鍛錬に集中する日々は続いた。太宰さんはめっきり姿を見せなくなり、最後に会ったのはいつだったか思い出せない。

「甘いのう。左斜め前後が隙だらけじゃ」
「左斜め前後…ですね」

頻繁に現れるようになったのは、艶やかな赤髪を簪で結った雅な女性だった。尾崎紅葉。中原さんの上司にあたる人だ。彼はこのところ双黒としてではなく、紅葉さんをアシストする仕事をしている。その暇に、こうして私の鍛錬を紅葉さんが見てくれる機会は何度かあった。

「上達するのは速いのぅ。達成する過程を丁寧になぞらえるのも、たまには良いぞ」

中原さんには聞こえないよう私の耳元で囁き、綺麗にほくそ笑まれては敵わない。中原さんと紅葉さんは仲睦まじく、暖色系の髪色と洒落た装いも二人並ぶとより一層引き立って見える。絵になるほどお似合いの二人だ。見れば、チクリと胸に痛みが走る。なぜだろう。

中原さんは仕事に出る前にここへ立ち寄る。私は二人が出かける後姿を見送り、個人練を続ける。これが最近のルーティーンだ。胸の痛みは日に日に増していた。見慣れてしまえば平気だと、思っていたのに。



異能を発動できなくなるまでトレーニングルームにいた。身体は疲れ切っているし、どこかで休みたいけれど帰る気分にはなれない。最近では中原さんを何となく避けてしまっている。

トレーニングルーム以外にも、マフィア構成員であれば使える共有スペースはいくつかある。そのうちの一つである書庫へと気儘に赴いた。書庫に人の気配はない。しかし、明かりは煌々とついている。古めかしい紙類の香りのなか、ゆっくりと本棚を眺めながら歩いていると、突き当たりの壁面に飾られている一枚の絵の前で足が止まった。

それは男女が人目を忍んで逢瀬を重ねているであろう事が窺える絵だった。男性は女性の顔を覗き込もうとし、女性は男性の胸板に頭を預けて身を委ねている。絵の中の男女を見て、なぜだか中原さんと紅葉さんを思い出してしまった。唇を噛みしめていると、背後から人の足音が近付いて来るのが聞こえた。

「こんなところで、何してるの」

久しぶりに聞く声だった。振り返れば欠伸をしながら、太宰さんが本棚の間を歩いて来ていた。

「あ…その、来ただけで。…特に何も」

ふぅん、と興味なさげに首肯して、太宰さんも絵を見つめて私の隣に並ぶ。

「もう真夜中だけど、まだいるんだね」
「なんだか帰る気分になれなくて」

思いのほか、暗い声を出していた。太宰さんはポンと手の平を拳で打つ。

「もしかして中也と喧嘩して気まずいとか?」
「…」
「あれ、当たった?」

適当に言ったのに、そう言いながら太宰さんは口元に笑みを浮かべている。私は息を吐いた。

「喧嘩はしてません。私が一方的に気まずくなってて」
「中也と姐さんがベッタリだから?」

あまりに図星をついた指摘に肩が揺れた。太宰さんを見上げると、大きな瞳と目が合い、頷く。すると彼は不愉快そうに目を細め、薄く唇を開いた。

「なんで中也なの」
「え?」
「私のためなら死ねる、って、言ったじゃない」

途中から何を聞かれているか分からずに聞き返したけれど、太宰さんには聞こえていなかったのかもしれない。彼の話に理解が追いつかないうちに、至近距離から唇を塞がれる。蜂蜜のように甘い、濃くて甘ったるい唾液に酔ってしまいそうだ。交わる唾液の味に、身体がふらつくも、背中と後頭部に回された腕に支えられている。口付けが終わると、彼には笑顔が戻っていた。

「今日の氷彗ちゃんの異能は"異能無効化"だね」

茶目っ気たっぷりに話す彼とは対照的に、私は戸惑いが隠せない。

「そうですけど、何に使えば?」
「芥川くんと訓練してもらおうかな。お互いのためになるよ」

芥川という名前を覚えていた。ビルの中で咳き込んでいた、長く黒いコートの後姿も。

「じゃ、森さんに話しは通しておくから。中也には連絡しなくても大丈夫。今日からしばらく、うちに泊まりなよ」

今後の予定は彼が舵取りをはじめた。中原さんと離れていれば、この胸の痛みはいずれ治るだろうか。

「…はい、太宰さんが良ければ、お言葉に甘えて」



簡素で飾り気は皆無だった。必要最低限の家具と、荷物があるような部屋だ。飲み物は冷蔵庫に入れさせてもらった。台所は使われている形跡がなく、大量のカニ缶が入ったコンビニ袋がシンクの台の上に放って置かれていた。

太宰さんに手招きされ、照明をつけられた部屋を覗けば大きなベッドが一つあった。

「氷彗ちゃんはここで寝て?私はソファで寝るから」
「いえ、私がソファでいいですから」
「このベッドではほとんど寝てないのだよね。私はソファの方が慣れているから…それとも、一緒に寝る?」
「…それなら、ベッドで寝ます」

クスリと笑みを零して、太宰さんは私の頭を撫で、おやすみーと間延びした声を残してリビングへと行ってしまった。
私はベッドへと入り、枕に頭を預けて布団を被る。今日1日が頭の中で早送りされたり巻き戻されたりしながら、眠りに落ちた。