まずはナミさん。
堪えきれないとばかりに「嘘でしょ?!」と漏らして、マスカラで彩られた瞳をパチパチと瞬きさせる。
普段から冷静沈着なロビンちゃんでさえ、ナミさんの隣で驚きの表情を隠しもしない。
野郎共はこの際どうでもいいとして、レディ2人にご心配をかけてしまうなんて心底申し訳ないし不甲斐ない。
もう一度それを口にするのは心苦しいが、大事な事だ。おれは意を決して口を開いた。
「味覚が、おかしくなっちまったんだ」
味を全く感じないわけじゃない。
一応作ったものの味は分かるから、食えないもんを作る心配は今の所ないはずだ。
けどなんというか、味にパンチが足りねェというか、あと少し何かを入れなきゃいけないのにそれが分からないというか。
「要するに、味の決め手を決め兼ねて今の自分の料理に納得できないということかしら?」
「まァそういう事、かなァ?」
「でっ、でも!!サンジの料理全然美味しいぞ!」
コレだって!とチョッパーが頭上に高々と掲げた皿には今日のおやつのバノフィーパイ。
甘さを控えたショートクラスト・ペイストリーにサンジ特製トフィーを敷いてスライスしたバナナを並べる。その上から生クリームをたっぷり乗せて、粗挽きしたコーヒー豆を散らせば出来上がりのお手軽おやつだ。
仕上がりは勿論不味くはない。でもこれだって、あと少し。ほんの少し何かが足らない気がして満足できない。
まるで座りの悪い椅子に腰掛け続けてるみたいでなんだか気分が落ち着かない。
「ペイストリーを甘くするべきだったのか、それともトフィーにナッツを入れるべきだったのか…いや、クリームにコーヒーを少し混ぜてもよかったのか?」
ああでもないこうでもないと悩みだしたおれの頭をナミさんが軽く小突く。
「今悩むべきは目の前のおやつのレシピじゃなくて、サンジ君の味覚でしょ?!」
全くもってその通り。
おれはごめんなさいと素直に謝り、ナミさんに向き直った。
「それでナミさん、今日のおやつ甘みはどう?足りなくない?」
「そうねェ…」
ナミさんはフォークでパイを小さく切ると、パクリとそれを頬張った。嗚呼、貴女に食べられるパイになりたい。
咀嚼の度に艶やかに光る唇をうっとり眺めていると、徐々にその唇は弧を描く。
「すっごく美味しい!甘みも悪くないと思うけど…ロビンはどう?」
「私は甘いのはそこまで得意じゃないから、もう少し控えめでもいいかしら?」
けれどコーヒーと頂くなら丁度いい甘さかもしれないわね、とフォローをして下さる。
成る程、ロビンちゃんには甘さ控えめ!と胸に刻んでいる最中にも背中から次々と声が上がる。
「オレ甘いの好きだからもーっと甘くてもいいぞ!」
「おれはもっと食いてェ!サンジ、肉ー!!」
「酒寄越せ」
「やかましいわクソッタレ!!テメェらの意見なんぞ1ミリたりとも聞いてねェっつーの!黙って食っとけアホ共が。足りなきゃ海水でも啜ってやがれ」
女ばっかり贔屓だと喚くガキと、ジト目でこっちを見てくるアル中マリモは完全無視だ。
「そういえば、その症状はいつからなんだ?」
きっかけが分かれば原因も、もしかしたら解決法も分かるかもしれない。
ふいに医者の顔を覗かせたチョッパーの言葉に、おれは目を閉じて過去へと思考を巡らせる。
『おれは純粋に心配してんの!』
少し高めの声をふと思い出す。
あれは多分、一週間前位か。
再三注意していたはずの煙草が切れた。
というか、残り少なくなっていたストックの煙草がクソゴム船長の摘み食いの餌食になり、大量の湯を沸かしていた寸胴鍋に偶然にも全て入ってしまった。
その時の事を思い出すと今だに腹わたが煮えくり返りやがるので詳細は忘れる事にする。(勿論既に制裁済み)
