◎オレンジのため息
白澤がそれを目にしたのは偶然だった。
放課後。
淡いオレンジ色の光がさす教室で、うずくまっている鬼灯を見たのは。
*
加々知 鬼灯。
身長は高めで細身でスタイル抜群。美人だけど性格はキツくて、一部を除いて男からも女からも慕われている。セーラー服とちょい膝下の紺スカート、それにタイツの組み合わせが最高に似合う女の子。
それが彼女の第一印象だった。
違うクラスだから話したことはないけど、女の子の名前は全部白澤の頭に入っているからすぐにそこにいるのが鬼灯だとわかった。
それに鬼灯は白澤の大切な人に似ている。
もう何千年前の話かもわからない。
それだけの時がたって、白澤が人間でなかったころの、とてもとても愛した人。
名前も、顔も、性格さえも全部似ている。性別以外は全て。
………本人の生まれ変わりなのだから当たり前か。
見た瞬間に気付いた。
それはまるで体中に電撃を流したかのように。全身で、ああ鬼灯だと。身体が歓喜に震えた。
抱きしめたいと思ったのだけれど、それはできなかった。
鬼灯が覚えていなかったら、って考えるとどうにも足がすくむ。たぶん、覚えていないと心のどこかで確信してしまっているからこんなことを考えるのだろう。
そして同時に鬼灯が覚えていなくてよかったと、心の底から神に感謝した。
きっと覚えていたら聞かれる。
なぜ死ぬはずのない白澤が、神である白澤が、人と同じように輪廻転生の輪に含まれているのか、と。
そして気付かれる。
なんで自分は鬼だったのに、普通に人として死んだわけではないのに。
なんで自分は今、人間として生きているのだろう?って。
……君は気付かなくていいんだよ。知らなくていいんだ。
この世界は丁だったころのように君を不幸せにするヤツはいないんだから。
だから、だからさ。
今度は、今の白澤をそのまま。
…………好きになってよ
そう思った。だから本当に鬼灯が忘れているのか確認できるまでは近付くわけにはいかない。
と、思っていたのに。
その細い身体を誰もいない教室で震わせている姿を見せられて、自然と足がそちらに動いたのは致し方のないことだ。
近寄っても鬼灯はこっちを向かない。
……気付いていないのか?珍しいこともあるものだ。
さらに近寄っていくと何か柔らかいものを踏んだ感触がした。白澤は下を見る。
………………!!
それを目にして唖然とした。
黒い糸??
いや。
これは、……髪の毛?
誰がどう見ても、それは何度見ても変わらない。落ちていたのは深く黒く地獄の鬼神を思わせる髪だった。
鬼灯を見ると、彼女の肩につくかつかないかの辺りで綺麗に整えられていた髪がバラバラになっている。……ああ、せっかく綺麗だったのに。
いつもは長いポニーテールに隠れた白いうなじが顔を覗かせていて、あの頃と被る。それに目が眩んで。
思わず彼女の髪に手を伸ばした。
びくり、
勢い良く鬼灯は振り返る。
そして、唇を噛んだ。泣くまいと我慢している彼女の意とは裏腹に、目には涙の膜が張っている。
細く鋭いつり目が、これほど弱々しく見えたのは数える程しかない。
身体の底から冷え冷えするほど熱い怒りが込み上げきて、血管を巡った。
「誰に、やられたの?」
「触らないでください!!」
静かな声で尋ねると、鬼灯は我に返ったかのように白澤の手を払い落とした。
威嚇しているのに涙で濡れていては迫力がない。その様にむしろ、もっと抱きしめたいとか。慰めてあげたいとか。別の感情がわくのを鬼灯は頭がいいくせして昔からちっともわかっていない。
「……ねえ、僕いい美容院知ってるんだけど行かない?そこなら僕のツテで個室でも平気だと思うし信用ある人だよ?」
「………………。」
鬼灯は動かない。……それもそうか。
プライドが高いからこんな姿を他人に見せて、同情されたくないのだろう。そんなことをした相手を視線だけで射殺しそうで怖い。
鬼灯は昔から同情とか、哀れみとか、そういう感情が大嫌いだった。
「今から知らない人に会いに行くのは嫌だろうけどさ、……親に説明するほうがイヤでしょ?」
「っ、…………。」
確かこいつの養い親は、優しそうなおばあさんとおじいさんの老夫婦だったはずだ。親は海外にいるとか、バリバリの仕事人だとか。
鬼灯の親だと考えると何とも言えない。やっぱりワーカーホリックか。
鬼灯はますます悔しそうに唇を噛んだ。ちょっと血がでてる。
舐めたい、なんて不謹慎なことを考えつつ白澤は鬼灯の手をそっと引いた。
久しぶりに触れた鬼灯に僕のほうが涙が溢れそうになった。
それを堪えるのに一生懸命になってて鬼灯がどんな顔してたのか、振り向く余裕もなく。
ただ手のひらの温度だけを忘れないように強く、ギュッと握りしめる。
我ながら女々しいなと内心で自嘲した。
*
「こんな感じでいいですかね?」
僕がこの世界で信頼してる数少ない友人の美容師さんがそう尋ねる。
