ふらりと風のように現れては、手の中からすり抜けていく。俺にとって千歳千里とはそういう人間だった。
だから、平日のしかもまだ授業中であろう時間に彼が現れたことになんの疑問も持たなかった。
へらりと笑いがなら片手を挙げて、久しぶり、という彼の姿を見たのはもう一年以上前か。
その時もふらりと現れて、右目の怪我を治すために大阪に行くと言っていた。
だから、別に大阪じゃなくて神奈川でも治せるだろう。お前の実力なら俺の学校でもやっていける。そう言ったら今と何ら変わらない笑顔で、「もう決めたこつやけんごめんね」と言ってくれた。
昔から頑固で一度決めたことは絶対に聞かない、…知っていたからこそ寂しかった。
俺が九州に居たころは橘に依存して、今度は俺ではなく大阪の奴に依存するのかと。
どんなに頑張っても、俺には頼らない彼が、千歳が、嫌いだ。ふらりと現れてこんなにも心を掻き乱す。

「…ね、まさ。散歩しとおない?一緒に行かんね?」
「……待っときんしゃい。着替えてくるナリ」

ハァ、と聞こえるようにため息を吐いてやっても気にした様子は無く、ニコニコと笑みを絶やさず玄関で待つ千歳。もう一度聞こえるようにため息を吐き足早に部屋に戻っては、寝間着から着替える。適当に身繕い急いで玄関まで戻ればそこにはもう千歳の姿はなかった。
急いで扉を開けて追い掛けようと外へ飛び出せば、驚くほど近くに、寧ろ玄関の目の前にいて思わず拍子抜けした。
焦って損をした気分だ。俺も充分自由気ままだが、千歳には勝てないと思っている。

自然と出てしまうため息は憂鬱からか、はたまた安堵のため息か。きっと後者だろう。
全くもって俺らしくない。
脅かしてやろうかと一瞬頭をよぎったが、どうせ千歳に効きはしないのだ。諦めてゆっくり近付けばデカイ図体を縮こめて、楽しそうに何かに話し掛けている。
上から覗き込んでみれば、彼の足元には黄金色の毛並みをした猫がいた。
人馴れしているのが、見ず知らずの千歳に素直に撫でられた挙げ句ゴロゴロと喉まで鳴らし出した。どこまで許しているんだ。
元来ひねくれものと称されてる俺には他人にここまで気を許せるなんて有り得ない。猫とはこんなに警戒心の薄い生き物だっただろうか?それとも、猫が悪いんではなくて千歳の柔らかな空気が猫にも伝わっているのだろうか。
現に俺が触れようとすると鳴らしていた喉を止め、爪を起てようと準備をしているのがありありとわかった。
別に触れたい訳でもないしと、伸ばした手を戻そうとしたがしゃがんでいる千歳の頭が目に入り無意識に撫でてしまった。
自分自身その行動が不思議で撫でられた千歳と二人きょとんとしてしまう。
いやいや、なにやってるんだろう。

「…なんね?珍しかこつしよんね」
「あー…すまんの、つい、じゃ」
「ふふ、…それよか猫さんむしゃんむぞらしかね」
「ほうかのー?」

気付いているんだかいないんだかわからないが、なんとか誤魔化せたみたいだ。変なところで勘がいいからこいつには下手に嘘をつけない。
相変わらず千歳に媚びを売るようにゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄っている猫がふと視線を上げ、俺と目が合うと、にゃあと見た目にそぐわない低い声で鳴いた。
なんとなくそれが、いつも一緒にいたもう一人の友人のようで。きっと黄金色の毛並みがそんなことを思い出させたのだろう。
千歳を、置いていってしまった彼の、橘のことを思い出すなんて。
俺は千歳に依存される橘が羨ましくて、二人の間に入れる気がしなくて、その場から逃げたのだから。

「…まさ?」

無意識に猫を睨んでいたのか、不思議そうな顔をしてる千歳に呼び掛けられ思考が戻った。
ふるふると首を振って今思い出したことを忘れようとする。

「まさも猫さんみたいやね」
「…プリッ。それよかお前さんはこんなとこまで何の用ナリ」

にこりと一度微笑みを向けまた猫へと視線を戻す千歳。
そよそよと風が吹き乱れた髪を耳にかける。そんな仕草に堪らなく鼓動が高鳴る。

「…俺ね、高校も大阪の方行くことにしたと」
「…ほうか」
「うん、ごめんね」

ぽつりと漏らされた言葉を聞き逃す訳がなく、ああやっぱりと思う気持ちのが大きかった。
ドキドキと高鳴っていた鼓動は先程と打って変わって平常心を取り戻していた。
幾度となくこちらの高校を受験すればいいと誘ったことか。
その都度愛想笑いを浮かべて無言の拒絶を受けたことか。
やはり千歳は俺ではなく、橘でもない新しい拠り所を見つけたのだろう。

「…まさも桔平のことも好いとうよ。だけん、大阪には俺が居らんと淋しい言うてくれるやつが居るたい」

見たことがない程優しく綺麗にそれに愛おしそうに笑う千歳にかける言葉が思い付かず口を噤む。
そんな顔見たことない。誰を想っているの?

どれぐらい無言の時が続いたかはわからないが、猫を撫でるのをやめ、ゆっくりと千歳が立ち上った。その衝撃でカランと下駄が地面と擦れる軽い音がした。
そして何も言わない俺に、来たときと同じように、変わらない笑顔を見せ別れの言葉を告げて千歳は帰っていた。
俺はといえば小さくなっていく千歳の背中を追い掛けることも、声をかけることも出来ずにただ見送るだけだった。


( 俺が"淋しい"と言えば側にいてくれるんですか? )

小さく溢した言葉は届くはずがなく、風に紛れて消えた。

( 後悔の追憶 )



におちとなのかなんなのか…練習なので許してくださいorz仁王にとって猫の毛色は橘に見えたけど、千歳にはもう謙也にしか見えなかったって裏話があります。入れたかったけど入る場所なかった。尻切れ蜻蛉なのはいつものことです。
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