ、そう睨み付けると、「名字さんが羨ましいよ」と鳳長太郎は続けた。

「何それ、嫌味?」
「まさか。違うよ」
「それなら何、何なのよ」
「俺は、なれないから」
「は?」
「ピアニスト」

「だから名字さんが羨ましいよ」
怒られた犬みたいに、へにゃりと眉を垂らして言う。そんな様子ですら、私の苛立ちを増長させるには十分だった。
ぎゅっと制服のスカートの裾を掴むと、悔しさの粒が溢れ出さないように、奥歯をぎゅっと噛んだ。

「なれないって、何?私に勝っといてよくそんなこと…」
「俺は選べないから」
「は?」
「家、継がなきゃならないから」
「え…」
「うち、跡取り俺しかいないんだよね」

「姉がいるんだけど、やっぱり家は男が相続するものだって」
偉い人たちは頭が堅いみたいで。そう言うと自嘲するように笑った。噛み締めた奥歯を離して、私は口を開く。

「だって、幼稚舎のアルバムには書いたんでしょ?ピアニストになりたいって」
「うん」
「じゃあ、」
「その時には、もう分かってたよ。家を継がなきゃならないって。テニスに出会ったのは、その少し前だったなあ」
「……」
「ピアノも、テニスも。俺には今しか無いんだ」
「そんなのって」

瞳から零れた粒が、どんな感情を孕んでいたのかは、私にもよくわからない。
「名字さんはさ、」
こちらをじっと見据えた鳳長太郎は、またにこりと笑って、私に尋ねた。

「何の為にピアノを弾くの?」
「…何の、為?」
「ピアニストになる為にピアノを弾くの?」
「え」
「それともピアノを弾く為にピアニストになるの?」
「私、は…」
「どっち?それともどっちでも無い?」
「私は…」
「ねえ、ピアノ弾くの楽しい?」

言葉に、詰まった。
ピアノを楽しく。私にそんなことを言っている余裕は無い。コンクールで賞を取って、この学園内で一番であることは当然で、演奏者として認められて音高や音大に行って、留学してプロになって…それで?
それでどうするの?

「……」
「コンサートのオーディションが決まる前にさ」
「…うん」
「よくここで弾いてた曲あるでしょ?」
「え」
「あれ、何の曲?」
「……」

「知らない曲だったけど、いい曲だったから。名字さん、よく弾いてたでしょ?」部活に行く前に通路を通ると、よく聴こえてきたのだと彼は言った。まさか聴かれていたとは思っていない私は、驚いて見開いた目から涙が引っ込んで、消えてしまった。

「あれ、は」
「あれは?」
「わ、私の作った、曲…」
「えっ、凄い!」
「全然!…凄くない」
「聴かせてよ。弾いてみせて!」
「嫌だ!む、無理…」
「どうして?」
「どうしてって…」
「とっても素敵な曲なのに!」


「…よくそういう恥ずかしいこと言えるね」
両手を鍵盤に乗せると、照れ隠しみたいに演奏を始めた。題名は無い。私以外は誰も知らない。私しか弾けない。
この曲を作ったのは、小学生の頃だった。毎日夢中になってピアノを弾いていた、ただ好きだからという理由だけしかなかった、あの頃のことだ。
でも理由なんてきっと、それだけで十分だった。

「……おわり」
「すごい!」
「そんなこと、無い」
「だって、名字さん楽しかったでしょう?」
「う、うん」
「俺も楽しかった!」
「…どうもありがとう」


どうして鳳長太郎が、最後の演奏者なのか、わかってしまった気がする。それを認めるのはなんだかとても悔しかったけれど、それでも何故か清々しい気がした。


「ピアノ、楽しいよ」
「…うん」
「練習、辛いなって思ったことも、ある」
「うん」
「けど、ピアノを弾いていない人生なんて考えられない」
「…そっか」
「私、ピアノ弾くのが、好きなの」


「ありがとう」そう笑うと、「やっと笑ってくれた」と、嬉しそうに鳳長太郎は言った。オレンジ色の西日が、第一練習室を包む。私は毎日、ピアノの練習をしながら見るこの部屋の夕焼けが、好きだった。鍵盤がキラキラ光って、音がふわりと弾ける。それは泣きそうなくらい切なくて、眩しくて、愛おしくて、嬉しくて、楽しい。


「俺も好きだよ」


こちらを向く彼の笑った顔も、オレンジ色にキラキラと光っていた。私は何だか切なくて、また泣きそうになった。いつの間にか消えた苛立ちに代わって、私の心は音でいっぱいになる。
鍵盤がキラキラ光って、音がふわりと弾ける。それは泣きそうなくらい切なくて、眩しくて、愛おしくて、嬉しくて、楽しい。

私はその輝きを、もう二度と忘れないだろう。



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