予測ってのは、マイナス寄りに立てておいた方がいい。コックと言えど海賊家業。命張った駆け引きだって日常茶飯事だ。いざ直面した現実に、悲鳴上げてる暇は無ェ。
それでも。
そんなおれだってこれは、キツいと思う光景だった。おれでさえそうなんだ。ウソップは。
「ルフィ」
叫んだウソップの声は、酷くかすれて、震えていた。まずいな、早く。
早くここから動かねェと。
髑髏を踏みつけ、ウソップの腕をとったおれは、しかし、崩れ落ちるように地に膝をついた。
無人島だと思っていた。港らしきものは見当たらなかった。
冒険のニオイに目を輝かせ、未知の森へと突っ込んで行くルフィを誰ひとり追わなかったのは、新たにおれ達の船となったサニーの停泊作業について、フランキーのレクチャーを受けていたからだ。
ふと気付けばナミさんが、甲板から綺麗過ぎる海を見つめていた。
「どうかしたかい、ナミさん」
なんでもないわ、と華奢な肩を竦めるまでの、不自然な間。思えばこの時から既に、不吉の予兆はあったんだろう。
おあつらえ向きの岸壁に船をつければ、ゴムのように飛ぶ必要もなく、降ろした縄梯子で上陸することが出来た。
まあおれは、その前に食糧のチェックを済まさねェ、と。
「手伝うか」
遠慮がちにウソップが、キッチンを覗きに来た。
「いや、もう終わる」
だから茶でも飲んでいけと、振り向く前に声がした。
「悪ィ、邪魔し―」
「肉があるなら、鳥でも豚でもトカゲでも」
「それ、ナミが聞いたら拳骨じゃ済まねェぞ」
「あとは、フルーツが手に入りゃクソ助かる」
思案顔のウソップに、畳み掛ける。
「昼飯食ったら森の探索だ。飯の支度は小一時間で済むから、って何だよ」
人の気も知らねェで、ウソップの奴、くすくすと笑い出した。
「べつに」
言葉が途切れる不安から、つい、甘やかしちまう。
「昼は、なに食いたい」
「え、あ。ホットケーキ」
「だと思った」
やっと戻って来た日常なんだ。少しの贔屓は許されるだろう。なのに、緩みかけた空気を打ち破ったのはロビンちゃんの緊迫した声で。
「待ってゾロ。まだ、何も分からない」
甲板に出たおれ達が見たのは、鬱蒼とした森に消える毬藻の腹巻と、浜に立ち尽くすチョッパー。
「ウソップ、サンジ」
人型に変化した船医は、厳しい表情を浮かべて振り返った。
「すぐに皆をラウンジに集めてくれ。この島は、森は、何かがおかしい」
ガスマスクを作ろうとフランキーが提案したが、森に満ちる有毒ガスは皮膚からも吸収されるとチョッパーが言うので断念した。
対策は、出来る限り触れねェ事。
ウソップが、ガスを散らせる風貝やら火薬やらを引っ張り出している。
おれ達に決定的な情報をもたらしたのは、半日ほど経った真夜中に、倒れ込むようにして戻って来た毬藻野郎だった。
すぐにチョッパーが診察する。口下手にも程があんだろ。喋れもしねェ状態にまでなっちまいやがって、奴が身を以て伝えたのは。
「動物のみに効く、神経系のガスだ」
チョッパーの見立によれば、一定量のガスが体内に入るとものの数分で手足の自由を奪われるらしい。毬藻の刀に付着していた、紫色の花弁。どうやらその植物が発生源のようだ。
神経伝達物質だのブロックだのと、チョッパーの説明は分かり難かったが、静かすぎるこの島の違和感の正体には納得がいった。動く生き物が見当たらない。豊かなはずの森からは、動物の鳴き声すら聞こえない。
クソ毬藻は全身が麻痺していたが、時間をかければ解毒出来ると聞き、皆が息を吐いた。
「なあ、」
ウソップが問う。
「ルフィは。あいつは、どうなったんだ」
森で、身動きが取れなくなっているとして、動けねェまま、ガスを吸い続けているんだとしたら。
チョッパーが思い詰めたように下を向く。
「ルフィの、体力から考えて、まだ間に合うとは思うけど」
時間が無ェ。やがて麻痺の進行した身体では、生命活動の維持すら難しくなる。
つまり、おれ達の選択肢は二つだ。
船長を諦めて尻尾を巻いて逃げだすか、無茶を承知で毒ガスの森に突っ込むか。
まあ、考えるまでもなく、うちの一味は後者を選ぶが。
