じぃちゃんが死んだ。
しんしんと雪のふる、寒い夜だった。



じぃちゃんが寝たきりになったのは三年前のことだ。脳溢血で倒れ、左半身に麻痺が残った。
病院で最初にじぃちゃんを見た時のことは忘れられない。元々小さかったけれど、こんなに細かっただろうか。前父さんが盲腸で入院した時は小さかったベッドが、とても広く見えた。

「来てくれたのかぁ」

じぃちゃんは見舞いに来たおれを見て、弱々しく笑った。そういえばいつも微笑んでいた人だったように思う。目尻の皺がずいぶん深かった。


一人暮らしだったじぃちゃんは、退院した後家で介護されるようになった。母さんは迷惑そうな顔を隠さなかった。父さんは自分の父親なのに、何も言わなかった。
じぃちゃんは二階の一番奥の元物置部屋で暮すようになった。元と言っても少し片づけたくらいで、じぃちゃんは埃をかぶったおもちゃやアルバムに埋もれて寝ていた。
じぃちゃんの部屋からは、いつもぷんと鼻をつく嫌な臭いが漂っていた。母さんがじぃちゃんのオムツを一日に一回しか変えなかったからだ。尿や糞が垂れ流しだったじぃちゃんの尻はいつもかぶれていたけれど、じぃちゃんは文句一つ言わずただ黙って眠っていた。


おれは母さんからじぃちゃんに晩御飯を食べさせる役目を命じられた。嫌だったけれど毎月のお小遣いを千円上げるという魅力的な申し出には抗えなかった。
おれは早く終わらせたくて、じぃちゃんの部屋ではいつもテキパキと動いた。普段の自分じゃない、まるでロボットみたいだった。ご飯を食べさせて、水を飲ませて、口を拭う。慣れてしまえばどうってことなかった。おれは「じぃちゃんおいしい?」「大丈夫?」などの言葉をかけることもなく、淡々と仕事をこなしていた。それでも食べさせ終えるとじぃちゃんはいつも「すまんなぁ」と謝っていた。
じぃちゃんはおれを「ゆうたぁ」と呼んだ。語尾をだらしなく伸ばして、歯のない口から見える蛞蝓みたいな舌が気持ち悪かった。  
おれはじぃちゃんにラジオを与えた。じぃちゃんがおれの名前を呼ばなくていいように。耳が遠いだろうと、音量はいつも最大にした。もしかしたらうるさかったかもしれない。でもじぃちゃんは何も言わず、へにゃ、とした笑顔で「ありがとうなぁ」と言っただけだった。その時何か感じたような気がするけれど、もう覚えていない。



じぃちゃんが死ぬ前の日、じぃちゃんの部屋から「ゆうたぁ」とおれを呼ぶ声が聞こえてきた。入ろうか迷ったけれど、キィとドアを開けた。

「なに」

自分でも驚くくらいつめたくて怯えた声だった。
じぃちゃんが「ちょっとおいで」とおれを手招きした。その白く細い手が、いらなくなって切られた枯れ枝みたいだと思った。ベッドに近づくと、じぃちゃんは膝の上で握っていた右手をゆっくりと開いた。誰が渡したのか、じぃちゃんの手のひらには小さな栗饅頭があった。ずっと握っていたのか、少し萎んでいた。

「あげるから、食べなさい。おいしいよ」

そんなのいらないよ。そう言いそうになったのを堪えて、栗饅頭を受け取った。栗饅頭は生温かくて、じぃちゃんの体温だと思った。じぃちゃんは嬉しそうに、目がなくなるくらいくしゃくしゃに微笑んだ。

「いい子だなぁ、ゆうたぁ」
「用がそれだけなら、もう行く」

そう言って踵を返した。部屋を出る時「ゆうたぁ」ともう一度小さな声で呼ばれたけれど、もう振り向かなかった。栗饅頭はゴミ箱に捨てた。



じぃちゃんが死んでいるのを見つけたのは母さんだった。おれが降り始めた初雪を、窓から見て楽しんでいた時だった。

「おじいちゃんがベッドで死んでる」

その時思ったのは、ああやっとか…だったと思う。母さんも、おそらく父さんもそう思っていた。
それから救急車と警察が来て、家が騒がしくなった。その後のことはよく覚えていない。ただ時間が過ぎるのだけが速くて、人は死ぬとこんなにあっけないんだと思った。通夜は滞りなく行われ、母さんと父さんは親戚の相手をしている。おれはというと、じぃちゃんと和室でふたりきりだ。
じぃちゃんは棺の中で真っ白な死に装束を着て寝ている。寝ている姿ばかり見ているなとなんの感慨もなく思う。棺の蓋を開けて、そっとじぃちゃんのほおに触れてみた。ひんやりとつめたい。そういえばじぃちゃんは寒がりだったと、ふと思い出した。
喪服のポケットから、一枚の写真を取り出す。「おじいちゃん、ずっと枕の下に入れてたみたいよ。持ってなさい」とさっき母さんから渡されたものだった。写真にはじぃちゃんと五歳くらいの小さなおれが写っている。おれはじぃちゃんに抱かれて、むすっと今にも泣きそうな顔をしていた。じぃちゃんはカメラに向かって笑っている。写真を撮ったのはきっと父さんだろう。写真のじぃちゃんはがっしりとした体で、日焼けしていた。髪はまだ残っていて、歯も白い。今の小さく白いじぃちゃんとは大違いだった。

「…じぃちゃん」

久しぶりに呼んでみた。その単語自体忘れていたような、懐かしい気持ちになる。胸が苦しい。
何年ぶりだろう。いつから愛せなくなったんだろう。なぜ死は三年前鮮やかに過ぎ去らなかったのだろう。
おぶってくれた広い背中を思い出す。頭をなでるかわいた手を思い出す。じぃちゃんはもう、あの歯のない口で「ゆうたぁ」とおれを呼ばない。



しんしんと降る雪は明日にはつもるだろう。じぃちゃんはさらに小さく白くなるんだろう。じぃちゃんはもう寒くない。










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