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海に行くのに遠出をする必要は無い。
少し電車に乗って、そして歩いて行けば海岸には直ぐに出られる。神奈川の海は特に綺麗という訳では無かったけれど、足の裏に張り付く砂や波の音だけで、その頃の私達には充分だった。砂浜を歩く時に捲られた彼のズボンの裾から見える脚が綺麗で、思わず自分の其れと見比べてみたりした。レモンイエローのペディキュアに彩られた足で、水飛沫を上げる。彼は全く仕方が無いなという様に、その不思議な位長細い指で本を閉じた。


「裾が濡れた」
「自業自得だろう」
「そうですけれど」
「何だ、俺に非があるとでも?」
「仰っしゃる通りです、先生」


態とらしい溜息を吐いて、両手を横に広げてひらひらとさせてやれば、観念した彼が遂に笑った。
私は其の人、柳蓮二を屡々「先生」と呼んでいた。其れは彼と私の好きな漱石の「こころ」に由来するもので、恐らくは誰しもが一度は教科書で触れた事があるであろう名作である。
私達は良く、鎌倉の海を訪れた。初めて二人でこの海へ来た時分は、其れこそ「先生を探そう」だなどと馬鹿げた理由を携えていて、結局其れらしき人と出会え無かった私が、彼を「先生」と茶化すように呼んだのが始まりであった。


「もう読み終わって、つまらないの」
「何だ、本ならあるぞ?」
「細雪なんて季節外れもいいところ」
「良いんじゃないか、丁度」
「良く無い」


彼は何かしらもっと深い思慮と動機を持っていたのかも知れないけれど、私のは只の知識欲と好奇心だけであると言っても良い。兎に角、本を読み漁った。其れこそ薙ぎ倒す様に、文字通りに読破していったのだ。彼と何処か、張り合おうとすらした。今思えば理解するには程遠い、解釈にまでは至らない読み方ではあったものの、其れは間違い無く自らの人生の糧に為っている。
学生時代に、必死になって本を読むという時期がある事は、非常に讃えるべき事であった。だから、勿論其れだけの為では無いけれど、彼という存在は私の中で貴いものに為っている。


「蓮二は本を読んでいたら?」
「お前はどうする」
「さあ、歩いていれば誰かしら声をかけてくれるでしょう」
「それは厭味か?」
「嫌だわ、計算高いと言ってよ」


波を一蹴りして、悪戯に笑う。彼もまたクスクスと笑った。私は彼とは違って根っからの文系人間だから、計算なんてしてみせてもたかが知れている。其れでも何とか思考回路を叩き起こして、白いコットンワンピースを着てきたのは正解だった。彼のコットンの白いシャツと、揃いの様で、其れが嬉しい。


「人が増えて来たね」
「もう夏だからな」
「嗚呼、私と蓮二だけの海岸が」
「俺しか居なければ誰も声をかけてはくれないぞ?」
「蓮二くんが居れば充分ですよ」
「そうか」


さも当然だとでも言う様に軽く彼が返事をして、其れからまたスボンの裾をもう一捲りした。私達は、二人で此の海に来て、泳いだ事が無い。脚を海水に晒す位なもので、海水浴の時期になったとしても本を読んでは脚だけを海水に付け、また本を読んだ。
彼は真面目な好青年だと何処へ行っても良い評判しか付いて来ない、折り紙付きの男だったけれど、実際はそういう訳でも無かった。例えば海水に脚を晒す私の腕を急に引っ張ってみたり、ひっそりと後ろから近付いてきて、其れで膝かっくんなんて平気でする。一体どういう了見だと吠える私に、済まないと笑って頭を撫でるのが、彼は何より好きなのだ。


「…済まない」
「心にも無い事を」
「ああ、楽しくて仕方が無いな」
「酷い人」
「だが、好きだろう?」


彼は全く子供らしい顔で笑った。
結構な危険人物だ、と常々思う。例えば猫の耳をぱちんと切符切りで一思いに、やってしまいそうな好奇心と悪戯心を持っている。今までそういった事件が起こらなかったのは、彼には充分過ぎる常識と良識があったからだった。彼は時々子供に返った様な顔をするから、何時までも終わらない連載の様に、ずっと見ていたくなる。然も、彼には其れが解っているのか解っていないのかが、解らない。全く厄介だった。


「海の家のお嬢さんって」


少し距離を取って、彼に振り返って叫ぶ。彼はちっとも暑そうな顔をしていないのに、胸のポケットに風を集めて、襟首をパタパタとはためかせながら此処に目をやった。押し寄せる波が、脚を濡らして、波が去れば水滴が弾かれる様に散った。


「今年も居るかな、お嬢さん」
「もうお嬢さんでは無いだろうがな」
「去年三十路って言っていた様な気がするな、うんそうだった」
「十年経つからな」
「長い」


海の家には「お嬢さん」が居る。
彼を見た海の家のお姉さんが、彼に迫った事があったからだった。
その時の事は良く覚えている。彼女を撒いてやれやれといった彼に、私が「下さい、是非下さい!」と茶化したのだ。其れがどう彼の逆鱗に触れたかは知らない。只海に投げ出された事だけは、そうして帰りの電車で好い笑い者になった事は、恐らく一生忘れられないだろうと思う。


「ねえ、どうしてあの時怒ったの?」
「あの時?ああ、俺がお前を海に投げ飛ばした時の事だろうか」
「そうですね」
「…先日見た映画があったろう」
「はい?」
「あれはミスキャストだったな」


彼は時々言葉の足りない事があった。其れは彼と私の理解力の差異か、若しくは彼の意図的な策略に因るものであると思う。彼はパタパタとやっていた其の手を何時の間にか口許へやって、クスクスと笑っていた。爛々と光る太陽が、水面に反射して眩しい。すっかり夏なのだと認識させられる。


「解らないなら良いだろう、俺もお前も充分楽しめた」
「楽しめ無かった」
「確かに俺が子供だった部分があることは認めるが」
「蓮二くんは意外と子供らしい所があるんだから、今だってそう」


「自分では解らないのかも知れないけれど」そう言って目を細めると、後ろ伸ばした手に急に生温い其れが絡みついて、ぐらりと私を揺らした。身体毎沈んで行く。背中から押し寄せた水に突っ込んで行くと、勢い余って宙に放り出された足のレモンイエローのペディキュアが、其れはカーンと冴え渡る様に瞳に映って、そうして彼が其れは愉快そうに、盛大に笑った。
覗き込んでくる彼を呆っと見つめながら、海水に晒された腕が思ったよりずっと気持ちが良いものだったから、笑う彼毎巻き込んで波の中へ埋もれた。

考え無しの悪戯を、彼は怒るだろうか。

然し安心していい。帰りの彼の車の中に、私達を笑う者なんて誰一人居ない。恥ずかしい事は何も無い。何処を捜したって、此処にKは居ない。



残念な事に、私達は幸せな恋愛小説しか紡げ無いのだ。




(100709)
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