武者震いとやらでひっくり返ったような声を上げながら、ウソップが立ち上がった。
「れ、レディに任せる訳にはいかねェ、って。言うに決まってるからな。どっかの眉毛は」
ああ、そうだ。
「いかなる状況にあろうとも、逃げ道確保をクソ優先。ってくらいのビビりの方が、こんな状況じゃ役に立つ」
出来る限り戦力を温存しつつ、速やかにルフィを探して連れ帰る。その為には、おれ達が思い付いた人選が最善だ。
ありったけの装備を身に付けたウソップと、いつものスーツ、銜えたばこのおれ。
出発は、夜明けと共に。
「煙草なんかより、もっとちゃんと空気吸っとけよ」
「吸い収めかも知れねェだろう」
「怖ェこと言うなっ」
おれ達は、不気味なほど静かな森に向かって駆け出した。
火薬星って気の抜けたネーミングセンスは別にして、大したもんだよ、お前の狙撃の腕前は。
一定の間隔で前方に放たれる火薬の弾。その爆風でおれ達は、ガスを散らして走り抜けて行く。
チョッパーの言った通りだった。問題のガスは空気より重く、御丁寧にも紫がかった色がついている。視認出来るのはありがたいが、囲まれているという圧迫感はかなりのものだ。視界が悪いのも、精神的にクる。
つくづくと、こんな中、刀の斬撃でガスを払い、ひとり彷徨った毬藻の体力と精神力は理解の外だ。
ガスを吐き出す植物は、所々に花を咲かせていて、排除するには多過ぎる。
「ウソップ」
ある程度走ったところで、休憩を入れる。神経すり減らす狙撃なんざ、そう長く続けられるもんじゃねェ。
がら空きの背中に軽い蹴りを入れ、バランスを崩した奴の身体を米袋よろしく肩に担ぎ上げた。それにしても軽い。目を離すとすぐこれだ。意地を張るのは結構だが、ちゃんと食えよと叱りたくなる。
蛙の潰れたような声を上げるのを無視して、地を蹴り、枝を蹴って高い木の上へと退避する。二十メートルも上がれば、ガスは届かない。
これで、かれこれ三度目の休憩。
「なんで、おま、平気そう、なんだよ」
「鍛えてるからな」
上がった息を誤魔化すように、煙草に火を点ける。
「蝕んでるの、間違い、だろ」
軽口が、叩けるようなら何よりだ。
真上に近付いた太陽の位置で、ようやく経過した時間を知った。日が照ると、熱帯のように蒸し暑くなる。
霞んでいた山が、ずいぶんと近くに見えた。
「気付いてるか、ウソップ」
山の懐に、ガスの濃い一角がある。
「ああ。いかにもって感じだな」
道無き道を来たようで、なるべく平らな場所を選んでいた。奇妙な植物さえ覆っていなけりゃ、道、と呼べなくも無い。道を辿って行きつく先、村があるなら、そこだろう。
ロビンちゃんが、船に新設された図書館から商船の航海日誌を見つけてくれた。この海域を渡るヒントになるだろうと、ガレーラの奴等が積み込んだらしい。日誌には、ここに小さな村が在り、水と食糧の供給基地になっていると記されていた。
「ロビンちゃんの見つけた日誌、ありゃ、二十年は前のだったな」
二十年で朽ちるか、ここまで。何かが、あったっんだろう。ウソップも、同じように考えていたらしい。
「偉大なる航路には、おれ達の知らねェ技術を持った奴等がごまんといるだろ。この島の連中が、植物を改造、兵器として利用していたとして─」
どこかで、破綻した。
眼下には、充満する紫のガス。もうここは、人の住める場所じゃねェ。おれ達はいったい、誰の尻拭いをさせられてるんだろうな。
ウソップが項垂れる。
「まあた、ババ引いちまったァ」
今更だろう。奴の頭を肘で小突く。
だけどおれも、やっぱり少しは気が滅入っていて。つい、本音が零れた。
「お前とじゃなきゃ来ねェよ、こんなとこ」
「おれも」
あっさり返された一言に、奴の方を見る。
驚いた。普段ならお前、絶対そんなこと言わねェから。
確かにウソップは、クルーの中でもなんか特別で。親友、兄弟、家族、相棒、ちょっと、違うか。
正反対のようでいて、気付けばぴったり同じ価値観、同じ方見て動いちまう。そんな野郎は初めてで、クソ面白ェにも程があった。
