目覚めると、朝日で部屋は明るくなっていた。柔らかいソファの上で毛布を手繰り寄せて身を捩る。昨晩はソファで熟睡した。ここは寝心地が良く、目が覚めても起き上がれない。このままソファに身を任せていたい気持ちと戦った。気持ちを奮い立たせて起き上がり、ソファに座って時計を見つめる。時計の針は10時15分と示している。


部屋中を見回して中原さんの姿を探したが、いない。昨晩、彼が部屋にいたときの気配がない。部屋は静寂に包まれている。まだ寝室で寝ているのだろうか。どうするべきか迷ったが、彼を起こさなければ外へ行けないのではと考え、勇気を振り絞る。ごく静かな動作で、リビングから廊下の奥へと移動した。寝室の取っ手に手をかけ、ゆっくりと押す。室内には大きなベッドが部屋の中央に構えており、その上で布団も髪型も寝相も乱し、彼は眠っていた。

広く大きなベッドをこれでもかと乱して眠る姿は、しかし見た目の悪いものではなく、むしろ色気が漂っていた。このとき中原さんが昨晩、怒っていた様子を思い出した。こんな無防備に熟睡して眠る姿を見られたら、彼はまた取り乱して怒るのではないだろうか。彼の寝顔を見つめながら、足は入り口へと後退りしそうになった。

『明日は10時に起きて、支度したら買い物だからな』

後退りしている場合ではない。寝る前に彼は言っていたではないか。時刻は既に10時を過ぎている。彼を起こさなければ、今日の買い物という予定が潰れる可能性だってある。

「中原さん!起きて下さい!」
「……」
「中原さん!もう10時過ぎですよ!」
「……」

大きな声で呼びかけながら布団を引っ張った。彼は私に背を向けるようにして寝返りを打ち、まだ寝息を立てている。これで起きてくれないのなら、身体を揺すってみるしかない。広いベッドへと膝から乗って、彼の肩を揺すって呼びかけた。

「中原さん!中原さん!起きて!!下さい!!」
「ん…」

こちらに背を向けて横向きになっていた身体は私に揺すられて仰向けに転がった。まだ眠っている顔を見ていると、自然と唇へと視線がいき、昨晩の濃厚な唾液が思い出される。

「…起きないと、キスしちゃいますよ?」

彼に顔を近付けて訊ねてみても、返答はない。本能の赴くまま、唇に唇を重ねる。舌を入れようとしたとき、身体が浮いて視界が暗転した。

「え?……いたっ!」
「俺を勝手に貪ろうたァ、いい度胸じゃねーか」

これが重力を操る異能力。軽くなった身体は瞬時に重みが追加され、今は手首を抑えられてベッドに組み敷かれていた。鋭い瞳が私を見下ろしている。

「起きてましたか…おはようございます」
「あンだけ騒がれりゃ起きるぜ。舐めたマネしやがって」
「すみません」
「あ?謝って済ませようとすンな!手前、なんで俺にキスしてたんだよ」
「美味しそうだったので」

彼は眉を寄せ、不愉快そうに表情をゆがめた。

「美味しそうだからっつー理由でするんじゃねぇ」
「ど、どうしてですか?」

昨晩から長々と説教されるのだが、どうもピンとこない。彼が何故、異能をコピーする手段でしかない事を制限するのか。

「こういう行為は好きな奴としかしねぇもンだろうが」
「好きな人と?こういう行為?」

手首を抑えられ組み敷かれながらも、首を傾げる。何と聞けばいいのかも分からないほど、胸の内にはわだかまりが残る。釈然としない。こういう行為が指すのはキスの事だろう。好きな人というのは嫌いな人の対義語だから、そういった人達とだけしか、という意味だとする。これを繋げるとキスは好きな人達とだけしかしない行為である。となる。けれど、それは何故?

「わかったら、気持ちがない奴に自分からするな。命令だ」
「命令!?」
「俺の命令だ。首領以外の人間には、この命令は反故できねぇからな」

彼はさっきの説明で私が全て理解したと思っているのだろうか。言われてみれば首領からは彼に服従するよう命令されている。ポートマフィアとは融通の効かない組織だ。

「では、異能を使うときに必要な場合はどうすればいいですか」
「相手からしてくるのを待てばいいだろ。首領の命令なしに、ポートマフィアの連中の異能は使わせない」
「足りないときは?」
「ねだれば、首領の命令下でなら誰でも言うこと聞くぜ」
「中原さん、もっと下さい」

足りない。彼の異能を使うにはもっと欲しい。それを率直に伝えれば、彼はすぐに動いた。両手を頭上にかかげられ、両手首が重なり片手で固定される。彼の舌が深く侵入してきて、角度を変えて何度も口内へと唾液を注がれる。それを全て受け入れるために、何度も顎を上下し、唇を合わせ、舌を絡めて吸いとった。

「これで、満足かよ」

異能は解かれた。互いのやや不規則になった呼吸を聞きながら、頷く。私が頷いたのを確認すると、彼はベッドからおり、寝癖のついた髪を掻き梳かしながら寝室から出て行った。



