見張りの警備員達を通り越し、エレベーターへと悠然と歩く。天方は後ろから付いて来ている。俺の足並みに合わせ、踵の高いブーツが床に触れる気配があった。天方は俺の傍にいる間、このまま黙っているつもりだろうか。静寂に耐えきれず、自ら口を開いた。


「腹減ったな」
「はい」
「何か食ってくか」
「くってく?」

こちらとしては当たり障りない会話を試みようとしたのだが、通じていない。天方を伺えば、悪魔で表情は変えず目を瞬かせている。なかなか厄介な面倒を引き受けた事に、ここで初めて思い至った。おもわず帽子を被ったまま、溜息混じりで頭を掻いた。

「食事だよ。本当に何も分かってねぇんだな」
「…すみません」
「あー、謝るな。調子狂うから。首領からの命令でお前の面倒は俺が見ることになってる。言っとくが、ここでは首領の命令は絶対だ。覚えとけよ」

天方に人差し指をさし向け、ポートマフィアでの流儀を突きつけた。掟が何より優先される組織だ。これを破る者は簡単に殺処分されるのも、すぐ知る事になる。

ビルから一歩外に出るとき、天方に羽織っている上着の裾を掴まれた。立ち止まっても裾を掴んだまま、声をかけてこない。仕方なく振り返ると、暗闇の中で淡く透き通る自動ドアを背景に天方は俺の上着の裾を摘んで突っ立っていた。

「…なんだ。まだ、ここに用事でもあンのか」
「このまま掴んでいたらダメですか?」
「ああ?羽織りもの掴まれてちゃ歩きにくいぜ。なんでだよ」
「ビルの外に出るのは、今日が初めてで」
「俺の傍にいろ。服を掴まなくても、それで十分だろ。行くぞ」

天方の言葉の先を遮るように、上着の裾を掴む手を払って言った。踵を返し、大股で歩みを進める。天方は素早く俺についてくる。
太宰と手を繋いで歩いていたのが、少なくとも天方にとっては楽で安心できる事だったのだ。その事実を得たと同時に、太宰が天方を甘やかし天方が太宰に甘えていた時間があった事に苛々が募った。





「中也に女性の生活全般を支えるような甲斐性があるとは思えないよ」
「部下の面倒見はいいけど、すぐキレるんだから…森さん、聞いてる?」

2人が部屋を出て行った後、太宰は首領に中原の陰口を叩いていた。眼帯と包帯を頭に巻き、片腕に武器を包帯で装着しながら。首領は冷たい瞳で彼を諭した。

「私は、君に、中也くんと天方くんが同棲するよう話の流れを作れと言ったはずだよ」
「そうしたじゃない」

首領の咎めるような口調に、太宰は大した事ではないという風に肩をすくめてみせる。首領の追求は続いた。

「さっきの呟き、聞こえていたよ」
「中也はあの一言じゃ演技に気付かないよ。私がいつも中也に言ってる口癖みたいなものだしね」
「本心だったんだね」
「うん。だって…私が先に見つけてスカウトした子だし。友人に雰囲気が似ていて、一緒にいるとき癒されたんだ」

太宰は首領の背後を彩るヨコハマの夜景を楽しげに輝く瞳で見つめていた。この街のどこかに彼女がいるのが面白いという風に。首領は小机の資料へと指を滑らせ、中身に目を通すと苦笑した。

「部下の春を眺めるのも一興だがね…天方くんが気になるのなら茨の道だよ」

首領は目を細め、資料を手に取って読みはじめた太宰の様子を盗み見てから小声で囁いた。

「あの子にとっては今日が終わりの始まり、か」






自宅であるマンションの高層階へと天方を連れ帰った。買い物や外食へ初心者の天方と行くのは気乗りせず、今日は冷蔵庫にあるもので料理を作る。晩飯は親子丼と味噌汁と漬物でいいかと確認したところ、頷いてありがとうございますと礼を口にした。食べ物の名前は覚えているようで、説明する手間が省けて安堵した。あの破壊したビル内での生活がどんなものだったかは知らないが、食事は提供されていたのだろう。天方にはカップを渡し、冷蔵庫にある飲み物は何でも飲んでいいぜと許可した。

