どうしよう。
ウソップ工場本部に駆け込んだおれは、ドアを閉めると、そのままずるずると床にへたり込んだ。さっきからずっと緊張していたので、誰にも見られないところまで来て急に力が抜けてしまったのだ。
昼飯を食ったところだった。いつも通りみんなでダイニングに集まって。出てきた料理をあらかた食い終わったおれたちは、食器を重ねて後片付けをしていた。サンジが台拭きを持ってカウンターから出てきたので、おれはそれを受け取った。代わりに残っていた皿を渡そうとした、その時。
船ではよくあることだ。何か大きな生き物にぶつかられたか、海底に突き出た岩の上を通ってしまったかで、船体が大きくぐらりと揺れた。足元が覚束なくなるほどの揺れで、何枚もの皿を受け渡そうとしていたおれとサンジは、バランスを崩してしまった。おれは仰向けに倒れて、その上にサンジが覆いかぶさってくる。揺れはすぐに収まった。すぐさまチョッパーが駆け寄ってきたが、腰を少し打っただけで、痛むというほどではなかった。不自然なほど素早く立ち上がったサンジも、どこも怪我はしていないみたいだった。皿はロビンが能力でキャッチしてくれていた。ナミやフランキーは揺れの原因を確認しようと甲板に出て行く。そんな周りの状況を、一つずつ確認して、おれはゆっくりと立ち上がった。――倒れた時に、唇に触れたものが、一体何だったのかを考えながら。
どうやら船がぶつかったのは海獣だったらしくて、報告を聞いたみんなが、ルフィを筆頭にして我先にとダイニングから出て行く。おれもそれに便乗して外に出て、こっそりここまでやってきたのだった。サンジは、外の様子を気にもかけず一人でキッチンに残っていた。
一瞬のことだったけど、たぶん間違っていなかったんだと思う。
倒れた弾みで、おれとサンジは、キスをしてしまった。
ギャグかよ、と文字通り頭を抱える。こんなことってあるか? 反応を見るに、おそらくサンジも気付いていたんだろう。起き上がった時の挙動が明らかにおかしかったし、食料として貴重な海獣が出たと聞いてもほとんど無反応だった。転んだ拍子に唇が触れ合うなんて、しかも、それが、男同士だなんて、動揺して当たり前だ。ただそれは、おれの動揺とはちょっと違う。なんでかって言うとおれの場合は、相手が、好きなやつだったっていう驚きが含まれているからだ。
そう。おれはいつからかサンジのことが好きだった。今まで男を好きになったことはなかったから、気が付いた時には自分でも信じられなかったが、それでも認めざるを得ないぐらいに気持ちは確かだった。名前を呼ばれた時、笑顔を向けられた時、手が触れた時。そういう時に湧き上がってくる温かい気持ちが特別なものだってことは、恋人なんていたことのないおれにだってわかった。もちろん誰にも明かしたことはない。男同士で、ましてや相手はあの女好きだ。ばれるなんてことがあっちゃ絶対にいけない。のどの奥から溢れそうになるたびに今まで何度も封じ込めてきた思いを確認するほどに、さっきのおれの反応はまずかったように思えてくる。キス、って言ったって、たかだか身体の一部が触れただけのこと。「うわァ!」なんて言って笑い話にしてしまった方がよかったのかもしれない。例え後で悲しくなってしまうとしても。――この気持ちがばれて、今までのような関係でいられなくなってしまうのに比べれば、そんなのはなんでもないことだ。
だけどさっきの反応を考えると、やっぱりサンジは、なかったことにしたかったのかもしれない。サンジの方から「げっ」なんて言われたあかつきには、正直、ショックでしばらく立ち直れなかったかもしれないから、結局あれでよかったんだ、きっと。お互い気付かないふりで、なかったことに。次にサンジの顔を見た時にいつも通りに振舞えたら問題なし。きっとサンジだって同じようにしてくれるだろう。と、痛みは胸の奥の方で押し潰し、気持ちを切り替えた時だった。もたれていたドアがノックされて、身体が飛びあがった。
「ウソップ、いるか?」
サンジの声だった。なんでここに? やっぱり変に思われたのか? おれは混乱する頭で考える。だけど物音を立ててしまったので無視をするわけにもいかず、いつも通りの声を意識してドアを開けた。
「おっ、おう、どうした?」
「……ちょっと、邪魔すんぞ」
サンジはするりと部屋に入ってきて後ろ手に扉を閉める。おれは慌ててそのへんに散らかっていたガラクタを手に取り、サンジに背を向けて座って、作業の続きをしているように取り繕った。
「ど、どうした? お前がここに来るなんて、珍しいな!」
返事はない。振り返ると、サンジは入口近くの木箱に腰かけていた。頼む。頼むから、いつも通りだと思ってくれよ。だって。
それがお前の望みだろ?
