消失

そこはとても綺麗な場所だった。塵ひとつ見当たらず、欲さえ上手に消えている。
金色に塗られた黒の淵の襖に隔てられたすぐ隣の部屋では、広がる虚無を埋めようと、哀しい誰かと美しい誰かが交わっている。

哀しい誰かと美しい誰かは嘘をついて作り話みたいに美しい愛の歌を奏でる。
甘くすすり泣くような嬌声が隣から聞こえてくる。
●●ではない、嬌声が。


本能のままに求めるおれに、穢れているのに穢れを知らないように振舞うから、今日も●●に溺れるんだ。


風が水面に映った月を揺らした。
水の匂いが鼻をかすめる。
襖が開いて紅が目に映った。


「●●」そう名を呼んでただお前を求める。
少しだけ開けた襖から、花の匂いが掠めた。
なァ●●、夜は花の匂いが強くなるんだってよ。・・・まるで、お前みたいにな。


おれの首に回された細い腕の香りと花の香りはひどく似ている。
引き寄せて口付ければ湿った吐息と甘い声を漏らす。

おれ達もまた、嘘をついていた。



汗が滲むお互いの身体。部屋中を包み込む乱れた呼吸。大きく揺れる●●の身体。
汗は肌に馴染まず、浮いて流れていく。
・・・まるで、朝露みたいに。

●●はおれからも零れ落ちていく汗を唇で舐めとった。それが嘘を思い出させて、少し乱暴に押し付けた。






乱暴に押し付けられたけれど、エースはひどく優しい口付けを降らせる。
まるで、本当みたいに。

ああ、ほんとうに厭な人。
嘘なのだから、下腹部は疼いて飲み込み合おうとするけれど絶対にひとつになんかなれない。

それなのに、もしかしたらと期待してしまうじゃないの。
ほんとうに厭な人。


上り詰めて、一瞬だけひとつになれたような錯覚を覚える瞬間があるけれど、それが終わればやはり残るのは虚無感。



いつも貴方を待っているのは、あなたが裕福で上客だからという理由だけじゃないの。
汗で張り付いているわたしの前髪をかきあげて、エースは言った。



「外、行かねェか」



乱れた紅の着物を整え直して、襖を開けた。橙の明かりだけが照らすエースはひどく男らしかった。


抱き上げられて、暗い外へと出た。
暗い辺りに紅がよく映える。
ばかみたいに着物だけが綺麗。
それに苦笑しか漏れなかった。


ふとエースにつられて空を見上げれば、雲に隠された月が出てきそうだった。
雲から微かに月明かりが漏れる。
青白い光がわたしたちを照らす。


エースは軽く笑って、縁側に腰を下ろした。
青白い光のせいで顔が青白く見えるエースの隣に座り、その瞳に、惹かれるように触れた。
そっと、撫でた。


エースは拒もうとはせず、くすぐったそうに片目を閉じた。長い睫毛が、ふと指に触れた。


「●●の指、冷たい」


そう小さく呟いたエースは、そっとわたしの手首を掴んで退かせる。
そして手首を掴んだまま、力強くも儚い瞳で、じっとわたしを見つめた。
わたしは困惑を瞳に浮かべて、エースを見る。



「好きだ」



わたしは声だけでなく涙も堪えてじっと黙った。
エースはそんなわたしに確認させるように、「好きだ」「好きだ」「好きだ」何回も囁いた。
じっと、その瞳にわたしだけを映したまま。



ここはとても綺麗なところだ。
けれどどこもかしこも嘘ばっかりで。
わたしも嘘をついている。
愛してなんかいないのに、愛しているわと囁いて、身を焦がすほど愛している人が他にいるのに、あなただけなのと呟いて。
そんなこと言いたい人なんて、ひとりしかいないのに。


ばかね、わたしは。

青白い光は真っ直ぐにわたしたちを照らす。



「・・・●●、●●」



エースが呼ぶわたしの名前。
自分の名前なのに、エースが呼べばこんなにも愛しくてどうしようもなくなる。
エース、エース、エース。愛している、愛しているわと呟けたら、どんなにいいのかしらね。


「好きなんだ」


貴方は哀しいことばかり言うから厭よ。
・・・否、哀しいなんて嘘。嬉しいの。


ゆっくりと月が傾いていく。
このまま太陽が昇っても二人でいられたら、どんなに美しいお話でしょう。
ねえ、エース。


「●●、愛してる、から」


貴方の指は暖かい。
掴まれた手首が嘘みたいに、わたしだけが映っているその瞳が嘘みたいに。



それでもわたしだって、エースだけは嘘にしたくないから、きっと本当なんだと思う。



「●●。おれは、お前だけは、嘘にしたくない。」






(20130312)

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