目を開けると白い世界だった。見渡す限り空も地面も白、いや、そもそも地平線が見えない。地平線が、ない。今立っている場所が何処かわからない。まるで球体の中にいるようだ。

「どちらか選んでください」

背後から聞こえた声に振り向くと、白い服を着た同じ顔の少年と少女が立っていた。

「…ぼくに言った?」
「はい。ぼくたちのどちらか選んでください」
「選ぶ?…というか此処が何処かわからないんだけど。此処は何処?君たちは誰?」

「わたしは幸福」

と少女は言った。

「ぼくは不幸」

と少年は言った。

「幸福?不幸?変な名前だね」
「どちらか選んでください。そうしないと、生まれない」
「なにが?」
「世界が」
「世界?」
「そう。さぁ、選んでください」

どういうことか全くわからないが、とりあえずぼくは選ばなくてはいけないらしい。

「…じゃあ、幸福にしようかな。不幸よりはいいだろう」

ぼくが言うと、幸福という名の少女がぼくに手を差し出してきた。少女の手のひらは小さく白かった。そして、手相がなかった。

「きみ、手相が…」
「わたしと手を繋いでください」

この双子はぼくの言葉を聞く耳を持たないらしい。諦めにも似た思いを抱いて、言われたとおりに少女と手を繋いだ。少女の手のひらは大理石のように冷たく滑らかで、やはり手相や指紋の皺は感じなかった。

「さよなら、不幸」

少女が振り返って少年に言った。少年は無表情のまま「さよなら、幸福」と返した。

「きみたちは、いったい…」

次の瞬間、白く強いひかりが放たれ、あまりの眩しさに目を瞑った。目を開けた時、少年の姿はなかった。ぼくと少女は、花畑の中に立っていた。

「ここは…?」
「ここは、わたしとあなたの世界です」

空は白かった。地面も柔らかい土ではなく、白い石のようだった。ただ花だけが咲き誇り、鮮やかな色を魅せていた。ガーベラ。ブーゲンビリア。ラナンキュラス。コスモス。マリーゴールド。数えきれないほどの花、花、花。

「さぁ、遊びましょう」

初めて、少女が笑ったのを見た。





それからどれほどの時間が経ったのだろう。ぼくと幸福はまだ花畑の中にいる。空は相変わらず白くて、太陽も水もないのに花は咲き続けている。朝も夜もないこの不思議な世界に、もう慣れてしまった。いや、ぼくもこの不思議な世界の一部なのだろう。ぼくは空腹も眠気も感じることがなかった。

「どうしました?」

ぱさ、と幸福が座っているぼくの頭に花冠を乗せた。幸福は花を摘んで冠や首飾りを作るのが好きらしい。花が枯れないので、ぼくと幸福の周りには花冠と首飾りの輪ができている。

「なんでもないよ。きれいだね、ありがとう」

にこ、と笑う幸福は、最初会った時の無表情が嘘のように子どもらしい。

「幸せですか?」

花畑に来てから、幸福は幾度となくその質問をする。ぼくを喜ばせようと、楽しませようとしている。初めは溢れる花、幸福の笑顔、穏やかに流れる時間に、不思議な世界であることも忘れて幸せを感じていた。けれど、今は。

「……」
「幸せではないのですか?」

初めて幸福が不安げな顔をした。ぼくの顔を覗き込んでくる。

「幸せ…なんだけどね」

何かが足りない。物足りない。この幸せな時間に、そう、飽きてしまった。

「幸福、ぼくを最初の場所に戻してくれないか」
「なぜ?」
「ぼくは、不幸を選んでみたい」

じっと、幸福がぼくを見つめてくる。瞬きもせず、ぼくの中にある何かを探るように。

「それでいいのですか?」
「うん」
「わかりました。では、手を」

ここに来た時と同じように、幸福が手を伸ばす。その手を握ると、また、白いひかりに包まれた。




ぼくたちは最初の場所に戻っていた。白い球体の中にいるような、不思議な場所。
不幸は、ぼくたちに背を向けてうずくまっていた。

「不幸」

幸福が呼びかけると、不幸は長い眠りから覚めたような緩慢な動きで立ち上がった。幸福がぼくの手を離して、不幸に近づく。

「幸福、どうしたのですか?」
「彼が、あなたを選びたいと言ったのです」
「ぼくを?」

不幸がぼくに視線を向けた時、ぼくは幸福と不幸の違いに気付いた。幸福は透き通った薄茶色の瞳を持っている。けれど不幸の瞳の色は、濁った水のような澱んだ黒だ。

「では、手を」

不幸が手を伸ばす。いいのだろうか、と思いつつも、手を繋いだ。不幸の手は、幸福のそれと同じく、冷たく滑らかだった。

「さよなら、幸福」
「さよなら、不幸」

そして、ぼくと不幸は黒い闇に包まれた。
そこは暗闇だった。かろうじてぼくと不幸が見えるくらいの、何もない、果てのない、闇。不幸がぼくを見上げて言った。

「ここが、ぼくとあなたの世界です」

不幸は、笑わなかった。





ここが水の中であることに気づいたのはそれから少し経ってからだった。冷たさは感じないが、呼吸をすると口や鼻から泡が出て、身体を動かすとまとわりつくような重い感触がある。
ぼくと不幸の時間は、幸福との時間よりずっと辛いものだった。不幸はずっと膝を抱えて座り、こぽこぽと鼻から泡を出しながらぼくを見つめていた。大きな瞳がぎょろぎょろと動く様は、死んだ魚の目を思い出させて薄気味悪い。
沈黙を持て余して暗闇に手を伸ばしてみても、何も掴めない。指先の輪郭が闇に滲んで、見失いそうになる。

