私だけにキスをして 「…遅いなあ、鴎外さん…」
鴎外さんは、比較的軽めだが、己で成すと決めたことには真面目で行水をするために帰りはいつも早い。
…はずなのだが。最近鴎外さんの帰りが深夜になる日が多い。今週は三日も続けて深夜に帰ってきている。
「……帰ってくると高確率で酔ってるんだよなあ……。
それに、ほんのり香水(においみず)の匂いがして……」
女性といるのかな、なんて思うと。形容しがたい痛みが胸を貫く。原因は、分かっている。分かっているからこそ、辛い。
二度目の満月の夜、明治に残ると決めてから。鴎外さんは私に「好き」や「愛している」など。たくさん愛を囁いてくれていた。けれど、私は何一つとして思いを伝えられていない。一言も「好き」と口にできたことはない。
「愛想、つかされちゃったのかな」
「そうかもね」
「しゅ、春草さん……!?」
「最近、鴎外さんがご婦人と出歩いてるっていう噂を耳にしたから」
「……そう、ですよね」
「君、本当に鴎外さんを好きって言えるの?」
「え……?」
「だって君、鴎外さんに好きって言えてないんだろ」
「な、なんで知ってるんですかっ!?」
「あのさ。……思考、全部口に出てたから」
「……本当に、好きなんです。
でも、好きで好きだからこそ。この気持ちをどうやって表せばいいのか……」
「……君、バカなの?バカなんだろ?」
「に、二回もバカって言わないでくださいっ」
「どう表せばいいのかわからない?じゃあそれをそのまま伝えればいいだろ」
「え……?」
「今さっき言ったこと、鴎外さんに伝えればいいと思うよ。
……あぁ、あと。
グズグズしてると鴎外さん、他のご婦人ともっとキス、しちゃうかもね」
ど、どういうことですかっ――…と聞く前に、春草さんはサンルームを出て階段を上がって行ってしまった。
「……他の女性と、キス……?」
そんなの、いやだ。焦りなのか嫉妬なのかよくわからない感情が渦巻き、いてもたってもいられなくなったとき。
「おや、なまえではないか」
「おっ、鴎外さん……」
いつもの調子でサンルームを覗く鴎外さんの姿が目に入る。さっきの春草さんの言葉のせいなのか、それはわからないけど。私はとっさに鴎外さんに、飛びついていた。
「……ど、どうしたんだい、なまえ?」
「ほ、他の女性とキスなんて……っ、しないでください……っ」
「?……何を言ってるんだい?」
鴎外さんを見たら、目から熱いものが溢れた。
「最近、帰りが遅いの……はっ、女性と会ってるからでしょう…?」
「……そんなわけないだろう。この時期は論文を完成させねばならなくてね」
「ほ、んとですか……?でも、香水の香りがするのは……」
「あぁ……あれは……香水を扱ってる、者が来て、だな……」
どんどん、鴎外さんの顔色が悪くなっていく。えっ、あれ。これ聞いちゃマズかった…のかな……?
*
「ははは。春草の奴がか。ただ単に意地悪を言ったまでだろう」
「……でも、香水の匂いしてましたし……」
「僕はそんなに信用に値しないのかな?安心したまえ。僕はなまえが不安になるようなことは一切しない」
「……本当、ですか……?」
「本当だとも」
クスクスと笑う彼が愛おしくて、堪らなくて。自然と彼へと手を伸ばし、頬へキスをした。
「……好き、なんです。どうしようもなく。わたしにだけ、キスしてください……。
鴎外さんが、好きです……。大好きです……!」
「っ……」
「鴎外さ……んっ……」
「はっ……好きな者から好きと言われるのは、いいものだ」
「……ふっ……ぅっ……」
何度も、何度もキスを繰り返す。この温度を忘れたくないから、ねぇ。
――ずっと、わたしだけにキスをして。