逃げ出したんです。やさしい人たちから。 逃げ出したんです。ユウに安らぎを与えてくれる、あの清潔な白い場所から。 骨を塗りこめたみたいに白い壁。小さな錠剤が散らばるシーツ。ユウの腕を侵す青い痣。許されない私たちの天国。 「痛ててて」 ユウはとても痛がりだ。運動会のリレーで転んだ時、彫刻刀で指を切った時、深爪した時、ユウは私が呆れるくらい痛がって泣いた。『男の子なんだから我慢しなさい』とユウのお母さんが叱る度、ユウは悔しそうに唇を噛んだ。乾燥したユウの唇は、そんな小さな刺激にも耐えられずに切れ、流れた血を見てユウはまた泣いた。ティッシュでユウの唇を拭ってやりながら私は『男の子の唇って繊細なんだ』と場違いなことを考えていた。今はもう、遠い記憶。 「痛いんだけど。余ってんのない?」 「散らばってるので最後だと思うよ。ユウ、飲みすぎ」 「だってさぁ、耐えらんないよこの痛みは」 ユウは痛がりだけど、今はよく我慢していると思う。だってもうユウの体は壊れかけていて、薬が完全に切れれば言葉にできないほどの激痛が襲うのだろう。ユウはもう生きてるんじゃなくて、ゆるやかに死んでいく人間なのだ。 「眠っちゃおうよ。寝たらわかんなくなるよ」 「寝て消えるかって。まず痛くて寝れないし」 「ユウのへたれ」 「なんだと」 しわくちゃになっていたシーツを引っ張ってくるまる。陽の光に照らされた布はあたたかくてやわらかい。 「痛ぇ」 ユウがまたぽつりと呟いた。ぐい、と強く引き寄せられ、唇が重なる。口寂しい時の飴玉みたいなキスは、いつも少し苦い。 やさしくない抱擁。深くなる口づけ。 ユウの肺も、筋肉も、脳だってきっともうぼろぼろなのに。腕に食い込む欠けた長い爪とか、生き物みたいに蠢く舌とか、そんなものばかりがやけに愛しかった。 『天国みたいだね』 そう言って笑ったふたりは、今もここにいる。 「愛してる」 そんな言葉背負わなくていいよ。最後の言葉は遺さなくていいよ。 ただ膝を折って、くずれおちるように、よりそって。 「なぁ」 「なに?」 「おれが死んだら、お前は戻れよ」 「……うん」 空は青くて。 部屋は白くて。 陽射しはあたたかくて。 ユウと私がいて。 悲しいことなんて何もない。 私たちの天国は、いつもやさしい。 ← |