さようなら、と言うには遅すぎたようで、きみはもう電車に轢かれていた。隣に立っていた女性が甲高い悲鳴を上げた。ギギギギギギ、、と激しいブレーキ音。今この瞬間にも、きみはぶちぶちとちぎれているのだろう。頬に飛んだ肉片は、きみの指よりも温かかった。 「明日、死ぬことにしたの」 ふたりきりの図書室できみがそう言った時、ぼくは数学の予習をしていた。集中すると何も聞こえなくなるぼくの癖をきみは知っていたから、返事はしなかった。ら、頬を強くつねられた。 「いひゃい、いひゃいよ」 「聞こえないふりしないで」 「痛てて…なんでわかった?」 「一瞬目が泳いだの。清瀬って本当に聞こえてない時は、何も動かないから」 驚いた。きみは思うよりずっと、ぼくを見て、ぼくを知っていたらしい。ぼくは諦めて、教科書とノートを閉じた。 「で、なんだっけ?」 「だから、明日死ぬことにしたの」 「なんで…って言うのは愚問かな」 「そうね」 馬鹿にしたように笑ったきみのセーラー服の襟元から覗く青紫の痣。それが何を意味するのかわからないほど、ぼくは子供ではなかった。だけど気づいていたのは、恐らくぼくだけだった。きみには友人がいなかった。生徒も先生もきみを奇異なものとして認識していた。それは髪が赤いからとか、テストを白紙で提出するからとか、両腕に無数の切り傷があるからとか、そんな普通の、くだらない、けれど正しい理由からだった。 ぼくの視線を辿ったかのようにきみは言った。 「昨日も、殴られて蹴られて、犯された」 最初に聞いた時の衝撃はもうなかった。だけどそれは、慣れてはいけないことだった。きみも、ぼくも。 「だから、もう、死ぬの」 きみの誓いの前で、ぼくが言えることなど何もなかった。引き止めるには、ぼくたちの間には何もなさすぎた。ぼくはきみを愛していなかったし、きみがいなくても生きていけるとわかっていた。ただ少しさみしくなるだけ。死ぬのがぼくでも同じで、哀れむべきは、ふたりがそれに気づいていたことだった。 「…どうやって死ぬの?」 だからぼくは、こんなどうでもいい、下世話な質問しかできなかった。でもその質問を待っていたかのように、きみは嬉しそうに目を細めて笑った。 「電車に飛び込むの」 「飛び込み自殺? どうして?」 「あれって遺族にすごい金額の請求がいくんでしょ? あいつらが一生苦しめばいいなと思って」 きみが電車に飛び込むと迷惑がかかる人がたくさんいるよ、と言いたかったけれど堪えた。他人を思いやることができない。それがきみの絶望だった。 ふふふ、と酔ったように笑ったきみは、滑稽で、可哀想だった。死がとてもやさしいと知ってしまった人間は、今この瞬間どれだけいるんだろう。きみ以外いませんように、と、心から願った。 「…ねぇ」 きみはふいに笑うのをやめ、紫のマニキュアが塗られた人差し指でノートの表紙に書かれたぼくの名前をなぞった。 「ひとつだけ、お願いがあるの」 そうしてきみは死んだ。最後に微笑んで、望みどおり電車に飛び込んだ。 きみはもうきっと、きみのことなど覚えていないだろう。きみが憎んだ唇も、左足の親指も、乳房も、膣も、もうきっとぐちゃぐちゃになっているだろう。死体を片付ける駅員も、簡単な捜査をする警察も、迷惑を被った人たちも、いつか忘れて、きみはただの事象になる。だからぼくが覚えている。器用に本のページをめくる紫のマニキュアが塗られた指も、痛んでぱさぱさだった枝毛だらけの赤い髪も、今にも泣き出しそうに歪んだ笑顔も、ただの肉片になってしまったきみも。 『忘れないで』 それはふたりの約束になった。きみを救えなかったぼくも、それだけは正しく守るよ。 だからきみは忘れていい。もう、くるしまなくて、もう、なかなくて、いいよ。 ぼくが覚えている。ぼくが覚えていく。 ← |