タバスコだ卵だと、食い物まで武器にするのはいただけねェが、会って間も無く距離が縮んで、こいつの隣は居心地良くて、でも、こいつ、ベタベタするのは嫌いみてェだし、野郎だし、旅は激戦、激闘のオンパレードで、こいつとの関係が何なのかなんて突き詰めてやる暇も無かった。
そもそもあの、水の都で、一味を抜けると言った時、こいつは間違いなく、おれのことなんて考えてもいなかった。
「ウソップ、五分で行けるか」
いつまでもここで、眺めていたって埒が明かない。遠くを睨んだままの奴を促す。
「え、あ、ああ」
ウソップは慌てて、道具のチェックをし始めた。火薬の袋は二つに分けて腰に巻き付けてある。行きの分と、帰りの分。
「えーっと、残ってんのは未使用のダイヤルがひとつ。連絡用の赤蛇星、それと、チョッパーに貰った御守り」
「なんだそりゃ」
ウソップは鞄の口を閉じると、盛大に溜息を吐いた。
「ったく、ルフィはどうして、こうなんだろうなあ」
ルフィについて語る時、こいつはいつも、呆れの中に嬉しさが滲む。
「あいつは結局どこ行ったって、一番、やべェところに居るんだ」
分からなくは無い。そんな男について行くことを決めちまった辺りも、おれ達は結局、似た者同士だ。
おれは、短くなった煙草を時計代わりに、厳しい口調で促した。
「行くぞ、ウソップ」
足に、軽い痺れを感じる。まだだ。おれは、まだ動ける。引き返すには早い。それでも、体内に溜まり始めているだろうガスを思うと、頭の芯が冷えた気がした。
おれ達は賞金首であることの意味を、もっと、正しく理解しておくべきだった。
一発の火薬星ではガスが払えず、二発、三発と撃ったウソップが、何か言おうとして開いた口を、歪めて閉じた。
あったのは、小さな村だった。木造の家屋はどれもしっかりしていて、広場や風車、集会所と思しき公共施設も充実している。いや、していた、か。
村の奥、肉厚で巨大な花弁を広げた毒々しい花が、紫の煙を吐き出している。なるほど、親玉に相応しい。
ウソップが、更に数発の火薬星で視界を広げた。
「サンジ」
この村に、何があったかなんてクソ、知らねェが。
「こんな、」
野郎も、レディも。子どもも、大人も、老人も。
「こんなのって」
広場には、おびただしい数の白骨死体が野ざらしになっていた。動けず、行き倒れてそのまま、無残に朽ちて転がっている。
その頭上、竹のような植物で吊られた檻の中に、見慣れた麦わらがあった。獣の罠か、いや、違う。檻から垂れさがったボロボロの旗には、カモメの紋章。
ようやく理解した。植物の力を利用し、弱った海賊を罠にかけ、生贄のごとく晒し、海軍に売り渡す。ここは、賞金稼ぎを生業とする村だ。
酷い光景だった。今や屍だらけの村で、意味を成さない罠を踏みつけ、おれ達の自由が死んだように吊るされている。
「ルフィ」
「おい待て、ウソップ」
「ルフィー」
叫んだウソップの声が、酷くかすれて、震えていた。檻の中の奴は、生きているのか、死んでいるのか。
まずいな、早く。
早くここから動かねェと。
髑髏を踏み砕き、前に進んだおれはウソップの腕を取ろうとした瞬間、地に膝をついた。
「サンジっ」
絶望したような目で、ウソップがおれを振り返る。
おい、待てよ。ここに来てアウトか。毒の回った身体が言うことをきかない。嘘だろ。数分で麻痺、チョッパーの言葉が耳の奥に響く。
散らしたガスが塞がってきた。考えている暇は無い。
おれは最後の力でウソップを担ぎ上げると、近場で最も高い場所、村の中央に立つ櫓へ駆け上がった。まずい。高度が足りねェ。
「ブ、ブレスダイヤル」
おれの肩から飛び降りたウソップは、櫓の中にくすぶっていたガスを追い出し、転がり込んで扉を閉めた。
ひとつしかねェって、言ったよな。それ。
おれは床に蹲り、雨よけ程度の天井を仰ぐ。
言葉が、出なかった。互いの荒い息しか聞こえない。
身体こそ動かねェが、思考はめまぐるしく回転していた。おれはもう、お荷物でしか無い。帰りの分の火薬があるのなら。
「おれだけ、戻れってのは、無しだぞ」
ウソップは、だらりと垂れた左腕を振って見せた。
「お前、それ」
「もう、使い物にならねェや」