常に咥えてるのが当たり前。それが急に奪われて、当然おれは落ち着かなかった。
つい癖でいつも煙草を入れている胸ポケットに指を伸ばしてはその度に、ああ、今は切らしてたんだと思い出す。
口寂しいわ、ニコチンが恋しいわ、クソゴムにムカつくわでイライラしている所にタイミング悪くアイツが来た。
「うえっ!おっかねェ顔〜!!」
「あ゛あん?!ケンカ売りに来たのかクソッパナ」
「いやいや滅相もございません!ちょっと水を貰いにな」
ウソップはヒョイとちっせェバケツみたいなもんを取り出して、蛇口からそれに水を入れた。聞けば絵を描くのに筆を洗うんだとか。
まァそんなこと正直どうでもよかった。
ウソップの行動に興味があったんじゃあなくて、苛つきを紛らわす為に何となく会話をしてただけだ。
「いい機会だし、折角だから禁煙しちまえば?煙草って料理人にはよくねェんだろ?」
「ハッ!やなこった!それにバラティエのクソコック共見てみろよ、9割は喫煙者だぜ。一流の料理人は煙草吸おうが吸うまいが腕の良し悪しは関係ねェよ」
「まァ確かにな、サンジの料理が不味かった試しなんかねェし。でもよ…」
レディがいないのをいい事に、完璧にダラけて椅子に寝そべっていたおれの元にウソップがトコトコ近付いてくる。
寝そべりながら『でも』の続きを待つおれの頭の上でガマ口鞄の中に両手を突っ込んで、何やらゴソゴソやり出した。
「何だよ、煙草の一本でも持ってんのか?」
「ちげェよ、もっといいもん…お、あった!」
鞄の中でバリッと音がして、次の瞬間無遠慮に何かが口の中に突っ込まれる。
「料理の味とかそんなんじゃなくてよ、体に悪いだろ?おれは純粋に心配してんの!休肝日じゃねェけどさ、偶には吸わねェ日があってもいいんじゃねェの?」
一方的に言いたい事だけ告げて、テーブルに置いてあったバケツを引っ掴むとウソップは小走りでラウンジから出て行った。
おれは自分の口からはみ出た白い棒を見つめながら呆然と体を起こす。
「………甘ェ」
コロンと音を立てて口の中に広がるのは、甘酸っぱいラズベリー。
たまたま視界に入ったウソップの黒髪から覗いた耳朶は、ラズベリーというよりストロベリー。
その安っぽい甘味料の味と、少し照れたようなウソップの仕草がやけに記憶に残っている。
「その後だ!そっからなんかおかしいんだ!!あんのクソッパナ、あの飴になんか仕込んでたんじゃねェだろうな?!」
不味い飴ではなかった。
むしろ安っちい飴のくせに甘さと酸っぱさがちょうど良くて、あんまりにも美味くて驚いたくらいだ。
けどそれからどうも舌がおかしい事を考えると、あの飴以外に原因は思い当たらない。
「シメ上げてこの原因を吐かせねェと!!…ってアレ?どうしたのナミさん?!」
前のめりにパラソル付きのガーデンテーブルに突っ伏してピクピク震えているナミさん。
その隣では楽しげな笑みを浮かべるロビンちゃんに、若干引き気味でこっちを見つめるクソマリモ、更に隣には口をあんぐりと開けたチョッパー。ルフィはとっくに飽きたのか、とっとと特等席の羊の頭に陣取って魚釣りを再開している。
おい、なんだその信じられないもんを見るような差別的な視線は。
野郎2匹の視線に耐えきれずに口を開こうとした一寸早く、顔を起こしたナミさんが言い放った。
「…信じらんない」
まさかナミさんまでもが同じ目でおれを見てくるなんて、全くの予想外だ。居た堪れない雰囲気に、どうしたもんかと思わず一歩後ずさる。
そんな時だ。女神は笑って迷える子羊に手を差し伸べてくれる。
「ねェ、提案なんだけれど、ウソップに直接聞いてみたらどうかしら?」
