作品 | ナノ


03

 なんだこんなもんか、という印象だった。
 今となっては、時期も相手の顔もハッキリしねェが、それだけはよく覚えている。
 早く大人になりたくて、散々背伸びして、ようやく手に入れたにも関わらず、あまりにも呆気なくて。
 そのせいかおれは、今までキスという行為に、まったくと言っていいほど感慨がなかった。
 求められて応えることはあっても、自ら勧んですることはなかったし、まして衝動的に…なんて、有り得ねェ。
 有り得なかったのに。

 仕事の合間に、船縁でひとり、釣り糸をたらしているウソップを見つけて。
 声をかけたら、最初はルフィとチョッパーも一緒だったけれど、ふたりとも飽きて早々に投げ出したのだと。
 だけどおれはどうしても魚が食いてェんだと。
 ピクリとも動かない糸を睨みながら、むくれてみせる、ガキみてェな顔がかわいくて。
 気付いたら、その頬に唇を寄せていた。
 ……無意識でしてしまったことに、おれもびっくりしたが、ウソップはその百倍以上びっくりしたようで、数秒固まった後、すさまじいスピードで逃げ出してしまった。
 取り残されたおれは、同じく取り残された釣具を片付けながら、今まさに、途方に暮れている真っ最中だ。
 逃げられたことよりも、己の自制の利かなさが衝撃で。

 念のため言っておくが、おれとウソップは、先日想いが通じ合って、ちゃんと恋人同士だ。
 だけどあいつは、恋愛経験の一つや二つ、あっておかしくない年頃だというのに、 驚くほど純粋で。
 何もかもに不慣れな上、臆病で恥ずかしがりで、詰め寄り方を間違えると、すぐに逃げてしまうから。
 ……だから、ゆっくり時間をかけて、慣らしていくつもりだったのになァ。


 数十分。片っ端からドアを開けて、やっと見つけた背中に、安堵の息を吐いた。
 工場でもガレージでもなく、ウソップは、アクアリウムバーの脇にある、バルコニーにいた。
 この場所は、滅多に人も来ねェし、甲板からも見えねェ。
 おれなんて、最初に案内を受けた時に見ただけで、以来使うこともなかったし、存在すら忘れかけていた。
「……サンジ」
 おれを見て、ウソップはバツが悪そうに、しゅんと眉を垂らした。
 機嫌取りのために淹れたココアは、すっかり冷めてしまっていて、渡すべきか悩む。
「ごめん、おれ、その…びっくりして、」
「隣座っていいか」
「ん、うん」
 許可を得てから、少し間を開けて、隣に腰を下ろす。
 たったそれだけでも、ウソップは身を硬くする。
 意識しすぎて、耳まで赤くして、見るからに気を張り詰めて。
 逃げ出したくてたまらねェだろうに、それでもなんとか、留まってくれている健気さが、たまらなく愛しくて。
 ――キスしてェな、と思う。
 我ながら懲りねェと呆れたが、自覚さえしてしまえば、堪えることは可能だ。
 ああ、キスってのは、本当に好きな相手には、こうも自然に、思いがけず、したくなるもんなのか。
 それなら、…そりゃあ、行為そのものを目的にしていたのでは、感動などなくて当然だ。
 あの頃のおれは、相手に対して深い情など感じていなかったし、相手も同じ気軽さで応えてきたから。
 勿体ないことをしたな、と、今更悔やむ。
 最初ぐらい、もっとちゃんとすればよかった。
「これ、飲むか? 冷めちまったけど…」
「の、む。ありがとう」
 沈黙に耐えかね、マグカップを差し出すと、ウソップはためらいがちにそれを受け取った。
 両手で大切そうに包み込んで口をつける、些細な仕草すらかわいくて、愛しくて、目が離せなくなる。
 ああおれは、本当に、こいつが好きだなァ。
 こいつの初めては、何もかも全部、特別にしてやりたいな。
「……ごめんな、驚かせちまって」
 謝ると、がばりと顔を上げたウソップが、勢いよく首を横に振った。
 前触れもなくしちまったのはこっちだし、気を遣うことなどないのに。こいつは本当にやさしい。
「サンジ、おれ、びっくりしただけで、」
「おう。だから、ごめんな」
「違…やじゃなかった、から! だからっ…」
 謝らないでくれと。
 こちらに身体を向けて、必死で訴えてくるウソップの目は、必死すぎて潤んでいて。
 拭ってやりたくて、思わず手を伸ばした。
 ウソップはびくりと小さく跳ねたが、逃げようとはせず、おれの掌を受け入れる。
「……サンジ、」
「嫌じゃねェ?」
「ん…、いやじゃ、ねェ」
 怖がらせないよう、指先でゆっくり頬を撫でる。
 しばらくそうしていると、ゆるゆると肩の力を抜いて、気持ちよさそうに目を細めた。
「……キス、していいか?」
 もうこの状況で、その衝動を、抑え込むのがだいぶ辛い。
 ウソップは少し間を置いて、うん、と頷いて瞼を伏せた。

 そっと顔を寄せ、まず目尻に口付けた。
 僅かに身をこわばらせたものの、逃げる素振りがないのを確認して、今度は口の端に。
「――ウソップ、」
 いつの間にか、ウソップの手が、ぎゅっとおれのシャツを握っていた。
 そっと手を重ねると、緊張のせいか冷えきっていて、微かな震えさえ伝わってくる。
 続きは今度でいい、……とは、申し訳ねェが、とても言ってやれないから。
 せめておれの体温がうつるように、やさしく手の甲を撫でて。
 なんだろう、と、うかがうように、おずおず瞼を開けたウソップと、ちゃんと目を合わせて。
「……好きだよ」
 ふにゃりと綻んだ唇に、触れるだけのキスをした。




「サンジって、ほんと、キスすんの好きだよなァ」
 くすぐったいとふざけて暴れるウソップを抑え込み、顔中にキスしまくっていたら、ふとそんなことを言われた。
 どうもその評価がしっくり来ず、動きを止めたおれの下で、ウソップは、はしゃぎすぎて上がった息を整えて。
「…サンジ?」
 どうしたんだ、と少し、心配そうな色を滲ませて訊いてくる。
 ああ、本当にやさしいな、お前は。
「いや。そうだっけな、と思ってな」
「? 好きだろ?」
「うん、まァ、 お前にするのはな?」
 言って、頬に唇を押し当てると、ウソップはふふ、と幸せそうに笑う。
 甘えるように首にしがみついてくるので、ぎゅっと抱き締めて、そのままベッドに転がった。
 流れで額や鼻先に口付けながら、初めてキスした時のことを思い出す。

 ……おれを"そう"しやがったのは、紛れもなくお前だよ、ウソップ。
 言っても信じねェから言わねェけど…。


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