えにしはここから
 

どこか清涼な空気を纏った不思議な客人がいらした。数日滞在するらしい。お館様の古い知り合いだとか、恩がある方だとか、いろんな噂が絶えないが、まあ大切なお客人であることには間違いない。
末端の私に関係があるのは、彼が野菜を好むのかとか食事を召し上がってくださるかとかそれくらいのことだ。
そんな杞憂はよそに、彼の膳は綺麗に平らげられていた。良い方なのだろうと思った。

屋敷は広くはない。そのため、一回の侍女である私が、客人を見かけることも少なくは無かった。
ふわりと揺れる髪はいつも結い上げられておらず、所作は美しく丁寧だった。遠くを見るように、手入れがされている庭を眺める。まるで日常の一部であるかのように振る舞う彼は、客人というには馴染みすぎているように思った。

吸い物の人参をいつもより丁寧に飾り切った。些細な盛り付けを、美しく見えるよう気を遣った。不思議とそうするべきだと感じていた。そうしなければならないような感覚であった。
いつもしている動作に、不思議と緊張が混じっているのを感じていた。背筋が伸びて、息を顰める。そんな張り詰めたような緊張感は、下げられた膳に添えられた、牡丹の花びらで霧散した。
高貴な方に歩み寄られたような、赤子に頬を擦り寄られたような、えもいわれぬ多幸感があった。そうあって良いのだと認められた気がした。

話しかけてみよう。

唐突にそう思った。末端の侍女が口を聞けば侍女頭から咎められるだろうことは理解していたが、彼の人への憧れと、好奇心が勝った。
前は急げと、暮れた廊下を早足で歩む。何を話せば良いのだろう、まずは牡丹の礼を、それから、

彼の人は、常のように庭を眺めていた。夕日に照らされた髪は赤く、眩しげに目を細めているのだろうことはわかった。

ほう、と息をのむ。言葉を失って眺めていると、彼の人はゆっくりとこちらを向いた。
「ここの子かな?」
軋んだように頷いて、お声をかけたことに対する謝罪と、牡丹の礼を述べた。彼の人は「ああ、君か」とまなじりを緩ませ、「こちらこそ、美しい食事に感謝しよう」と言った。

ぞわぞわと、腹の底が泡立つような喜びがあった。勿体無いお言葉に深く頭を下げる。彼は「調子が狂うな」と苦笑して、顔を上げるように言った。

彼の顔を見る。夕日は落ちかけていて、夜の帳が下りていた。藍と橙の光に照らされて、彼の髪は紫色に染まっていた。
「おや、きみは」
彼は驚いたようにつぶやいて、破顔した。上品に笑んでいた先ほどまでとは違って、困ったような、耐えられないとでもいうような、思いがけない笑みであった。
「そうか、きみも……ここに縁があったんだね」
首を傾げた私に、彼は続ける。
「改めて、君に礼を言わせてもらうよ。……ああ、それからひとつ、頼みがあるんだ」

精一杯、生きておくれ

そう言った瞳が、若葉のように蒼かったのは、不思議な色の夕日のせいだと思う。

それからすぐに、彼の客人は去った。
気にしているのは私だけだったようで、侍女仲間も衛士も、客人について深く覚えていなかった。確かにいたような、いなかったような、と曖昧な言葉を返すばかりだ。
彼にいただいた牡丹の花弁は、当然のように萎れて散り散りになった。

ただ一つ、覚えていることがある。
生きて、精一杯生きなければならない。

そうすれば、いずれまた、遠い先で


はて、何を思い出していたのだっけ。

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