◎狐の碧い石
夢を見る。俺にとっては悪夢。
それは俺の過去でもあって、決して振り払えない夢。忘れられない夢。
「坊ちゃん」
そう呼ぶ声に捕まってたまるか、と俺は全速力で走る。
ヤツはそんな俺を見て笑った。愉快そうに、面白そうにするから癪に障る。
家のしきたりに雁字搦めにされるのは苦ではあったけれど、逃げ出す程ではなかった。だけどヤツのせいでこの家がとてつもなく恐ろしく感じた。
俺の家は旧陰陽師の家だとか、今でもたまにチカラを持った人間が生まれるとかで国に護られ、名門と呼ばれる家や高官の家から贔屓にしてくれと乞い願われる。当主には一家の全権力が与えられ、親戚との関係は当主争いで揉みくちゃだ。
親は息子の幸せは親の幸せとでも言うように、時期当主になるための英才教育を与える。
『貴方のためなのよ。当主になれば貴方は一生幸せになれるわ。』
それが母の口癖だった。
違う、違うんだよ。俺はそんなものより愛情が欲しかった。自由が欲しかった。遊んでくれる相手が欲しかった。
親も同じように育ってきたのだろう。それが“あたりまえ”で“普通”になってしまったのだろう。
そして俺もそれに感化されつつあった。
慣れてしまわなければ辛くて苦しくて仕方なかった。無機質なモノしか与えられない生活が嫌で嫌で死にたかった。
そんなとき。
そんなときだった。
俺があの化け狐と出会ったのは。
*
「栄純、新しい執事を紹介するわ。貴方のお付きだから、部屋はお隣ね。」
お淑やかで軽やかに笑う母の隣に立っていたのは、眼鏡をかけた短髪の若い男だった。
ニコリと笑って丁寧に跪きこうべを垂れる姿が様になるくらい、男は端整な顔立ちをしている。
「この度坊ちゃんに仕えることになりました御幸です。何なりとお申し付けください。」
どこか人間離れした男から目が離せなかった。ニコリと笑うその目にどこか怪しい光が宿っていて、脳が緊急警報を鳴らす。
なのに聡明なはずの母はまるで気付いていない。それどころか随分と気に入っているようで男がどれだけ優秀なのかを説明した。
『だからそれの主の貴方はもっと凄いの。』
締めくくりは同じでも、いつもと違うことくらいわかる。
母に初めて嫌悪感を感じた。
それは得体の知れない男を連れてきて褒め続けることに対してなのか、自分の息子を些か洗脳のように褒めることに対してなのかはわからないけれど。
ともかくその男は俺にとって恐怖だった。
優しげに笑う笑顔の下に、何かを隠している。子供にわかったのに周りはわかってくれない。
「執事なんかいらない。それができないならせめて人を変えてくれ。」
そう伝えても『何を馬鹿なことを言ってるの。』と一蹴されてしまう。
おかしい。
滅多にわがままを言わない俺が、何かを要求すると周りは絶対に叶えてくれるのに。
叶えられない願いをしたことがないだけかもしれないが、それでも丁寧に諭したり、妥協案を受け入れてくれる。それが180度変わる。周りの急激な変化が怖かった。
でも一番怖いのは、俺が「執事を変えてくれ」と言っているのを知っている筈なのに、出会ったとき以上に楽しそうに笑う御幸だった。
なんで誰もわかってくれないの?
そう助けを求める相手がいない。
親はもう駄目だ。何かに取り憑かれた親の皮をかぶった化け物にしか見えない。
本家育ちの俺に仲間なんているはずもなかった。
いつも綺麗な和服を着て、どこぞの高級割烹店の店主の料理を食べて。
そんなのは子供の世界では敬遠されるだけだ。
どうして?
なんでこんなに辛い?
