空、という言葉の響きが好きだった。空に浮かぶものたちはとおく、見えるのにとどかない。だから信じられた。愛や、希望や、世界に眠るうつくしいものたちを。 「深海には目の見えない魚がいるんだよ」 空がぽつりとそう言ったのは、夏がさよならを言おうとしている九月の夜だった。だれもいない、しずかな夜。 わたしは電気もつけずにジグソーパズルを組み立てていた。クリスチャン・リース・ラッセンの描いたイルカは、今にも泳ぎだしそうに見えた。 「どうして目が見えないの?」 ソファに座る空を見上げてわたしは言った。 「海底にはひかりが差し込まないから。だから目が退化するんだ」 空は奇妙な表情をしていた。口元には微笑みを浮かべているのに目には何も映してない、人形みたいな顔をしていた。 「ひかりなんて、なくたっていいんだ」 その声がひどく耳に響いて、わたしは怖くなって空の膝かけをつかんだ。空は寒がりで、そのクリーム色のフリースをどんな暑い日でも手放すことはなかった。 「どうしたの?」 空の声はとてもやわらかい。空はどんな時も決して声を荒げない。それを多くの人は、空がやさしいからだと思うだろう。だけどわたしは知っている。空はやさしいんじゃなくて、いつだって怯えているんだってこと。 空はすべてに怯えている。触れるものに、見るものに。食べることに、眠ることに。夜がくることに、朝がくることに。おとうさんに、わたしに。それは息をするくらい、空にとっては自然なことだった。 揺れる。 水面のひかり。 海底で死んでいく深海魚。 怖かった。 空がどこかとおくに行ってしまうと思った。行きたいのだとわかった。 「いかないで」 わたしは空に抱きついた。空は一瞬小さく震えて、ゆっくりと細い息を吐いてからわたしの背中に手をまわし、ぽんぽんと二度たたいた。 「だいじょうぶ。ぼくはどこにもいかないよ」 空の左肩に顔をうずめると、消毒薬のにおいがした。おとうさんからひどい暴力を受けていた空のからだ。この服の下には、癒えずに残った傷がどれくらいあるんだろう。空を救うには、なにかが遅すぎた。わたしの背中をなでる右手首には、空のこころを飲み込もうとする深く白い傷痕が息づいている。 今夜は月が見えない。ふたりをつつむ暗闇はやさしくて、すべてを許すようで、それがとてもかなしい。 「ここにいて、空。どこにもいかないで」 生きていて。どんなにくるしくても、かなしくても。空。 「なかないでよ」 そうゆう空だって、泣いていたんだ。 どうか。 海底にひかりを。 瞬きをわすれた深海魚に。 ← |