「何か手伝う事ありませんか?」
「ああ?手前は料理したことあんのかよ」
「ありません」

凛々しい面持ちでキッパリと言い切られた。天方は料理を甘くみているに違いない。怪我でもされたら面倒だ。まずは料理をしている姿を見せた方がいいのだが、今日はさっさと飯食って風呂入って寝たい。

「そんなこったろーと思ったぜ。いいから、あっちで待ってろ」
「でも、」
「俺の飯が食えねェっつーのか?」
「…待ってます」

冷蔵庫から取り出した材料を水で洗いながら手を振って天方を隣から追いやった。緩慢な動作で冷蔵庫を開け、グラスに飲み物を注ぎ、天方はリビングへと去っていく。

手早く調理し、出来上がった料理は天方が器によそってテーブルに配膳した。俺はお椀を持って親子丼を掻き込む。天方は手を合わせて頂きますと礼儀正しく挨拶してから食べ始めた。箸はつつがなく進んでいるようだが、気になって訊ねる。

「…手前は飯のときも喋らねンだな?」
「食事のときにお話しても良いんですか?」
「別にいいだろ。普通は話しながら食べるぜ」

普通は、と言ってしまってから眉を顰めた。天方が普通ではないと言い切ったようなものだ。事実ではあるが、自分が言われたら嫌悪感を覚える。天方の方を伺えば、頬張っている親子丼を咀嚼し、飲み下して、口を開いた。

「私、こんなに美味しい親子丼食べたの、初めてです」

表情に乏しい天方が微笑んでいるように見えた。合わさった視線はお味噌汁のお椀へと移り、食事を続ける彼女は天然なのだろうか。

「別に、普通だろ」

小声で普通という言葉を繰り返せば、さきほどは何の反応も見せなかった彼女と再び目が合った。彼女にも主張があるのか語気を強めて美味しいですと繰り返した。

「そうかよ!親子丼くらいいつでも作れるぜ」
「本当ですか!?明日も?」

そんなに褒められるほど手間暇のかかった料理じゃないという内容が、彼女には全く違う風に捉えられている。箸の手を休め、瞳いっぱいに食卓ランプの明かりを光らせて俺にそそがれる視線が眩しい。

「明日は買い物に行く。外食だ。あとな、毎日同じメニューなんざ俺は真っ平御免だ」
「そうですか…買い物?」

出た。世間知らず。目の前にいるのは今日まで外へ出られなかった人間だというのを思い出す。味噌汁を一気に煽って平らげ、面倒な説明は端折った。

「ついてくりゃ分かる。買い物は買い物だ」

天方は口に含んだ親子丼を飲み下してから、買い物ですねと反復し、分かってもいない癖にしたり顔で頷いていた。不意に、自宅の食卓ランプがオレンジかかった温かみのある明かりなのだと、天方と食事をして初めて目に留まった。俺は空の食器を下げるべく、席を立つ。食卓で誰かとご飯を食べて満たされるなんて、何年ぶりだと思い返しながら。




天方が食器洗いをしている間に先にシャワーを浴びた。湯船が大きくて風呂を入れるのは時間がかかる。今日は天方もシャワーでいいだろう。髪と身体を洗って上がり、全身を適当に拭いて、下半身はパジャマに着替えて濡れた髪のまま天方に声をかけに向かった。

「おい!次は手前だ」

天方は食器洗いを終わらせており、きらきら輝く瞳で窓の外を矯めつ眇めつ眺めている。

「おーい、聞こえてんだろ?」
「はい。今、行きます」

言動と行動が一致していない。腰に手を当てて一部屋向こうから声をかけていたのだが、天方が言う事を聞かないため溜息をついて窓際へと進み出た。

「とっとと入っちまえよ!ここで暮らしてりゃ、この景色は毎日見るんだぜ。そのうち飽きる」
「飽きたんですか?中原さんは」
「まあな」
「明日は"買い物"で外に出られますか?」
「買う物が多いからな。朝から晩まで外かもな」

そう言うと天方はようやく窓から顔を逸らし、口元を緩ませて軽やかな口調で囁いた。

「楽しみです」

そうして俺の横を優雅に過って行く。その後姿に、髪を拭きながら、タオルは置いてあるの使えよと言った。



天方はシャワーを浴びるのに時間を要していた。無理もない。血溜まりや煙たちこめるビル内から出てきたばかりである。俺は髪をドライヤーで乾かし、上半身もパジャマに着替えてソファで寛いでいた。サニタリーからようやく天方が出てきた気配がする。しばらくして、台所で冷蔵庫の開く音も聞こえた。台所の方を振り返ると、なんと天方は上半身裸で何食わぬ顔をしてカップに飲み物を注いでいた。