ねェみんな?とロビンちゃんはぐるりと一同を見渡した。
「そうね!それがいいわ!ウソップったらまた開発だとかで引きこもってんでしょ?差し入れだっておやつ持って、ついでにちょっと話してらっしゃいよ!」
「オレもっ!医者としてもそれがいいと思う!気分を落ち着けて、ゆっくりウソップと話すんだぞ!」
「…おかしなマネしたら叩っ斬るからなエロコック」
ナミさん、チョッパーの言葉に首を傾げ、最後のクソマリモの一言にカチンときたおれは当然足を振り上げかけたものの、ナミさんの「さっさと行け!」のお言葉と共にお見舞いされたグーパンによって、訳がわからないながらもウソップにわざわざおやつを持って行ってやる羽目になった。
折角だからと切り分けたパイと一緒に紅茶まで淹れてやって、おれは錨綱格納庫に足を向けた。
最近奴はラウンジでも甲板でもなく、あまり人目に付かないような所で工場を広げている。
そういやそれもあの飴をくれた日以降からだな、なんて考えながら、あっと言う間についた格納庫へ通じる扉を声もかけずに足で開けた。
バン!と木の扉が激しく壁に叩きつけられる音に、室内でなにやら弄り回していた細い体は面白い位に飛び上がる。
「ちょっ!おまっ、サンジ!入るときは先ずはノックを」
「クソうるっせェ。オラ、食いやがれ」
ズイッとご自慢のナガッパナの先に皿を押し付けてやれば、何か言いたげな目をしながらもウソップは渋々それを受け取った。
みんなから話をしてこいと言われた手前、このまま回れ右してキッチンに帰るわけにはいかないだろう。チョッパーに至っては何故か「頑張れ!」とよくわからないエールまで送られちまったし、とりあえずウソップの斜め前にある樽に腰掛けてみる。
「ん?なに?ナミ達んとこ行かねえの?」
確かに普段からおれの居場所はといえばキッチンの中。もしくは休憩でラウンジにいるか、甲板で寛ぐ美女2人に傅いているか、まァそんなもんだ。正直この部屋に入るのは、最初に船を案内されて以来だろう。
そんなおれが何で此処に居座るのか。
怪しむウソップに取り繕うのも面倒で、今あったことを包み隠さず話して聞かせた。
「って、オイ!聞いてんのかコラ!」
蹲る黒髪を軽く爪先で足蹴にする。
おやつを食いながら熱心に話を聞いていたかと思えば、だんだんとウソップの顔が俯いて、終いにゃとうとう床に突っ伏するように蹲っていやがった。
折角人が説明してやったっつーのにその態度はないだろう。
ブツブツと口の中で何かを呟く黒い塊に強めの一撃を加えると、ウソップはやっとこさのろのろとその場に座り直した。
「うぅ…恥ずかしい…まさかみんなに気付かれてるなんて…死にてェ」
「おいコラ待て!死ぬんならおれに分かるようにきっちり説明してから死にやがれ」
「…お前マジで言ってんの?!」
「マジもクソもあるか。ナミさんとロビンちゅわん、ついでに医者までお前としっかり話してこいって言うんだぞ。おれの舌がおかしい原因はテメェなんだろ?!」
味音痴なクソどもにはどうでもいい事かもしれねえけど、味覚が落ちるなんてコックとしては一大事だ。原因が分かるなら何が何でもどうにかしなくちゃいけない。
「そもそもあの飴!あれ食ってからクソおかしいんだ、一体何が仕込んであったんだ?!」
赤い顔するウソップに詰め寄ると一瞬大きな目を更に見開いて驚いていたが、暫くすると溜息を一つ吐いて目を逸らした。
「サンジ、お前さあ。ラブコックなんて言ってるけど、ありゃウソだろ」
「はぁっ?!テメェ喧嘩売ってんなら、んぐっ?!!」
大きく開いた口の中に何かが突っ込まれておれは強制的に黙らせられる。
「どう?うまい?」