あの頃とまったく同じ髪型にするなんて、この美容師さんの前世はそれなりに鬼灯と関わりがあったのかもなんて思ってしまう。
「コレ、つけてみてよ。」
店を出てすぐ、白澤は簡単な紙袋に入った髪留めを鬼灯に渡した。
髪を切っている最中に近くの少しレトロなアクセサリー店で買ったものだ。
美容院まで行く途中、小さくオレンジ色の石が上品にあしらわれた髪留めに鬼灯の実を重ねて買ったなんて言ったら鬼灯はどんな顔をするんだろう。
それを見かけて目に留めたのが今日だけじゃないって言ったら「ストーカーですか?」なんて真顔で返される気がする。
わあ、容易に想像できた。
「………これは?」
「加々知に似合うと思って。」
「あなた女性にいつもこんなことしてるんですか?貢いでばかりの男性はそのうち財布としか思われなくなりますよ。」
「はは、いつもは違うって。」
“貢ぐのは間違っちゃいないけどさ………、こんなに情を込めてモノを選んで渡すのはお前しかいないよ”
そう言えたら楽なのだけど、それができない。
溢れ出る想いに蓋をして保つ1メートルの距離が歯痒い。
この距離が0になればいいのに。
そうすれば、もっと。
もっとあの時以上にお前を愛してやれるのに。
鬼灯は無言で髪留めを受け取った。
「明日つけてきてよ。」
そう言ったら思いっきり睨まれた。
ギロッと眉間にシワを寄せた鬼灯は耳が赤い真っ白なうさぎみたいになっていて、可愛くて仕方なかった。
*
「ーーなのよっ!!」
女の子特有の甲高い声が放課後の夕暮れ時の色に染まった校舎に響いた。デジャヴを感じる。
白澤はそろりと声の聞こえた教室に近付き、覗き見た。
「あなた昨日白澤くんと一緒にいたでしょ!?昨日散々言ってやったのにまだ懲りないの!!?」
「言うだけではなく髪まで切ってくれましたよね、あなたがた?それに対しての謝罪はないんですか?」
「それはあんたが悪いのよ!白澤くんはあんたを見てるんじゃないの!!勘違いもいい加減にしなさいよ!!!」
「はあ?なんで私がそんなこと?だいたい彼がどこで何を見てようが私にも貴方たちも関係ないでしょう。」
「っ、だからそれがっ!!」
うわぁ、……堂々巡り。
白澤は頭を抱えた。
もしかして鬼灯が昨日女の子たちからやっかみを受けてたのは僕のせいなのかも。
もしかしたら覚えてるかも、とか。
もしかしたら振り向いてくれるかも、とか。
無意識に鬼灯を目で追っていたのかもしれない。しかもそれを周りの女の子たちが気付くくらいだから、けっこうな頻度で。
「白澤くんは皆のものなの!あんたなんか、あんたなんかねぇ!!」
「そうよ!あなたさえいなきゃっ!!」
「……………。」
鬼灯の纏う空気が変わる。
生来、気が短く合理主義で理不尽なことが大嫌いな“もと”鬼なのだ。
むしろよくここまで耐えたと褒めるべきだろう。
「ちょっと!何か言いなさいよ!!」
「……っさい!」
「は?」
「うるっさいんですよ、さっきから!!……だいたい、」
鬼灯は大きく息を吸い込む。
続く言葉に白澤は目を見開いた。
「だいたいあの白豚は昔っから私のモノですっ!!」
それは自分のことを。遠い昔から、愛し合っていたころの白澤を知っていると。そう聞こえた。
あまりのことに動けないでいる白澤と対照的に、女の子たちはさらに顔をしかめて鬼灯を睨みつける。怒りで顔が真っ赤になっていた。
そろそろ鬼灯に手を挙げかねない。
そこらへんの女子高生より怪力でも今は鬼ではないから、鬼灯も怪我くらいする。
ここらへんが潮時だ。
女の子たちが反論する前に。僕はそろりと近寄って鬼灯を後ろから抱きしめた。
女の子たちも鬼灯もギョッと僕を見る。
「ってことだからさ、僕の鬼灯にこれ以上手を出すのはやめてくれるかな?」
ニッコリ。
いつもと変わらない笑顔でそう言うと、女の子たちは怯えて足早と教室から出て行った。
明日から有る事無い事いろいろな噂が流れそうだ。……けど、今はいい。
そんなことを気にする余裕がないくらい、今は鬼灯と話したい。
腕の中に閉じ込めた体温が冷え切った心の底を溶かす。
抱きしめたときにちらりと見えたオレンジがひどく愛おしい。
ああ、本当に。
本物の鬼灯がまた、僕の腕の中に。
僕は鬼灯の肩に顔を埋める。
彼女は黙ってされるがままだ。
「ねえ、鬼灯。知ってたんだ……。」
「………そっちこそ、覚えてたんですね。」
「そりゃあねぇ。僕がただ一人想う恋人だもの。」
「だったら、」
“もう一度、一緒に幸せになりましょう?”
空気を少し震わせただけの言葉を僕は丁寧に拾って。
「うん、結婚もできるね。子供も。」
「馬鹿だけは治んなかったんですね。……気が早すぎでしょう。」
ゆっくり。
これからの時間を。
過ぎ行く日々を。
慈しみ愛そうと、心に決めた。
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