「ンなっ…!!」
「はい?」

咄嗟に言葉にならない声を上げると、やはり上半身裸で天方がこちらの方を向く。ソファに置いてあったクッションを投げつけた。

「服を!!着ろーーーー!!」
「はい?着てますが」

慌てていたとはいえ、それなりの速度で投げつけたクッションを天方は余裕で両手を使って受け止めた。クッションで天方の女性らしい部分も隠れた。

「上だ!上を見ろ!着てねェだろ!!」
「はあ…中原さんも上半身裸だったじゃないですか」
「俺は!男だ!!」
「知ってます」
「手前は!!女だろ!!!」
「そうですが」
「男と!女は!違う!!!ふ・く・を・き・ろ!!」
「…分かりました」

天方に言う事を聞かせるのに逐一説明をしなければならないのか。サニタリーへと引っ込み、天方が白シャツを着用した後も、さきほどの裸が重なって何となく直視するのにさえ罪悪感が生まれた。なぜ俺が小っ恥ずかしい思いをしなければならないのか。髪を乾かしてきた天方に、衝撃の興奮冷めやまぬまま、くどくどと男女が生活する上で守るべき事を言い聞かせた。そして理解が追いついていなさそうな天方に苛々して舌打ちした。

「たくっ…手前に俺の異能をコピーさせたらな、みっちりしごいてやるから覚悟しとけよ」

忌々しげに天方を見やり、憎々しげに申し渡せば、天方の睫毛が揺れる。

「中原さんの異能を使わせてもらえるんですか?」
「そうだぜ。聞いてなかったのかよ…早くて明後日には特訓するからな」
「わかりました」

すると天方の手に腕を引かれ、間も無く頬にするりと手を添えられ、唇に唇を寄せられた。

「は?」

天方の動作には前触れというのがない。そういうのを感じさせない自然さに思わず溢れた声、僅かに開いた口に舌が入ってきて唇が重なり、深く口付けられた。

「ンん"っ」

身体を跳ね除けようと天方を押したが、異性とは信じ難いほど微動だにしない。仕方ないので思い切り突き飛ばせば、やっと剥がれた。

「なっ…なっ…何しやがる!」
「中原さんは美味しかったです」
「はァ!?意味わかんねェよ!」
「えっと…そうですね、味噌と味噌バターの違いです」
「違ェよ!味の問題じゃねェだろが!!」
「異能を使わせてもらうには異性からは唾液を、同性からは血液を頂きます」

開いた口が塞がらないとはこの事だ。顎の関節がいかれて、わななく唇を抑えようにもどうにもならない。感情の起伏も乏しそうな彼女が陰鬱なる汚辱を暴発させるとは思えないが、身を翻してリビングの家具の上に放置した手袋を掴み、天方に向かって投げた。

「それ、つけとけよ」
「…手袋を?」

無茶ぶりで投げつけた手袋を器用に受け取り、天方は首を傾げながら手袋をはめた。大きさが合っていないが小さくなければ佳い。

「俺の異能名は"濁れちまった悲しみに"つっーんだが、重力操作だ。触れたものの重力を操る」
「重力を、操る」
「初心者に使いこなせるか甚だ疑問だが?念のためにな。異能が勝手に発現したとき、多少は役に立つだろうぜ」
「異能を使うには、媒体を頂いてから1日前後の時間がかかります」

芥川から情報が入る前に、彼女から情報が入ってくるとは。機械のように淡々と専門用語を交えて解説されるが、正確さは定かではない。だが、本人が言うからには大体そうなのだろう。初対面の相手にここまでペースを乱されたのにも苛々し、寝室から枕と毛布を引っ張って来て、天方に押し付けた。

「手前は今日はこのソファで寝てろ」

天方は頷き、枕と毛布をソファの寝やすい位置へと配置する。

「俺は寝室のベッドで寝る。明日は10時に起きて、支度したら買い物だからな」

リビングの時計を指差し、天方に背を向けて寝室へと下がる。おやすみなさい、という彼女の声は聞こえていたが返事はしなかった。早々と寝室に引っ込んだのは彼女とのやり取りに疲れたからだ。案の定、その日は夜中の3時頃まで眠れなかった。