逃げなきゃ。
ここにずっといたら死んでしまう。
死ぬのは自分じゃなくて、名前と心だと思った。
このままここにいてはダメだ。
自分が自分じゃいられなくなる。
ーーあの男に、消される
どうしてそう思ったのかわからない。
ただ、何故か。
何故か昔から俺の勘はよく当たった。
慌てて家出の準備をする。でもバレないように。
細工もしてかなければならない。
偽の戸籍を作って、別に口座を作って。
英才教育も無駄にはならない。
こんな利用方法もあるのだと知った。
物はあまり持ち出さない。
それから探られる危険性もある。
だから地味な服を一着と、財布と、昔から持っていた宝物の碧い石と一緒に家を出た。
父がこの家の宝物庫を整理していたとき、捨てるんだよと見せてくれたガラクタの中で唯一惹かれた。捨ててはいけないと直感した石だった。
ポケットで光るその美しい碧さは明らかに異質だった。
*
それからは普通の高校に通っている。
仲間もできた。
おそらく大々的に捜索されたのだろうが、見つかるはずもない。
俺だって一応、一介の陰陽師で霊媒師だ。いや、俺の場合は霊能力者より異能力者に近いが。
姿を晦ますなんてお手の物。
社会勉強なんて名目を与えて、本家に手紙を送った。
その手紙から辿られないように、念入りに気を消して。
「栄純くん。今日、暇?」
「おー春っちじゃん!暇だけど?」
「東条くんたちとカラオケ行くんだけど来ない?」
「行く行く!」
ここは楽しい。
絶対に崩されたくない、俺の領域。
友達がこんなにくすぐったくて楽しくて、暖かいものなんて知らなかった。バイトで飯を繋ぐ生活も充実している。
後輩の奥村や瀬戸にも声をかけたらしく、カラオケは10人くらいに増えた。
メインは東条のももクロであること間違いなしなので店にマラカスやタンバリンを借りて皆で盛り上がる。
毎日が楽しかった。
過去が夢であるかのような錯覚に陥いりそうになる。いや、陥ってしまいたかった。
でもあの石が、そうはさせてくれない。
自分は普通の人間ではないのだと、あの家の人間なのだと。
帰り際、ふと思った。
あの石は何なのだろう。
父が捨てようとしたとき、捨ててはいけない気がした。
家を出た後も、手放そうとは思えなかった。
由来なんてまったく知らないのに、それがとても大切なもののように扱っている。
なんで大切なのかわからないのに大切にしているなんておかしな話だ。
帰りは皆バラバラになり家が近い人と途中まで帰った。
だから東条と奥村と三人ですっかり日も落ちたネオン街を歩く。
基本話さないタイプの奥村とたくさん話すタイプの俺。中間の東条となかなか面白い組み合わせだと思う。
「俺、ももクロよりAKB派なんで」と東条の前で言おうとした奥村の口を慌てて塞いだり、抱きついて引きずられてじゃれあったり。
こんな幸せな日がずっと続くと信じていた。
*
突然だった。
俺の平穏が崩れるのは。
朝、学校に行ったら同じクラスに黒い悪魔が転校してきただけ。
その緩やかな笑顔に目を見開いた。
だってその顔は、俺がずっと恐怖して逃げ出してしまいたくなるほど怖くて、ついには逃げ出す原因となったあの男と瓜二つだったから。
あの男の親戚?
俺を捕まえにきたのか?
冷や汗をだらりと流す俺と反対に、クラスの女子は色めき立った。
それもそうだろう。ヤツはかなりのイケメンだ。
そしてヤツは突然行動に出た。
「お久しぶりですね、坊ちゃん。」
跪いたのだ。
教室のど真ん中で。凛とした声で。
ああ、終わった。
俺の人生のバカンス終了だ。
いつも連んでる春っちや東条は唖然と状況を把握しきれないみたいでポカンとこっちを振り返った。
他全員も興味津々にこっちを見てる。
同い年のイケメンから坊ちゃん呼びで跪かれるって、どんな羞恥プレイなんだろう?
「何しにきた?」
思ったより低い声がでた。
クラス内でビクッと動く気配を感じて、しまったと思う。
でも本当にビクついてほしい男は涼しい顔して悠然と上品な微笑みを浮かべている。
腹立たしい男だ。
こいつがヤツの親戚なのかもという考えは一瞬で消えた。
こいつはヤツ自身だ。
じゃなかったら脳にこんな警報は響いてない。
はて、どうしようか。
迷った末に俺がとった行動は、話し合いという何とも平和なものだった。
*
学校の屋上。
俺と御幸だけ。
あたりは不気味な程に静まりかえっている。空に鴉が飛んで、さらに不気味さを強調していた。
「何のよう?」
俺はさっきと同じ質問をした。
御幸はニヤリと笑って、大袈裟に拍手する。
「さすがは坊ちゃん。あっさり気付いてしまいましたか。」
ニヒルに笑うそいつが気に食わない。あと、イケメン滅びろ。
だいたいアンバランスなんだよ。
「お前の敬語はわざとらしくてイヤ。ここは誰もいないから普通に話せよ。」
そう静かに言うと御幸は目を丸くして、今度は肩を揺らして笑い始めた。忙しいヤツ。
「それではお言葉に甘えて。やっぱおもしれぇなあ、お前。」
クスクスと右手の指先を口元を覆うようにあてて。
なんなんだ、コイツは?