おれの口からはみ出た白い棒の先を摘むウソップ。
歯に当たってコロンと音を立てるそれは、あの日味わったのと同じラズベリー。
の、筈だ。
「………うまくない」
そっと口内から飴が引き抜かれ、自由になった口を動かしてそう告げる。
美味くない。
いや、飴としては普通だ。強いて言うなら甘みが少し足らずに酸っぱさが後に残る。不味くはないが、ただの安っぽい、何の印象も残らないごく一般的な飴に他ならない。
「これな、こないだお前にやった飴と同じだぜ?」
「嘘だろ?!だってこないだはあんなにクソ美味かったのに…」
あの飴が忘れられずに、次の日はおやつに飴細工を作ってみたりした。やっぱりそれもいまいち味が決まらず残念な出来になっちまったけど、それ位インパクトがあった味なのに。
呆然と口の中に残る甘みを噛みしめていると、目の前のウソップの口が開く。
「恋≠ニいう字は変≠ノ似てる、なんてよく聞かねェ?」
「…恋≠ノあるのは下心、じゃあなくってか?」
「まァ下心もあるだろうけど…恋すると人って変わるだろ?いつの間にか相手を目で追ってたり、普段通りの態度とれなくなっちまったりさ」
そこで一旦言葉を切らし、ウソップは弄ぶように手にしていた棒付きキャンディをおれの目の前に持ってくると、長い舌を突き出してベロリとひと舐めしてみせた。
ついさっきまで自分の口の中にあったそれを舐められるなんて。
気持ち悪さが先に立ってもおかしくない。
それなのに、嫌悪感はまるでなかった。
むしろカッと腹の底が熱くなるような、欲情にも似た何かが体の中を駆け巡る。
「きっとさ、頭で気付いてなくても体が、本能がソレに気付いて、一番分かりやすい異変って形で信号を発してるんじゃねェのかなァ?」
ウソップの言葉を聞いている筈なのに、おれはどこかぼんやりして言葉の意味をうまく理解できない。
言葉よりも何よりも、気になるのが至近距離で動く人より少し肉厚な唇だった。
視線が吸い寄せらるように、そこから目を離せない。
「おれの場合は得意な細かい作業が手につかなくなっちまったり、うまくウソがつけなくなっちまったり…」
ふいに言葉が途切れて、ラズベリーの香りがする唇がぐんと近付いた。
「んっ!」
ちゅ、と唇同士が合わさる音がする。
一瞬だった。
プニッとした柔らかな感触。
自分より少し高めの体温。
頬に当たる柔らかな髪からは太陽の匂い。
その一瞬で、自分の中の何かが変わった。
まるで欠けてたパズルのピースが音を立てて嵌ったような、そんな感覚に襲われる。
あァ、これはもしかして。
いや、もしかしなくても。
唇が離れた直後、ラズベリーの甘さと、絶妙な酸味が口内に広がった。
次いで視界が広がって、居た堪れないとでも言いたげに視線を彷徨わすウソップの全体像が目に飛び込んでくる。
体全体を真っ赤に染める姿に胸がギュウッと締め付けられて、無意識に名前を呼ぼうと開いた口に、パイが一切れ差し出される。
「ホラ、食べてみろよ」
それを一口頬張れば、濃厚な甘みと、後味にコーヒー豆のほろ苦さが口いっぱいに広がった。
「何が足りないかわかったか?」
「トフィーにコーヒーを少し混ぜればよかったな。こいつはちょっと甘過ぎだ」
甘いだけじゃない、飽きのこないコクがきっとプラスされるに違いない。
ウソップのお陰で分かった事が2つある。
足りていなかったのは舌で感じる甘さじゃなかった事。
そしてもう一つ。
恋は激しいだけじゃない。穏やかな波が徐々に岩場を削るように、ゆっくりと形を変えていくものがあるという事。
「なァウソップ、おれ、お前の事…」
ゆっくりゆっくり形を変えた思いが、今一つの言葉になる。