「撫子」

嬉しそうに自分の名前を口にする鷹斗の声に、そっと撫子は眉をひそめた。
けれどそんな撫子の表情に気づいていないのか、はたまたそんなことなどどうでも良いのか、いつもこちらの世界の鷹斗もにこにこと笑ってばかりいる。
それがまた撫子の神経を逆なでしてることに彼は気付いているのだろうか。
(きっと、こんなこと思うこと自体、無意味ね)
「私、一人になりたいの」
そういえば、彼はそっか、と笑って撫子の部屋を後にする。
先程まで、広くもない部屋に二人もいたせいか、一人になった途端、少しだけ部屋が広く感じる。
そのことに安堵と同時に少しもやもやする感情を覚えて、撫子は緩く首を左右にふった。
そして、はぁ、と一つため息を落として、撫子は机のつるりとした表面をじっと見つめる。
勿論、机の上には撫子の求める答えが書いてある筈もない。
それでも、ただただじっと見つめてしまう。

(あの人も鷹斗)

信じたくはないけれども、彼達がそんなことで嘘を言う利点などどこにもない。
だから、おそらくそれは事実なのだろう。
しかし決定的にわかっていることがある。

(こちらの鷹斗は私の知っている鷹斗じゃない)

撫子がすごいと憧れを抱いた笑顔が素敵なあの鷹斗はどこにもいない。
けれど彼も確かに鷹斗なのだ。
よくよく見てみれば、顔立ちも声も撫子の知る彼をそのまま成長させた姿そのままなのに何故あちらの世界で何も疑問に思わなかったのか、不思議なくらいだ。
(でも、同じ世界に同じ人間がいるなんて普通思わないわよね)
そんなとりとめのないことを考えつつ、撫子は机に肘をついた。
そして目の前にある白い壁に視線を投げ、ゆっくりと呼吸を繰り返して余計な思考を脳の中から追い出す。

この世界にはまだまだ撫子が理解出来ないことがたくさん存在する。
ただ言えることは一つだ。
彼が言うところの撫子は自分ではないし、こんな未来を望んでいたわけでもないということ。

ここに連れてこられてから、何故私はここにいるのだろうとずっと自問し続けているけれども、答えは出ない。
こんな答えの出ない自問自答を毎日続けていれば、狂ってしまいそうだ。
それでも、段々と撫子の心の奥底で少しずつ変わっていく何かがある。
(どうにかして、ここを出たいと思っていたのに……)
勿論その気持ちは今もあるし、恐ろしいこんな場所から一刻も早く逃げたいとも思っている。

それなのに、

時々こちらの鷹斗はひどく幼い子どものような顔をする。
その理由をまだ撫子を詳しくは知らない。
「俺は、君がいてくれるだけでいいんだよ」
今はまだまるで呪文のように、幼子に言い聞かせるかように彼の唇から零れる言葉はただ撫子の心の表面をつたって落ちるばかりだった。
(何故、貴方がそんな顔をするの……)
気には、なる。
冷酷だと思っていた彼の心の柔らかい部分に触れる度、撫子はうまく言葉にならない感情に胸の内を埋め尽くされる。
けれど彼のその表情が指す理由を聞くのが怖い。
聞いてしまえば、もう戻れない気がするのだ。
しかし、前はただただ怖いと思っていた彼のことが気になり始めているのもまた事実で。

(こんなところ、早く出ていってしまいたいって思ってた筈なのに)

はぁ、ともう一つため息を落として、撫子はゆっくりと瞼を降ろす。
すると瞼の裏、酷く嬉しそうに笑うこちらの世界の彼の姿が浮かんで、ゆっくりと余韻を残して消えていった。

(彼を一人にしたくないって思うなんてどうかしてる)



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