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凛さんにお願いされ名前呼びする事になった昼休みの次の授業は化学だった。先生が板書している微睡んだ空気の中、いつもなら食後で周りと同様に眠たくなる時間だが今日は目が冴えていた。
まさか凛さんの口からヤキモチにも似た感情を聞けるとは思っていなかった。名前で呼んでとお願いすれば満たされてしまう、そんな単純な事のようだったけれど。いや、都合良く考えすぎか。彼女に寄せる好意が自身を現実に引き戻す。購買で密着した後に頬が赤かったのは人混みの中で暑かったのかもしれない。名前で呼ぶ事になったのも、名前で呼ばれる方に慣れているだけなのかもしれない。どちらにせよ彼女の気持ちが分からないのだから、後者の解釈が無難。
それよりもご飯を食べるときに特に何も話さず、よそよそしい態度をとってしまった事は謝りたい。きっと凛さんは嫌な気持ちになっただろうから。




。。。。




部活前に木兎さんが意気消沈しているのを久しぶりに見た。部室のベンチで項垂れていた彼に昼休みに避けた事を謝ると、はじめは膨れ面で突っぱねられたがすぐに快く許してもらえた。

「ま、調子良くない日もあるよなー!」
「はい。木兎さん、すぐ練習はじめられそうですね?」
「おう!部活前にスパイク練するか!?」
「いいですけど、ストレッチしてからですよ」

部室の床で互いにストレッチをはじめる。脚を開いて、前屈みで床に向かう木兎さんの背中を押してストレッチを手伝っていた。そこへマネージャー達がやってくる。

「いた〜赤葦、昼休みぶり〜」
「…どうかしました?」

尋ねると、今マネージャー達は一年生の中でも有望株、つまり尾長が大人しい性格であまり部に馴染めないのではと心配していた。部内一の長身の新一年生に何としても部に溶け込んで欲しい。逃したくない。そういった内容だった。

「やる気がない奴は残ってもダメだろー!使えねーよ」
「木兎さんっ!」
「わーかった、赤葦も気にしてるみたいだし、俺から話しかけるなー」

木兎はマネージャー達に背を向け、片手をひらひらと振りながら部室を出て行く。その後ろをマネージャー達に軽く会釈してから赤葦はついて行った。



。。。



部活後、コンビニでレギュラーメンバーは尾長も誘って小腹を満たす買い食いをした。そこでオニギリを買って食べたので空腹は紛れた。春先はまだ肌寒い。汗をかいた後の身体では殊更に。駅から出て、自宅までの帰り道に入ったところで携帯を取り出した。凛さんのLINE画面を開き、通話ボタンをタップする。数回の呼び出し音のあと、電話越しから初めて聞く声が耳に届いた。

「もしもし、赤葦くん?」
「はい。今、電話できますか?」
「うん、大丈夫だよ」

電話をかけるまでは初めて彼女にかけるのに抵抗があり躊躇っていたが、明日のお昼休みまでには自分の中のわだかまりを解消してしまいたかった。しかし電話越しから聞こえる彼女の声に、そんな心配は払拭された。いつもの家路の街頭の灯りも、優しく光っているように見えた。

「昼休みの事なんですけど」
「お昼休み…」
「飯食ってるとき、俺ほとんど何も話さなくて…すみません」

謝ると、彼女の声は面白そうに口元が綻んでいる口調に変わった。嫌な気分にさせてしまったのでは、というのは杞憂だったようだ。

「そんな謝らなくても!時間もなくなってたし、食べる量も多かったから急いでたんでしょ?」
「それもありますけど…」
「ん?」

嗚呼、今の"ん?"はヤバイ。電話越しに可笑しそうに微笑んで小首を傾げる彼女を想像してしまった。

「凛さん」
「はい」
「凛さん」
「…」
「凛さん、俺も下の名前で呼びたいんですけど、そうすると一緒にご飯を食べてる木兎さんも凛さんを下の名前で呼ぶと思うんです」
「そうだね」
「それは嫌です」
「え、なんで?」
「わからないならいいです。凛さんを名前で呼ぶのは、周りに人がいない時にします」
「うーん…そっかぁー」

彼女はとても残念そうに唸る。その反応や名前で呼んで欲しいという気持ちが可愛くて仕方ない。名前で呼びたいという気持ちが伝わるよう、最後にもう一度だけ名前を呼ぼう。

「じゃあ、おやすみなさい。凛さん」

電話を切った指は春の夜風に晒され、冷えてしまっていた。

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