了承はしたがいきなり砕けすぎじゃないのか。
「何でわかったの?俺だって。」
「直感でわかんだよ、お前なんか。」
「さすがさすが。家内一の霊力をお持ちで。」
「……………。」
言い方に腹が立つが、それを無理矢理心の内に閉じ込める。
「で、用件は。」
「あー、そうそう。二つあるからよく聞いてね。……現当主が病気で余命わずかだから、次期投手争いが始まるよん。だから戻ってこいってさ。」
二ヒヒと奇妙な笑い付きで言われたことは、そんな軽く言ってしまえるようなことではなかった。
は?
お爺様が病気?
次期当主争い?
なんだそりゃ?
ちょっといきなり過ぎやしないか?
「知らねぇよ。お前はさっさとここから出てけ。」
とりあえず学校が終わったら、家の内情を探ろう。
そう思って、言った言葉だった。
屋上から出るためにそそくさと横を通り過ぎようとした瞬間、
視界が反転する。
背中に刺さるような痛みが走った。
目の前には真っ青な空と、御幸の表情のない顔が写る。
「はあ、いい加減にしてくんねぇ?それじゃあ俺が困るんだよ。」
聞いたことがない声色だった。
ヤバいと暴れようとするも足で無理矢理押さえつけられる。
手首も両手で拘束されていて、どんなにもがいても動けない。
そうだ、コイツは人間じゃないんだった。今、進行形で若返っているのがその証拠だ。
「ねえ、俺の一族さあ。昔、お前ん家に祓われたんだよね。」
「……………。」
「まあ、それなりに悪さしてたし。別に報復ってわけじゃないんだけど、その残骸まで奪われちゃね……さすがに可哀想かなって取りにきたの。言ってるイミわかる?」
「っ、アンタ何が目的なんだよっ!!」
耳元で叫んでやると、御幸はチシャ猫のように目を細めた。
「あいつらさぁ、封印用の石に封じられてるはずなんだよね。ソレ本家にあるはずなんだけど。…確か当主サマに全ての権利が与えられるんだったよねぇ。」
「俺に当主になれってか?俺じゃなくったって、直接交渉すりゃあいいだろ。」
「おお、よくわかってんじゃん!でもその石って特別チカラが強い奴じゃないといけねーらしーの。」
「………………。」
なにか、頭にピンときた。
え?特別な石?
「お前にその石さえ渡せばお前は俺ん家から出てくのかよ。」
「……んー。まあ出て行ってあげてもいいよ。」
「絶対だな。約束守れよ!!」
「石見つける算段でもあんのー?」
不思議そうな顔する御幸にドヤ顔で笑ってやる。
「スラックスの左ポケット。」
「へ?」
「いいから探ってみろよ。」
わざわざちゃんと拘束してた手を一纏めに上に縫い付けて、空いた御幸の右手が俺のポケットを探る。
擽ったいが我慢だ。
「これ……、え?なんで持ってんの?」
「はっ。ソレだろ、石って。あんま俺をナメんなよ。」
「へぇー、やっぱお前面白いわ。……うん。」
再びニヤニヤ笑う御幸に嫌な予感がする。脳が警報を鳴らした。
「さっさとどけよ。もう用はねぇだろ。」
「……うーん。」
煮え切らない返事に腹が立つ。
意識がこっちを向いてない今なら行けんじゃないかと思いっきり抵抗してみた。
「おっと!」
ぶちゅ
御幸がバランスを崩した瞬間。
明らかに意図的にこっちに倒れ込んできて、ヤツと俺の口が音を立てて重なった。
「っ、んぎゃあああああ!!!!てめぇっ!祓ってやるっ!!!」
顔面蒼白。
物理的に手をあげようとして、違和感に気付く。
ヤツの顔の前でするりと力が抜けてしまうのだ。
これは、もしや……
「今のキス、契約のチューだから。これからよろしくな!栄純!」
「やっぱりか!!!ざけんなぁああああああ!!!!!!」
サイアクだ。
ヤツの後ろに見えた狐の尻尾に、俺は頭を抱えるしかなかった。
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