櫓には、開きっ放しの窓がある。ここにもあと数分で、ガスが迫って来るだろう。
打開策はあるか。
あの巨大植物、燃やしたところでガスが晴れるとは限らねェ。最悪、溜め込んだガスを更に撒き散らす可能性だってある。
「ックソ」
見ればこの櫓にも、死体がひとつ転がっていた。身を乗り出し、外を見たまま事切れたらしいそいつの頭蓋は、きっと櫓の下に落ちている。
外。
外に、何かあったのか。
同時に思い付いたらしいウソップが、外の見える位置までおれを引き摺る。
そこからの景色に、何かが、繋がった気がした。
綺麗過ぎる海、熱帯のような蒸し暑さ、晴れる事の無いガス。
この村は谷間にある。村から背後にそびえる山へと通じていたであろう街道を、巨大な岩が塞いでいた。
ウソップの喉が、ごくりと鳴る。
ああ、また、同じことを考えた。だが。
「ウソップ」
残念ながら、不可能だ。
おれを見たウソップの目は、迷うように揺れていた。
「連絡をつけろ」
ウソップが向けた視線の先、腰の袋には赤蛇星、つまり連絡用の弾が入っている。おれ達を諦めろ、すぐに逃げろと知らせる合図だ。
「ここまでだ」
ウソップは動かない。
「早くしろ。これ以上、犠牲を出す意味もねェ」
現実を見ろよ。何か、ぼそぼそと呟くウソップに苛立って、おれは声を荒げた。
「ウソップ」
「く、考えろ」
「ウソップ」
「よく考えろっ。状況を、読めっ」
覚えのある言葉に、一瞬、怯む。ウソップの右手が、おれの後頭部を掴んで引き寄せた。
「んむっ」
お、おれは一度だって、キスでこんな間の抜けた声は出した事がねェんだよ。なのに。
「っ、ウソッ」
相当、濃厚なのをかまされた。だいたいお前どうなってんだ。こんなキスは初めてだ。甘いも苦いも酸っぱいも混じった、空島の腐れソースさえ足元にも及ばねェ、おれ史上最強にクソ不味いキスなんて。
「っは。な、なにを」
思わず立ち上がったおれを見て、奴が笑った。めちゃくちゃ青ざめた、酷ェ面で。
「ランブルボール」
そういや、おれの足、動いて。
ウソップは、ぎこちなく己の左腕を持ち上げると、確かめるように数度、握っては開く動作を繰り返した。
「チョッパーが、言ってたんだ。人間に使えば、ほんの少しは動けるかも、ってよ」
の野郎、とんでも無ェもんを人の口の中に放り込みやがった。
ウソップは手早く飾り帯を裂き、その布でパチンコを左腕に巻き付けると、右手と口とできつく縛って固定した。屍の横にどっかと座り、帰りの分の火薬弾まで胡坐の中にぶちまける。
「あれ、おれのファーストキスなんで」
マジかよ。そりゃあ御愁傷様。
「し、しくじりやがったら、地獄で会っても次はヤらねェっ」
っは、クソ上等。
おれは、まだ違和感の残る足で床を蹴ると、櫓から飛び出した。
この村には、島には、風が無い。凪いだ海、沈黙した風車、停滞した空気。
地震か何かは知らねェが、落石が、風の通り道を塞いだ。ガスが充満し、村が滅んだのはその為だ。
岩のデカさは巨人並。さすがのおれでも砕けやしねェが。
正反対のようでいて、気付けばぴったり同じ価値観、同じ方見て動いちまうから。
「「お前にできねェ事はおれがやる、おれにできねェ事をお前がやれ」」
爆風が行く道を開く。
バース・コート。
おれの蹴りで入ったヒビに、すかさず火薬が撃ち込まれる。櫓からの正確な狙撃。
ロンジュ、タンドロン、フランシェ。
位置を変え、時には、奴の狙撃が指し示す場所へ、次々に蹴りを加えて行く。
カジ、クー。
熱を持った右脚が。
キュイソー、ジャレ。
奴の放った火薬の塊へ。
「悪魔風脚」
ああ、そうだ。おれはいつだって、あいつの諦めの悪さに救われて来た。
「仔羊、」
「火の鳥星」
「ショット」
砕けた岩の塊をスマートに避けるには、タイムアウトだ。無様に転がるおれの上を、風が通り抜けて行く。
死のガスが、晴れる。
おいおい、解毒もしねェで。
うちの船長の、地の底から湧き上がるような復活の雄叫びを聞きながら、おれは真後ろにぶっ倒れ、声を出して笑った。
ウソップ、二度目のキスはせめて、タバスコ味にしておいてくれ。