昼間の街中に初めてやって来た。行き交う人々の服装はポートマフィアのビル内とは違い、様々な色や出で立ちで見ていて飽きない。今日は中原さんも外套、スーツ、ブーツは身につけず、街中の人達と同じように着心地の良さそうな服を着ている。彼の服装はすれ違う人達の中でもお洒落なものだ。初めて人混みを歩いた私にも分かるくらい。その隣を、昨日と同じ黒のロングブーツに黒い短パン、白シャツ、黒ネクタイというシンプルな服装の私が歩いている。

最初に入ったのはポートマフィアが運営している銀行だった。受付で中原さんは何事かやり取りすると5分もかからず戻って来た。私の通帳だとノートとカードを手渡された。買い物に使うカードも一枚もらった。買い物をしたらこのカードに記録が残り、通帳からお金が引かれるという。お金は通帳か通帳用のカードを通して出し入れするらしい。

「お金はどれくらい要りますか?」
「ある方がいいが…ポートマフィアにいれば金額の心配はねぇな」

次に入ったのは携帯ショップだった。最新の物を買い、さっそくカードを使った。携帯の使い方は電話機能だけ中原さんに教わった。登録されている番号はポートマフィアと中原さんのみだ。携帯を買うのに手続きが多く、だいぶ時間が経ってからお店を出た。

「おし、何か食べたい物あるか?」
「パフェが食べたいです」
「却下。飯の時間に洋菓子だァ?他は?」
「パスタが食べたいです」
「それでいいな。場所は少し離れてるが、向こうに店がある」

中原さんについて来たお店はガラス張りで、店内の内装が外から見えるようになっている小粋なお店だった。テーブルクロスの柄や店内のライトのさじ加減までデザインされているようだ。それでいて店内は賑やかで、馴染みやすい。パスタの他にもデザートにミニパフェがあったのでそれも注文した。中原さんは食事は会話をする時間にしているようで、今日の予定や、通帳やATMの使い方などを話しているとあっという間にご飯を平らげていた。

食事の後は美容室につれて行かれた。髪は今まで適当に鋏で切っていたと言うと、中原さんは驚いていた。カットが終わったら電話をしろと言い残し、彼は私を美容室に入れてどこかへ消えた。美容師さんと話し合い、3cmほど短くして、あとは切り揃える程度のカットにした。美容室でもカードを使い、お店を出てから電話をかけた。

「中原さん?髪切り終わりました」
「早いな。今どこにいる?」
「お店の近くです」
「よし。迎え行くからそこから動くなよ」

電話は中原さんによりプツリと切れた。美容室は海に面したレンガ道にあり、私は周りを見渡してベンチを見つける。数歩あるけば、座れる距離だ。丁度よく人もいなかったので、ベンチに腰かけると、目の前には海面が広がっている。海とレンガ道の境には柵が付いていて、その柵越しに海面が陽の光を反射させて煌めくのを眺められる良いベンチだった。

「氷彗ちゃん、やっほ〜」
「え、や、やっほ〜…?」

そこで揺れる水面を眺めながら中原さんを待つはずが、ベンチに腰掛けてまもなく聞き覚えのある声が後ろからした。振り返るまでもなく、いつのまにか太宰さんは私の隣に腰を下ろしている。

「あれ?昨日より綺麗になってるね」
「髪を切り揃えたのです」
「は〜、なるほど。はい。片方だけ耳にかけるとお洒落に見えるよ」

身を乗り出して私の顔を覗き込み、太宰さんは指で私の髪を片方の耳にかける。されるがまま、その動作を終始みつめていると、太宰さんはニコリと愛想良く微笑んだ。

「うん。こっちの方が可愛い」
「では、髪は耳にかけますね」
「そうしなよ。ところで、今日は外に居たみたいだけど、何してたの?」
「中原さんと買い物をしてました。太宰さんは?」

今日は風が吹いている。潮風に弄ばれる髪を耳にかける。私の仕草を目で追いながら、彼は自分の事を訊ねられると肩を落として口をへの字にした。

「私はさっき一仕事やって来たんだけどね。森さんに、中也への伝言と君の監督を依頼された」
「私の監督…?」
「太宰!何で手前がここにいる!?」

太宰さんにした質問は、左手のレンガ道から肩を怒らせて歩いてきた中原さんに遮られた。噂をすればだねと私に目配せしてから、太宰さんは中也さんに応答する。

「首領に中也への伝言と、氷彗ちゃんの監督を頼まれてね」
「伝言?何故ここが分かった?」
「さすがに鋭いな。昨日、氷彗ちゃんの服に発信機を付けといたんだ。もしものためにね」

ひとっ飛びして私と太宰さんが座るベンチの前に、中原さんは仁王立ちした。レンガの地面に着地する際に、地鳴りと地割れを起こすくらいには勢いがあった。彼は腕を組んで太宰さんを見下ろしている。太宰さんは私のシャツの袖口から小さなマイクロチップのようなものを手品のように取り出してみせた。中原さんは気に入らないとばかりに大きな舌打ちを打つ。