「……さっき」
形ばかりにドライバーを動かしていた右手の動きが止まる。静かな部屋に鳴り響いちまうんじゃないかと思うくらいに、鼓動がスピードを増していく。
「怪我無かったか?」
「……怪我?」
「転んで、打っただろ。悪かったよ」
ふっと緊張がほどけていく。同時に、その優しい声に涙腺が緩みそうになる。こんな時だからこそ。嬉しいと思う一方で、この優しさは、いつか他の誰かのものになる。
「なんだ、全っ然なんともねェよ! サンジこそ大丈夫だったか?」
「あァ。ならよかった。……それとな」
「ん?」
「もうひとつ、悪かった。……初めてだったか?」
再び緊張が高まっていく。何か別の話をしてるんじゃないかと考えてみるのは、無理そうだった。なんで言っちまうんだよ。せっかくもう少しで、本当にいつも通りに。
だけど、そうか。「悪かった」ってのはそういうことか。
「な、んだ。おまえも気付いてたのかよ。いやー、びっくりしたよな!」
何のことだよ、なんてすっとぼけてみても意味はなさそうだったので、いっそ明るく振舞うことにした。前髪で隠れた方の横顔を向けるサンジの表情は全くわからなくて、何を思って話を持ち出したのかはわからないけど、おれが深刻に受け止めてちゃだめだ。
「あんな偶然ってあるんだなー。でもまァほら、単なる事故だしな。確かにおれは初めてっちゃ初めてだったけどさ、あんなの、ノーカンだって……」
どうしよう。自分で言ってて、涙が浮かんできやがった。鼻声なんかになっちゃ絶対だめなのに。
「……サンジは、そうじゃないんだろうけどさ」
なのに、思いとは裏腹に、呟きが漏れてしまう。だって、「悪かった」ってのはそういうことだろ? 自分にとっちゃなんでもないことだけど、初めてだろうおれにとっては、大したことだったんだろうって。それでわざわざ来てくれたんだろ? あんまりにも残酷な優しさを持って。
サンジはやっぱり何も返事をしない。それはつまり、そういうこと。自分の馬鹿げた発言を後悔しながら再びサンジに背を向けようと思った時に、小さな呟きが聞こえた。
「……初めてだよ」
ぜってー嘘だろ、なんてまぜっ返してやろうかと思えば、継がれた一言に心臓が止まる。
「本当に好きなやつとはな」
「…………へ?」
長い脚を組んでじっと座っていたサンジは、やがて、すっくと立ちあがるとドアに向かって歩き出した。たった今発された言葉が信じられなくて固まっていたおれだったが、明らかに何にもないところでけっつまづいて転びそうになったサンジの顔がちらりと見え、その瞬間に立ち上がった。
あんだけすましたフリしといて、真っ赤な顔で言い逃げってどういうつもりだよ!
「サ、サンジ! ちょっと待てって!」
おれもだよ。
その一言を告げるため、おれは、大好きなやつの背中を必死で追いかけた。