「不幸ですか?」

不幸が話すことといえばその質問くらいだった。

「不幸だよ」
「そうですか」

「不幸だよ」「不幸じゃないよ」「うるさいよ」ぼくのどんな答えにも、不幸の反応はいつも同じだった。悲しそうな顔も、嬉しそうな顔もせず、ぎょろ、とぼくを見つめるだけ。

「不幸、ぼくは、戻りたい」

もう、耐えられなかった。

「幸福といた場所にですか?」

口からこぽこぽと泡を出して不幸が言った。

「いや、最初の場所に」
「それでいいのですか?」
「うん」
「わかりました。では、手を」

ここに来た時と同じように、不幸が手を伸ばす。手を繋ぐと、暗闇がゆらりと揺らいだ気がした。




幸福は、不幸と同じようにぼくたちに背を向けてうずくまっていた。

「幸福」

と不幸が呼びかける。立ち上がり振り向いた幸福に、笑顔はなかった。
する、とぼくの手を離した不幸が、幸福の隣に並んだ。初めて会った時のように、ふたりはぼくを無表情で見ていた。

「わたしは幸福」

と幸福が言った。

「ぼくは不幸」

と不幸が言った。

「どちらか選んでください」

ふたりがぼくに手を差し出す。ぼくは自分がどうすべきか、もう決めていた。

「…なぜそうするのですか?」

不幸が言った。
ぼくは、ふたりの手を握っていた。

「ぼくは、ふたりとも選ぶよ」
「なぜですか?」
「ぼくは、ひとりだけじゃ足りない。幸福がいないと辛い。でも不幸がいないと幸福を感じることができない。人は、いや、生き物は、みんなきっとそうだよ」

不幸と幸福は、不思議そうな顔でぼくを見上げていた。

「不幸、幸福。きみたちも手を繋いで」

そこで初めて不幸と幸福は、自分の片方の手が空いていることに気づいたようだった。自分の手と相手の顔に何度も視線を向けて、何かを確認するように、相手の頬に触れた。その触れ方があまりにたどたどしくて、もしかするとふたりは初めて触れ合うのかもしれない。

「あなたが不幸」
「あなたが幸福」

ふたりが手を繋いだ。輪になった三人を確認して、ぼくはなんだか嬉しくなった。

「ねぇ、踊ってみようか」
「踊るとはなんですか?」
「三人でステップするんだ。時計回りに動くよ、さぁ」

ぐい、とぼくはふたりの手を引いて、動き出した。引かれた幸福と不幸も、足を動かし始める。
タタン、タン、タタン。
タタン、タン、タン。
タン、タン、タン。
拙いながら踊り続けていると、リズムが生まれ始めた。


ステップ、ステップ、ステップ。
くるくる。くるくる。くるくる。
ステップ、ステップ、ステップ。
くるくる。くるくる。くるくる。


ふと気づくと、足元に浅い海ができていた。足を動かす度、冷たい飛沫が跳ねる。


ステップ、ステップ、ステップ。
パシャン、パシャン、パシャン。
くるくる。くるくる。くるくる。
ステップ、ステップ、ステップ。
パシャン、パシャン、パシャン。
くるくる。くるくる。くるくる。


またふと気づくと、浅い海に膝くらいの高さの花々が生えていた。足を動かす度、花と茎と葉の柔らかな感触があたる。


ステップ、ステップ、ステップ。
パシャン、パシャン、パシャン。
パサ、パサ、パサ。
くるくる。くるくる。くるくる。


踊り続けるぼくたちから風が生まれ、飛び立っていく。

「もっと、もっと、踊ろう」


ステップ、ステップ、ステップ。
パシャン、パシャン、パシャン。
パサ、パサ、パサ。
くるくる。くるくる。くるくる。


見上げると空は白ではなく、群青色、赤色、橙色、黄色の空に変わっていた。まるでこれから絵の具を混ぜあわせるパレットのような。太陽も月も星もない。けれど、これは、夜明けだ。

「世界が、生まれるよ」

幸福が笑っていた。

「また、始まるよ」

不幸も笑っていた。


アハハハ
アハハハ
ハハハハ
ハハハハ

ふたりは、笑っている。



ステップ、ステップ、ステップ。
パシャン、パシャン、パシャン。
パサ、パサ、パサ。
くるくる。くるくる。くるくる。
ステップ、ステップ、ステップ。
パシャン、パシャン、パシャン。
パサ、パサ、パサ。
くるくる。くるくる。くるくる。





ぼくとあなたは手をつないで。
くるくる、くるくる、踊り続ける。
そうして、世界が、始まっていく。












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