「また得意の細工か。それで?首領からの伝言は?」
「氷彗ちゃんの体質についてと、今後の対応を君にも話すから来いってさ」
「なるほど。手前は知ってるんだな」
「当然でしょ」

太宰さんは何の感情も篭っていない無表情で、中原さんは胸糞悪いと顔に書いてあった。この二人まさかいつもこんな感じなのだろうか。昨晩と今日で二人がお互い発している空気は変化していない。

「天方、残りの買い物は分かってるな。そいつと行って来い」
「はいはーい、任せなよ」

中原さんに声をかけられ答えようと口を開いたが、太宰さんが先に私の代わりに歌うような口調で返事をした。ご機嫌な太宰さんを、野獣のように獰猛な目つきで中原さんは睨みつけている。

「手前は信用ならねェが、首領と天方は手前よりマトモだからな」

そう太宰さんに吐き捨て、彼は踵を返して飛んで行ってしまった。太宰さんは大きく腕を伸ばし、気の抜けた様子で破顔した。

「じゃっ、そういう事だから!私と買い物に行こうか」

身軽に立ち上がった太宰さんは私に手を差し出す。その手を取って、私も立ち上がる。

「手を繋がなくても歩けますよ?」
「いーや?君は中也の異能をコピーしているんだろ。森さんから聞いたよ」

私の手を引いて太宰さんは歩き出した。それに倣って隣を歩く。

「中原さんの異能は重力操作、ですよね」
「そうだね。中也の異能は暴走しやすい。初心者の君がいきなり汚濁を発動しかねない」
「汚濁…」

昨晩、彼から唾液をもらったとき取り乱していた姿を思い出す。汚濁とは彼の異能の別名だろうか。一体、どういう異能なのだろう。

「私の異能は"人間失格"と言ってね。全ての異能を本人に触れれば無効化できる。私の異能無効化に例外はないよ」
「ああ、なるほど」

車を降りてすぐに手を差し出した彼と、ベンチから立ち上がるときに手を差し出した彼が重なった。繋いでいる手を握り直す。

「昨日も、今日も、私が異能を使えないように、手を繋いでいるんですね」
「半分正解」

強張った声で話す私とは対照的に、太宰さんはずっと柔らかな声で話している。背が高くて、声が綺麗で、顔立ちも整っている。見た目は申し分ない彼は腹のなかでは何を考えているのか。謎めいた彼を見上げて、ふと包帯が気になった。繋いでいる手で彼を引き寄せ、もう片方の手を頭の包帯へと伸ばす。すると彼は慌てて立ち止まり、私に向き合う。

「わっ、え?何?」
「太宰さんは包帯取っている方がいいですよ」
「えー…これは私の大切な一部なのに」
「私は太宰さんの整った顔が綺麗で好きです。だから、包帯を取って下さい」

彼の頭に巻かれた包帯の先端を何とか取り、引っ張りながら言った。包帯を引っ張られ、猫背になって屈む姿勢で私を見る彼の顔は、口をへの字に引き結び眉を八の字にしていた。包帯を取って、大きな二つの瞳が揺れるのを見て、私はやっぱり取った方がいいと得心する。

「君、天然って言われない?」
「今、太宰さんに言われました」



洋服屋さんでは何枚かの私服と、レースで装飾された上品な黒い手袋と、パジャマを購入した。太宰さんと服を選んでいると、声をかけてくれた店員さんには彼と兄妹だと間違われた。
小腹が空いたと呻きはじめた太宰さんは、通りに出ているアイスクリーム屋さんに私の手を引いて駆け込んだ。そこはカップルにサービスで小さいサイズのアイスを一つ追加する期間中だった。私達は手を繋いでいるためあっさり恋人認定され、太宰さんには小さいサイズのアイスを私にあげると勧められ、2人で分けて食べた。
家具屋さんではシングルベッドを購入した。帰宅時間が被るとは限らないので、いつまでもソファで寝られないと中原さんに指摘されていた。私がソファのお会計のため並んでいる間、太宰さんは入口付近に飾られていた洒落た丸椅子に魅せられていた。しかし話しを聞いてみれば、この丸椅子は首吊り自殺に最適な最期の時にピッタリな椅子かもしれないと言い出したので、彼が購入する前に手を取ってお店から引きずり出した。




「たくさんカードで買い物しましたけど、お金は本当に足りるでしょうか」

帰り道。先ほどのレンガ道を歩いて戻っていた。夕刻になり、水面は太陽の光でオレンジ色に煌めき、空は赤味がかった橙色になっていた。

「ん?いや、だいぶ減っただろうねぇ」
「ポートマフィアにいれば、お金の心配はないんですよね」
「まあね。けど、お金貯めたいなら、方法はあるよ」
「どんな方法ですか?」

何事か企む含み笑いをして、太宰さんは人差し指を立てて私に提案した。

「カジノさ。君に向いてるゲームがあるよ。良かったら、私がルールを教えてあげる」